ファンタシィ・フェイダ・ウェイ/八
陶酔してしまいそうな甘い薫りはコウヘイとここに訪れた時と同じ、あるいはそれ以上の濃度でスクリュウの周りを取り囲む白蓮から溢れ空気に満ちていた。森の一本道を抜けその甘い薫りを嗅ぐことによってアオは謎の女によって狂わされていた冷静さを取り戻した。いや、ヒステリックが甘さによって薄められて隠されて廃棄されたのだろう。少女がチョコレートを噛み砕いてヒステリックを抑えるよりももっと強い効果が白蓮にあってアオに効いたのだと思う。しかし一体どうしてアオはあんな風に取り乱したりしたのだろう。なんだか聞くのも違っているような気がしてユウリは黙っていた。
正直言えば、アオの豹変が少し怖かった。
見たことのない顔をしないで。
聞いたことのない声を出さないで。
驚いてしまうから。
せっかくのデートなのに冷めてしまうよ。
スクリュウを見てなぜか急にヒステリックになって叫んでしまったユウリの方もアオを驚かせてしまったと思うけど。
ま、お互い様ね。
でもね。
ユウリは少し冷めてしまっているの。
白蓮を見てもユウリの心はあんまり踊っていなくて渇いている感じ。
「綺麗、」アオは弾んだ声で言った。その声にユウリは少し無理を感じた。「ユウリはこの景色を私に見せたかったんだね、こんな綺麗な場所がこの世にあるなんて信じられないわ」
「白蓮だよ、甘い匂いに気を付けて、酔っちゃうから」以前コウヘイがここでユウリに言ってくれた台詞だと、言った後に気付いた。
「酔うの?」アオは少しとろんとした目をユウリに向ける。
「うん、酔っちゃうんだよ」
「どんな風に?」
「そりゃあ、もう、」ユウリはわざと剽軽な声を出した。「べろん、べろんだよぉ」
アオは目元を細めてクスリと小さく笑う。すぐに笑顔を消して自分の髪に指を入れてユウリの車椅子のタイヤの溝を見た。「ごめんね」
「……何が?」ユウリは少し考えてとぼけたふりをした。「なんで謝るの?」
「私はどうしてもユウリを、」そこでアオは深く息を吸って大きく吐いた。「失いたくはないの」
ユウリは少し照れていた。「酔ってるの?」
「酔ってないよ、」アオは目を瞑り首を横に振った。「少し頭がぼーっとするけど、全然平気」
「それって酔ってるんだよ、気を付けて」ユウリの声のトーンは少し高くなっていた。ユウリも少し酔いを自覚する。
「ユウリには危機感が欠けているんだと思う」アオは目を見開き真剣な口調で言う。
「急に何?」
「ユウリは自分では思ってないのかもしれないけど、無防備過ぎるんだよ、変な女と簡単にしゃべって、無視すればいいのに、会話を続けて、私、ひやひやしたよ、もし変な女がユウリに変なことをしてユウリが大変なことになったらって思うと、もう気が狂いそうになって、正常ではいられないのよ」
「だからって叩くことはなかったと思うけど」
「ええ、それは少し、反省してる、けど、ああ、とにかくそれにしてもね、もっとユウリは自分を大事にするべきよ」
「自分のことをぞんざいに扱っているつもりは毛頭ございませんけど」アオの忠告を鬱陶しいと思ってユウリの唇は尖った。
アオはその唇の形を見て、どうして私の忠告を素直に受け入れないの、という風に大きく溜息を吐いた。そして早口で言う。「ユウリは凄く可愛くて素敵よ」
「え?」
「だからユウリは狙われやすいのよ、それを自覚して、事実、男子に告白されているし、ユウリ、きちんと拒絶しなくっちゃ駄目よ、優しさなんて見せちゃいけない、はっきり拒絶して、相手にユウリの生涯に必要のない存在だって分からせてあげなくちゃ駄目なんだよ、とにかくもっと危機感を持たなくっちゃ」
「危機感は、確かにあんまり、ないかもしれないなぁ、私、心配性だけど、そうね、心配性は危機感とは違うかも、危機感ってあんまり意識したことないわね」
「そうでしょ、危機感がないのよ、ユウリには」
「でも必要ないと思う、いつも何かに警戒しながら生活するのはちょっと、面倒だよね」
「どうして分かってくれないのかな、」アオは額を掌で押さえ涙声みたいな声で言う。「私はユウリを失いたくないの」
「そんなに簡単に私はこの世から失われるつもりはないけど」
「ユウリが私の前から消えてしまうことを考えると怖いの、」アオの頬に一筋涙が走り、涙声みたいな声は涙声だったのだとユウリは気付く。「怖くて溜まらないの、私がずっと傍にいて守ってあげれればいいのだけれどそうはいかないでしょ? 学校も違う、帰る家も違うんだから」
「酔ってるんだ、だからそんなことを考えちゃう」
「違う」
アオは強く否定して泣き顔を見せた。
白蓮の匂いに酔って涙を流してアオの目元、頬、鼻先はピンクに染まっていてユウリはドキッとなった。
凄く綺麗な泣き顔が訴える。「酔っているのかもしれない、でもそれは、私の心なの、嘘じゃないの、本当なの」
そしてアオはユウリの前で両膝を付き、ユウリの太股の上に突っ伏して「うぐぅ」と掠れた声を発しながら泣き始めてしまった。
ちょっとどうしたらいいか分からなくなりました。
「ああ、もう、よしよし、大丈夫だよぉ、」ユウリはとりあえずアオの頭を撫でながら慰めた。「大丈夫だからぁ、お願いだから泣かないでよぉ」
アオの髪は凄く潤っていて触っていて掌が磨かれるようだった。それが気持ちよくてユウリは、しばらく彼女の頭を撫で続けていた。
泣き声はいつの間にか消えていてアオはユウリの太股の上に顔を乗せてスヤスヤと寝息を立てていた。
酔って寝ちゃった?
もう、しょうがないんだから。
端から見たらちょっとやらしい光景だな、ってユウリは思ってニヤリと笑う。しかしスクリュウの袂、海の如く白蓮咲き乱れる中でのこれって何か太古神聖な儀式かもしれないな、と思ってそう思った自分が可笑しくなって「んふふっ」と声を出して笑ってしまった。
しかしやっぱり、ちょっとどうしたらいいか分からなくなりました。可愛らしい寝息を立てて眠っているアオを起こしてしまうのは可哀想。だからといってこのままアオが自然に目を覚ますのを待っているのも身動きとれないのでちょっと辛い。
「あら、どなた?」
聞き覚えのある声にはっとなってユウリは顔を上げた。そこにはドレスのようにフリルの数が多いワンピースを纏ったゴールド・ブロンドの英国淑女が立っていた。以前ここに来たときにも会ったことのある骨董屋のマリエ・クレイル。ユウリが愛している大天使アプリコット・ゼプテンバに凄くよく似ている人。いや、もしかしたら本人なのかもしれない。彼女は否定するけれどその疑いはユウリの中に小さいとはいえまだ完全に消えていない。その証拠にやはりゼプテンバに凄くよく似ているその顔を見ると体がビクっとなって震えてしまうのだ。心臓が揺れるのだ。「……あ、お、お久しぶりです、マリエさん」
「あら、もしかして、」彼女はユウリの顔をその大きくて青い瞳に映して言う。「ユウリちゃんなの? 髪の色が違うから、分からなかったわ、その髪、どうしたの?」
「スプレで染めて、たまにやるんです、ゼプテンバ様になりたくって、いわゆるコスロテってやつです」
「足、どうしたの?」
「あ、ちょっと転んじゃって」
「あら、可哀想に、あ、もう一つ、聞いていい?」
「はい、」ユウリは歯切れよく返事をして笑顔で頷く。「もちろん」
「その娘、何してるの?」
ユウリは言われてアオがユウリの太股の上に頭を乗せているっていうやらしい光景をマリエに見られていることに気付き体が熱くなって顔も熱くなった。「あ、いえ、これは、その、アオちゃんは別に眠っているだけで」
「あ、眠っているのね、とても器用に眠るのね、その体勢、辛そうよ」
「はい、そうです、とにかく眠っているだけなんです、だからその、べ、別にやらしいことなんてしてませんからねっ、本当にしてませんからね」
「あら、やらしいことって、ユウリちゃん、なぁに?」マリエは目を狐みたいに細め口元を指で隠して意地悪に聞いて来た。




