ファンタシィ・フェイダ・ウェイ/六
天体史家の武村コウヘイと以前一緒に通ったルートで、ユウリとアオの二人は塔の遊園に向かった。同じルートだったから、他に塔の遊園に行くルートってきっとないんだけれど、ユウリはあのときの心を思い出さざるを得なくなって辛くなった。あのときのユウリは浮かれていた。コウヘイのことが好きだった。でも今はそうじゃないから思い出すと痛みが小さく心臓に走った。でも吐きたくなるほど辛くはなかった。コウヘイとは一応、ユウリなりに精一杯の決着を付けたつもりだ。もう精算は済んでいる、という状況。それにユウリは今、アオと手を繋いでルート上にいる。塔の遊園へ二人はデートに行くんだ。愉快でない理由なんてない。しかしその色ははっきりしていない。
「そう言えば、初めてのデートかな?」
錦景市駅の錦景山行きの午前九時三分発の電車をホームのベンチに座って待っていたとき、アオはそのことを指摘した。ユウリの心臓の痛みはここがピークだった。ユウリはなんてったって、まさにこのホームで死のうとしたことがあるんだから。電車に飛び込んで消えてやろうって本気になったことがあるんだから。コウヘイが迫る電車に飛び込もうとしたユウリの手首を掴んで引っ張ってくれなかったらもう今も未来も何もかもないんだから。ユウリはコウヘイを愛していた歳月のことを考えたくはない。考えれば頭が痛くなる。でもユウリの今があって、アオとこうして初めてデートをしている幸福を味わえば、どうしたって彼に恩を抱かざるを得ないわけだ。ユウリの心は屈折してくる。コウヘイへの精算は済んでいるのだか、まだお腹の中で消化されずに淀み残って排泄されていないものが確かにある。素直な少女なら、何もかも、簡単なのかもしれないね。純粋なことなのかもしれないね。しかしでも、ユウリにとっては複雑、難解な状況なのだ。だから忘れたい。逃げたい。でも今度、天体史についてコウヘイと話したくなってG大に行く機会があるのなら百貨店で高級なお菓子を買っていこうかな、と心の片隅で思うくらい、ユウリの心は様々に変化している。ユウリは大きく息を吐いて頷いた。「はあ、うん、そうだね、初めてのデートだね」
「どうしたの、ユウリ、なんだか、疲れてる?」アオはユウリの顔を覗き込んで聞いてくる。
「ううん、」ユウリは首を大きく振って金髪を揺らして笑顔を作った。アオを心配させたくはなかった。アオはユウリの心の散々な状況とは無関係だし、むしろ彼女の存在がその散々さ加減を和らげてくれているに違いなかったから。傍にアオがいてくれてユウリは本当に幸せものだと思います。ユウリは無理に笑い声を上げた。「んふふっ、でもほとんど毎日一緒にいるから初めてのデートだなんて、そんな気もしないけどね」
「そう? なんだかユウリと駅にいるのって新鮮で、うん、デートだな、って思って少し、ドキドキしてるかも」アオはいつもながらのクールな笑顔を見せて言う。
「ドキドキしてるの?」ユウリはアオの横顔をじっと見つめて言った。「ぜんぜーん、そんな風に見えないな」
「本当よ、凄くドキドキしてるんだから」
アオはそう言いながらユウリの手を繋がっていない右手を自分の胸に当てている。目を軽く瞑り心臓の運動を確かめているみたい。自分の興奮をそんな風にポーズを取って確かめる少女をユウリは溜まらなく愛おしいと思った。アオは間違いなくユウリのタイプの美少女。ユウリはそんな風に心臓の運動を確かめる美少女がタイプなんだ。ユウリは上目でアオを熱っぽく見つめた。車椅子のユウリは必然的にアオを上目で見つめていたけれどわざと顎を引いて上目を強調した。ホームは灼熱で目元は汗で潤っていたから熱っぽい視線を送るのは簡単だった。アオをさらにドキドキさせたかったんだ。
効果はあった?
アオは心が揺れた様子も見せずにユウリから視線を逸らして言う。「ユウリ、電車が来たよ」
錦景山の濃い緑に囲まれた「塔の遊園前」のバス停に着いたとき、時刻はすでに午後の二時だった。月曜日ということもあって錦景山への登山客の姿は以前、コウヘイと訪れたときよりも少なかった。四番のバスに乗って「塔の遊園前」で下車したのはユウリとアオだけだった。壮年のバスの運転手は車椅子のユウリがバスから下りるのに手を貸してくれた。ユウリとアオは運転手にお礼を言って、来た道を戻る四番のバスの背中に手を振り見送った。バスが見えなくなると途端に静けさがやってきた。
「神秘的なところね、空気が綺麗、」アオは周囲を見回しながら小さく言った。小さい声でもここではよく響く。「違う世界に来たみたい、それに、やっぱり近くで見ると迫力が違う」
アオの視線は塔の遊園の中心にそびえる、スクリュウに注がれていた。バス停からスクリュウまではまだ距離はあって凄く近いわけではないのだけれど、やはり七十メートルもあるので森から突き抜けるように起立するその体躯の迫力はここにいても十分に感じられる。実物のスクリュウを目撃するのは二度目のことだけれど、ユウリもアオと同じようにそれの迫力に圧倒されていた。
ユウリはクルリと車椅子を旋回させスクリュウの方に体を向けた。そしてカバの帽子の位置を直し前髪を整えスクリュウを見上げ視界の中心に入れた。
瞬間。
ドクっと体が痺れたように揺れた。
私の右足をやったのはあいつだ。
そう思った。
太陽の白んだ光が斜めに走り視界が歪んだ。
空の澄んだ青が、急激に色を失う。
巨大で重たくて揺るがないあいつが私を不自由にした。
強く思った。
右足に轟いた痛みは絶対に忘れない。
忘れられるはずがない!
ユウリのヒステリックは出来上がっていた。
このヒステリックは想定外だ。どこか俯瞰で自分を見ているユウリは思った。スクリュウに今までに感じたことのない憎悪を感じている。過去から今、大きなことから些細なことまで何もかものすべての怒り湧き出てスクリュウに向けられている。衝突したがっている。しかしどうしてこんな感情的になっているのか、ユウリは訳が分からなかった。とにかく感情的になっていた。コントロール出来ないほど感情的に。
あの天辺にあるプロペラを爆破してやりたいって思った。ユウリの眼光は鋭く尖っていた。
「くそったれ!」
気付いたら叫んでいた。
大音声。
森が揺れた。
いや、揺れたのは森じゃなくて声を張り上げた自分。
森は微動もしてない。
そしてスクリュウも何もなかったように平然とそこに立っている。
そう、何もなかったのだ。
私は何もしていない。
無力。
虚無。
ああ、なんだか。
くじけてしまいそう。
「……ゆ、ユウリ、」アオは動転した風にユウリの顔を心配そうに覗き込んだ。「どうしたの? 大丈夫?」
「ごめん、なんだか、少し、」ユウリはカバの帽子を頭から取って首を振って髪に空気を入れた。「なんだろう、よく分かんないんだけど、」
そのときだった。
ユウリの前方。
鮮やかな朱色の鳥居を潜って塔の遊園へと続くアスファルトで舗装された細い道の先。
森の隙間からサングラスで目元を隠した変な女が現れた。
「うるせぇよ、くそったれっ」




