外道の刃
ある夜。仕事を終えた田上宗一が1人暗い道を歩いていた。
彼の職業はシェフ。夢のイタリアンレストランでの仕事はそう楽なものではない。毎日沢山の料理を、品質を損なわずに作らなければならない。仕事が終わると疲れが一気に放出され、歩くのも嫌になる。そんな思いをしても、この仕事を辞めることは出来なかった。誰かにやらされているのではなく、自分で選んだ道だからだ。どんなに辛かろうがこれは自分が望んで選んだ仕事。最後まで包丁を握り続けるつもりだ。
家まであと10分少々といったところ。向かい側から全身黒ずくめの人物が歩いて来た。フードを被っていて顔はわからないが、背格好から判断するに多分男性だろう。毎日この道を利用しているが、あの様な人物は見たことが無い。
多分偶々通りかかっただけだろう。挨拶はせずそのまま歩を進める。が、2人がすれ違う寸前、突然黒ずくめの男が宗一に殴り掛かった。突然の出来事で防ぐことも出来ず宗一は転倒。その後も男性は容赦なく彼を殴り続けた。
「ちょっ、助け……」
助けを呼びたくても相手の攻撃が激しくて呼ぶことが出来ない。
自分で何とかするしかない。宗一も男に立ち向かった。どうにか腕を掴んで彼を殴る手を止めようとする。するとここで、相手が次なる手に打って出た。
相手が殴るのを止めたかと思うと、突然脇腹に鋭い痛みが走った。そこから熱が逃げてゆく様な感覚が宗一を襲う。何となくわかった。自分が刺されたのだと。
出血、そして散々殴られたことによって宗一の体力は弱っていた。彼が反撃して来ないことを悟った男性は、フードを取って宗一の服を弄り始めた。そして財布を発見すると、その中から金とクレジットカードを抜き取ろうとした。だが血がついていて上手く取り出せないようだ。札を抜く前にまずズボンやコートで血をぬぐい去り、綺麗な手で引き出した。
奪われてゆく金。そして消えゆく命。宗一は静かに目を瞑った。もう彼の心臓は鼓動を止めようとしていた。そんな彼のことなど気にも留めず、男は他に価値のありそうなものはないかと宗一のズボンやコートのポケット、更に鞄を探り始めた。
「ちっくしょおっ! こ、こんなんじゃ足りねぇよ!」
どうやらこの男、出来るだけ多くの金を集めなければならないようだ。この焦りようから察するに、集めなければ彼の生活、或いは命に大きな危険が及ぶ可能性があるようだ。
結局手に入ったのは3万とクレジットカード2枚のみ。もっと金目のものが欲しかったが、長く留まっていては他人に見つかってしまう。仕方無くその場から逃げようと立ち上がったとき、何かが男の足首を強く掴んだ。驚いて素っ頓狂な悲鳴を上げる男。わなわなと下を見ると、何と宗一の手が足首に絡み付いている。
「うわあっ! な、何なんだよ、まだ生きてやがったのか!」
手を解こうと足で彼の腕や頭を踏みつける男。すると今度は宗一が何かを喋り始めた。
「ありがとう」
大きな声だった。男は更に大きな声を上げてしまった。誰かに見られてしまったかもしれない。
宗一は手を離すとゆっくり起き上がった。ホラー映画の幽霊のようだ。刺された箇所からは血が出ていたが、彼が立ち上がるのと同時に傷口の中へと吸い込まれてしまった。
「君のおかげで、僕もこの地に足をつけることが出来た」
「な、何言ってんだよ?」
「ところで君、何処か調子の悪いところは無いかい? 僕が見てあげよう」
そう言うと、宗一は右手を横に広げた。その直後、彼の右手がぶるぶると震え出し、手首から先が割れ、大きな刃に変化してしまった。
この世のものではない。それを知った男は急いでその場から駆け出す。が、途中でまた何かに足を掴まれ転んでしまった。足首に触手の様なものが大量に巻き付いている。それは宗一の身体から伸びていた。触手は男の身体を引っ張って宗一の真下へ運んで来た。
「大丈夫。すぐ楽にしてあげるよ」
ニヤリと笑みを浮かべると、宗一は大きな刃を彼の身体に強く突き立てた。
最後に男が聞いたのは、自分の身体が裂かれ、血が噴き出す音、そして宗一の甲高い笑い声だった。
三神斗真はもういない。
斗真の姿をした悪魔が言った言葉は、3日経った今も草薙由衣の記憶に残っていた。身体は確かにこの世に残っているのに、魂はもうこの世にはない。またそう簡単には信じられない話だが、怪物同士の戦いを2度も目の当たりにした今、あの悪魔の言葉を受け入れるのは容易いことだった。
が、3日経つと苦しみも少しは和らいだ。今度は悲しみの代わりに、疑念が彼女の心を支配し始めていた。この前以上に由衣の様子はおかしくなっていた。
恵美もまさか由衣の様子が悪化するとは思っていなかった。彼女は先日、教授の元へ行ってカウンセリングを受けて来た筈。それが良くなるどころか寧ろ更に酷くなっている。心理カウンセラーの資格を持っている教授でさえ治せない心の傷を、友人である自分が治せるのか。恵美は段々不安になって来た。
だが、このまま彼女を1人にしておくのも何だか心配だ。思い切って話しかけてみることにした。
「あの……由衣?」
恵美の言葉に、由衣は無言のまま顔を上げるだけだった。
「さ、最近、どう?」
「……別に」
やはり良くないらしい。何があったのか聞いても多分教えてくれないだろう。それがわかれば彼女の心を癒すのも楽なのだろうが。
そうこうしているうちに教授が入室、間もなく授業が始まった。解決の糸口は掴めないままだ。
「えーっとね、じゃあ教科書の……」
教授が教科書を開くように言っているのに、由衣はそれを開こうとしない。ノートも開いていない。心神喪失状態だった。
だが、一応授業を聴いている風には装っている。教授が何を言っているのかは全く耳に入っていないようだが。
目の前をじっと見つめていると、視界にあるものが入って来た。見覚えのある背中。首の辺りまで伸びた髪。あの事故のときと全く同じ服。間違いない、斗真がそこに座っている。正確には斗真とは別の存在らしいが。彼を見る度に、斗真が生きているかもしれないという僅かな希望と、今までの思い出したくもない記憶が同時に沸き上がって来る。
それにしても何故あの怪物がここにいるのだろう。しかもこれまでの斗真と同じように授業を聴き、指されれば素直に答え、しかも正解している。由衣も何だか不思議に思えて来た。
授業が終わると斗真は立ち上がって1人教室を抜け出した。由衣もその跡を追った。そして廊下で斗真の姿を捉え、彼を呼んだ。
「ちょっと」
斗真の姿をした悪魔は立ち止まるとゆっくり由衣の方を向いた。眉間に皺が寄っている。
「またお前か。俺は業獣を探すので忙しい。消えろ。この男とお前は関係がない」
「関係無いってどういう……」
「現世に召喚された段階で、業獣は借りる身体の記憶を共有することが出来る」
先程の授業で彼が正確に答えることが出来たのもそのためだろう。彼は斗真の記憶を使って授業を受けていたのだ。
「俺も三神斗真の記憶は全て確認した。だが、お前に関する深い記憶は何1つ見つからなかった」
「それって」
「お前にとっては大切な人間らしいが、この男にとってはお前も周囲の人間と同じ存在だった、ただそれだけのことだ」
つまり、生前から三神斗真は由衣に対して特に何の感情も抱いていなかったということだ。由衣が一方的に彼を好いていただけ。自分も彼の世界の登場人物に過ぎなかったというわけだ。
だが不思議と、それを聞いてもショックは受けなかった。由衣は悪魔にこう言ってみせた。
「たとえそうだとしても、あなたと私は関係がある」
「何?」
「私はあなたの正体を2度もこの目で見た。無関係ではない筈よ」
「無関係だな。俺はお前に対して嫌悪感しか抱いていない」
「それはあなたが私に対して何かしらの感情を持っているってことでしょ? 私達は、それを無関係とは言わない」
素早く答えを返して来る由衣。斗真は更に苛立って来た。言葉で勝負するのを止め、彼は由衣に歩み寄ると彼女の首を掴んだ。彼の目の奥に赤い炎が見えた様な気がした。
「調子に乗るな人間」
首を絞める力は徐々に強まってゆく。
「そうまでして早く死にたいのなら、望み通りこの場でその首をへし折ってやる」
「……殺しなさいよ」
由衣も負けじと悪魔の顔を睨んだ。
この世にはもう三神斗真はいない。いるのは偽物だけ。それは今目の前の斗真と向き合って確信した。それならば死んだ方が良い。悪魔と面と向かって話し合っているうちに、恐れも何も吹き飛んでしまった。
明らかに彼女の感情は変化している。斗真もそれを感じ取った。そのことに対して怯んでいる自分が不思議でならなかった。手の力も自然と弱まって来ている。
「良いだろう」
しかし、野放しにしておけばまた業獣狩りを邪魔されるかもしれない。斗真はまた手に力を込めた。
「だったらここで……」
そのとき、思わぬ邪魔が入った。
「由衣!」
恵美だ。2人の様子を見ていた恵美が友人を助けに来たのだ。彼女は無理矢理斗真の手を引き離し、由衣の縦となるように立ちはだかった。
「何やってんの?」
「そいつが邪魔をしただけだ」
「そうだとしても、暴力を振るうのは間違ってるんじゃない?」
「あの程度で暴力か。お前達も面白い教育を受けているらしいな」
「何言ってんの? ほら、早く行きなさいよ!」
斗真は恵美の気迫に圧倒され、渋々その場から退散した。本当ならこの場で2人とも始末したかったが、それを見られてしまっては彼の仕事が更にやり辛くなってしまう。
斗真が去ったのを確認して、恵美は由衣に話しかけた。
「大丈夫だった?」
「うん。ありがとう」
「もしかして由衣の悩みって」
今の喧嘩を見て、恵美は由衣が何に苦しんでいたのか理解した。三神斗真に対する感情。それが、由衣を支配していたのだ。そう彼女は判断した。
由衣も黙って頷いた。
「でも、もう良いの」
本来の斗真ならあんなことはしない。彼が言った通り、斗真はもう既にあちら側の存在になってしまったのだろう。それはそれで辛いことだが、生前の斗真もまた由衣に対して特に恋愛感情は抱いていなかった。なら急に彼の考えが変わるなんてこともなかっただろう。心を切り替えるべきときが来た。由衣はそう考えるようにした。若干元気になってきた由衣を見て恵美も安心した。
「よしっ! じゃあお祝いに、美味しいものでも食べに行こうか!」
「美味しいもの?」
「そう、これこれ!」
恵美は携帯を操作すると、あるページを開いて由衣に見せた。それは都内にあるイタリアンレストラン。しかもかなり人気のある店だ。
話によると、恵美は先日この店に彼氏と一緒に行くために予約をしたそうだ。だが彼女もまたその男子生徒と別れてしまった。だがこのまま予約を取り下げるのも勿体無い。そこで、彼女は今まで一緒に行く相手を捜していたのだ。
「え? じゃあお祝いじゃないじゃん」
「あ、バレた?」
笑い合う2人。
確かにレストランに誘ったのは数合わせが目的だったが、由衣の気持ちが明るくなって来たことを、恵美は心から喜んでいた。また笑い合える。そのことがとても嬉しかった。
自身の名が刻まれたレストラン【Souichi Tagami】の厨房へ足を運んだ宗一。その右手はもう元通りになっている。足下には大きなバッグが1つ。
「オーナー」
そこへ店員が2人やって来た。どちらも女性で、最近新しく入ったばかりだ。
「準備終わりました」
「ああ、そう。それじゃあ、もうひと仕事頼んじゃおうかな」
「はい、何でしょう?」
2人を近くまで呼ぶ宗一。手が届く距離まで来ると素早く手を伸ばし、2人の顔を押さえつけた。息苦しくなり籠った悲鳴を上げる2人。だが数秒後、彼等の悲鳴はピタリと止んだ。
宗一が手を離すと、女性達がゆっくりと後ずさり、顔を上げた。その目には光が灯っていない。何か様子がおかしい。
「あの男がこちらに来ていことは知っています。私の料理の邪魔をされては困るのでね。もし彼が来たら追い返してください。勿論、礼儀正しくね」
宗一が命じると、女性2人は口を大きく開けて気味の悪い声を上げた。その口の中には大きな目玉が垣間見えた。
今の宗一は人間ではない。好きなように人間を操ることも出来るのだ。
しもべ達が厨房から出て行くと、彼はバッグを開けて笑みを浮かべた。バッグの中には、ロープとガムテープでぐるぐる巻きにされた男性が入っていた。
ここに来る途中に宗一が捕まえて来たのだ。勿論、切り刻むために。
「さて、今日のメインディッシュはあなたです。美味しいステーキになってもらいますよ」
叫び声を上げる男性。しかしガムテープのせいで声が籠ってしまう。
恐れ戦く男の姿を見て、宗一は笑いながら右手を広げた。右手は再び、大きな刃へと変貌する。逃げることは出来ない。男もまた、この刃の餌食となるのだ。
人気の高いレストランも、たった1体の業獣によっておぞましい空間へと変質してしまった。そしてそのことを知る者は誰1人として存在しない。彼を除いて。
店の外から腕を組んで様子を窺う者が1人。斗真だ。業獣の居場所を突き止めてここまで来たのだ。業獣は業獣同士、互いに共鳴し合っているのかもしれない。
だが店の様子が何だかおかしい。今から狩りに行くのでも良さそうだったが、それを彼の本能が許さなかった。まだ入る頃ではない。連日の戦いで剣にも少し痛みが出て来た。完璧な状態で戦いに臨まなければ、反対に自分が殺されることになる。
すぐに狩ることが出来ないのは残念だったが、斗真は仕方無くその場から立ち去った。
2日後。
その日の授業を終えた由衣と恵美は約30分かけてレストラン【Souichi Tagami】に到着。カウンターで名前を告げるとすぐに案内された。
「楽しみだね! ここ、この前テレビで紹介されたばっかりだよ!」
「うん、でも大丈夫かなぁ、高くないかなぁ」
「良いの良いの。私が払うから」
「えっ? 大丈夫なの?」
「勿論!」
話をしながら席に向かっていると、入り口の方から大きな声が聞こえて来た。何事かと振り返ると、そこにはあの三神斗真の姿が。彼はカウンターの店員と言い争いをしている。
「通せ、俺も予約している」
「いいえ、あなたの名前が見つかりません」
「そんな筈はない! 俺は……」
と、斗真と由衣の目が合った。これ幸いと、斗真は2人を指差して続けた。
「俺は彼等と同じグループだ」
そんな嘘が通じる筈がない。何しろ予約した人数は2名だけなのだから。駄目押しとばかりに由衣達も、
「そんな人知りません」
と店員に告げた。これではもう店内に正攻法で入るのは不可能。斗真は諦めて店から出て行った。
「何なのアイツ? 由衣、気をつけなよ」
「う、うん」
苛々したが、彼がここにいるということは、またあの怪物が現れたということか。それも、この場所に。由衣の背筋に悪寒が走った。
「あっ、ごめん」
「ん?」
「ちょっと待ってて。バイト先に電話しないと」
「えっ? ああ、ごめんね! じゃあ待ってる」
「うん」
由衣は慌てて店の外に出た。不思議なことに、カウンターには店員の姿がない。そのことが由衣の疑念を確信へと変える。
電話をしにいったのではない。彼女は三神斗真を追ったのだ。
客を装って入る方法は失敗した。何よりもあの場に由衣が居たことが予想外だった。彼女を利用して中に入る手も考えたが、それも失敗。斗真は彼女に対する怒りの感情を増幅させていった。
とは言え、完全に道が絶たれたわけではない。この2日間で、彼は様々な作戦を考えていた。1つが駄目なら、次の手に出れば良い。斗真は店の裏口へ回って内部に侵入した。細長い通路。その先に厨房がある。獲物は間違いなくそこにいる。意気揚々と廊下を突き進む斗真。だがそこへ邪魔が入った。脇の部屋から2人の店員が現れたのだ。同じ業獣である彼にはわかる。彼等が操られた存在であることが。先程カウンターで言い争いになった店員もしもべであることはわかっていた。
「ウォーミングアップにはちょうど良い」
手の骨をならして首を回す。店員2名は獣の様な声を上げて口の中の目玉を見せつけた。
間もなく彼等の肉弾戦が始まった。2人が息を合わせて攻撃を仕掛け、斗真を攻める。1人が彼を取り押さえ、もう1人が彼の首に食いつこうとする。だが斗真も何体もの業獣と戦って来た男だ。業獣のしもべ如きに負ける筈がない。1人の腹を強く蹴り飛ばして向かって来る2人目にぶつけた。その衝撃で2人の口から目玉が漏れ出る。斗真はすかさず剣を呼び出してそれらを切り裂いた。これで店員等も人間に戻った筈だ。
一難去ってまた一難。更に突き進むと別の店員達が現れた。やはり彼等も口の中に目玉を飼っている。慣れてくればもう対処は簡単だ。素早く攻撃を浴びせて相手を怯ませ、腹に強い攻撃を加える。目玉が飛び出たところでそれらを斬る。この後もう2体現れたが、どちらもその手法で簡単に対処出来た。
「雑魚は寝てろ」
そう言い捨てて、斗真は問題の厨房へ。
中に入るとすぐに、人間が嫌うであろう種類の臭いが漂って来た。血の臭いだ。業獣である彼だから耐えられる。
厨房には料理人が居ない。数人は床の上で血まみれになって倒れている。そして奥では、1人のシェフがこちらに背を向けて何かを切り刻んでいる。単なる包丁ではなく、右手から生える大きな刃で。
「閉店の時間だ」
斗真が言うと、シェフは手を止めてそちらを向いた。顔には飛び散った血が付着している。
「おやおや、来てしまいましたか」
「お前も気づいてただろ? 俺が狙っていることくらい」
「ええ。護身用に人形を作ったのですが、無意味だったみたいですね」
「所詮人間だ。戦闘能力をあげたところで結果は目に見えている。……さぁ、話していてもしょうがない」
斗真は手に持っている剣をシェフ・田上宗一に向けた。
「本題に入ろうか」
「困りましたね……まだお客様の料理を作り終えていないのに……」
ぶつぶつと呟いた後、宗一はその場からジャンプして斗真の前に着地、彼に斬りかかった。間一髪剣で攻撃を凌いだが、ここは狭すぎる。彼に反撃し、追いつめながら場所を外へと移す。店内では駄目だ。人が多すぎる。彼等はちらちら動き回る。戦いの邪魔だ。場所は裏口の辺りが良い。
剣で彼を弾き飛ばし、望む場所へと誘導する。だが相手も命がけだ。簡単には動いてくれない。斬りかかるのを止めて身体から触手を伸ばし、斗真の自由を奪おうとする。が、それらは全て彼の腕力で千切られてしまった。
「小細工は通用しない。大人しくあっちに帰れ」
「へへへ、無理な話ですねぇ。私はまだ、斬り足りないのですよ!」
細長い廊下へ移動した2人。その狭い空間で、宗一は大きな刃を振り回す。刃は壁すらも簡単に切り裂いてしまった。危うく攻撃を受けそうになる斗真。身を屈めてそれを躱す。
「斬る、それがお前の背負った業か」
「人を斬らないと、身体がむずむずして来るんですよぉっ!」
ここで宗一が両腕をクロスさせた。腕からうねうねと触手が這い出て来て、あっという間に彼の身体を包み込んでしまった。その隙に攻撃を仕掛けるが触手の壁は硬く弾き返されてしまった。そうこうしているうちに、宗一は業獣としての本性を露わにした。筋肉の様な触手を纏った骸骨。その中には大きな目玉が垣間見える。
「面白い」
斗真もまた腕をクロスさせて悪魔の姿へ変身、業獣に斬りかかった。相手も剣の使い手。これまでとは違い簡単には斬ることが出来ない。まずはこの刃をどうにかしなければならない。
業獣は攻撃しながらゆっくりと前進している。厨房に戻って解体を続けようとしている。そうはさせない。悪魔は剣を構えた状態で突進、相手のバランスを崩した。更に隙をついて業獣の右手首に刃を突き立てる。悪魔が考えていることを察した業獣はすぐに手を引っ込めようとしたが時既に遅し。悪魔は素早く業獣の刃を右手もろとも切断してしまった。
人外な悲鳴を上げる業獣。切断された箇所から触手を伸ばして悪魔の息の根を止めようとするも全て切り裂かれてしまった。
「諦めろ」
狭い場所でやるのはどうかとも思ったが、今なら容易に出来る。悪魔は廊下で剣を振り回し、建物の壁毎業獣を切断した。武器がなければ防ぐことも出来ない。おぞましい業獣はあっという間に上半身と下半身に分けられ、床に落下した。
近づくと、残骸が人間のものに戻っていることに気づいた。宗一は上半身だけになりながらも言葉を発した。
「ま、まだ、斬り足り……ない」
「お前の遊びは終わった。さっさとあっちに帰ることだ」
最後の瞬間まで、宗一は悔しそうな泣き声を上げていた。業獣の身体は灰となって消えてしまった。
これでまた1体倒したが、斗真の納得のいく様な結果は得られなかった。人間の姿に戻ると、斗真は裏口から外に出た。外に出て最初に目にしたのは、草薙由衣の姿だった。
「お前、何故ここに居る」
「やっぱり、怪物を殺しに来たんだね」
「お前に何の関係がある」
「教えて」
立ち去ろうとする斗真の手を由衣が強く掴んだ。
「あなたは私の好きだった人の身体を使って好き勝手やってるんだよ? 私にも教えて、あなたが何者なのか、何の為に怪物を殺してるのか」
「前にも話した筈だ」
「私が聞いてるのは、あなたのこと」
何故この人間は自分のことを知ろうとしているのだろう。また彼の心を恐怖が襲う。
もしかするとこの恐怖は、人間の力に対するものなのかもしれない。これまで人間のことを甘く見ていたのかもしれない。人間はときとして予想に反したことをやってのける。そのことを、斗真は理解していなかったようだ。
「教えて」
「……わからない」
由衣の問いかけに、斗真はただわからないとだけ答えた。
「わからないから、俺は奴等を殺している」
由衣の手を振りほどき、斗真はまた何処かへ行ってしまった。
また新たに生まれた疑念。斗真の目的が読めない。だがそれ以上に、何故自分があの悪魔に興味を抱くようになったのかが、自分でもわからなかった。
eNiGMa……シェフの田上宗一の死を契機に現世に召喚された業獣。快楽のために他人を切り刻んだという業を背負っている。正体は右手が大きな刃に変化したおぞましい髑髏のような怪人。目玉のような分身を人間の身体に打ち込むことによって自身の操り人形にすることも出来る。