失恋は蜜の味
突然巻き起こった夢の様な出来事。トラックが公園に突っ込んで来たかと思うと、事故に巻き込まれて最愛の人物が倒れ、ピエロが突然怪物に変貌し、そして死んだ筈の青年が悪魔として蘇った。
由衣はここまでの状況をすぐに把握することが出来なかった。目が回りそうだ。そんな中で最初に出たひと言が、三神斗真の名だった。
「三神君? ど、どうしちゃったの?」
斗真はただじっと由衣の顔を睨みつけるだけで何も答えない。彼の目を見ていると、何故か身体が震える。緊張や喜びから来るものではない。命の危険を本能が感知しているのだ。あれほど好きだった青年に対して、何故彼に対して恐怖心を抱いているのだろう。それが自分でも不思議だった。
結局斗真は何も答えずに歩き出した。由衣もその跡を追った。この矛盾した選択。恐怖心を感じていながら、何故か彼のことを追いかけている。今彼女の心の中では、恐怖と愛、2つの感情が拮抗しているのかもしれない。
「ねぇ、無視しないでよ!」
「黙れ!」
漸く返事をしたと思いきや、いきなり怒鳴られてしまった。今までの斗真ならしなかったことだ。
「お前は何だ? 何の関係がある?」
「何のって……?」
急に恥ずかしくなって口ごもってしまった。
そんな由衣の姿を見て、斗真は再び歩き出す。するとまた由衣が彼を呼び止める。
「三神君!」
「三神斗真という男は死んだ」
淡々と言う男。そのあっさりとした言葉が由衣の心を更に揺り動かした。あのとき、トラックに突き飛ばされたとき、斗真はもう帰らぬ人となっていた。それが、この男の答えだった。
そんなことを言われても簡単に信じられる筈が無い。現に今こうして、斗真が目の前にいるのだから。たとえ様子がおかしくても、目の前に立っているのは紛れもなく三神斗真だ。
「俺は忙しい。お前と遊んでいる暇は無い」
「でも……」
「しつこいな。……」
斗真が振り返って由衣の顔を見つめる。わざと目と目が合うように。耐えきれなくなって由衣の方から目を逸らした。すると、斗真は彼女のことを鼻で笑った。
「なるほどな。恋か」
そう、彼は由衣の心を読むために顔を合わせたのだ。奇妙な能力を使うわけでもなく、本当に単純な方法で。そして彼の予想は当たった。彼女は確かに、斗真に恋をしているのだ。
「俺がここに来る前から聞いていたが、本当だったんだな」
「え?」
「人間が単純な生き物だということだ。他の動物よりも簡単に業を背負いやすい。金とか、富とか、愛とかのせいでな」
「業?」
「お前も見ただろう、俺達の戦いを」
忘れる筈が無い。あのカエルの様な獣と剣を持った悪魔の死闘。目の前で人が喰われ、人が怪物へと変貌する。思い出す度に頭がおかしくなりそうだ。
「お前もああなりたくなければ、恋心など捨てるべきだな」
「えっ……? どういうこと? 私もああなるってこと?」
「お前が変わらない限りはな。或いは喰われるか。まぁもしお前がああなればこっちは好都合だ」
言いながら、斗真はあの剣を呼び出して剣先を由衣に向けた。獣の血はもう付着していない。綺麗に乾いている。だが微かに鉄の様な嫌な臭いが漂って来る。
「もし業獣になったら教えろ。俺が斬り殺す」
そう言い捨てて、斗真は何処かへ去って行った。
最愛の人物から、「殺す」と宣告された。そのショックが由衣の心を蝕んでいった。
何故彼は変わってしまったのだろう。あの事故さえ無ければ、彼は今も優しい三神斗真のままだった筈だ。しかし、だからといって、1度進んだ時間を元に戻すことは出来ない。彼女はもうこの時を、この運命を受け入れる他無いのだ。
その夜。
別の場所でも、1つの恋が音を立てて崩れ落ちた。
「ごめんなさい。私、他に好きな人が出来たんだよね」
「は?」
「だから、私と別れて」
大学構内で、2人の男女が言い争いをしている。どうやら女学生が男子のことをふったようだ。素直に受け入れられる筈も無く、男子生徒が相手の腕を掴もうとする。
「お、おい、ちょっと待てって!」
「もう決めたことなの!」
掴んで来た手を、女性とは強く振りほどいた。
「大丈夫だよ。きっと、もっと良い相手が見つかるから」
最後に優しい口調でそう告げると、女性とはその場から走り去って行った。
1人取り残され絶望する青年。頭がクラクラし、近くの壁に凭れ掛かった。
何がいけなかったのだろう。浮気もしていないし、彼女が不快に思う様なことも言っていない。記念日はいつも忘れなかった。それなのに、何が駄目だったのだろう。
1人自問自答を繰り返していると、背後からカツカツと足音が聞こえて来た。ハイヒールの音。今の姿を他人に、それも異性に見られるのは御免だ。慌てて携帯を取り出して壁側を向く。隠れて誰かとメールをしている素振りを見せる。
音はゆっくりとこちらに近づいて来る。近づく度に、ハイヒールの独特な音が大きくなってゆく。
早く何処かへ行け。心の中でそう呟きながら、青年は携帯をいじる演技をする。だが、相手は彼が望んだ行動をとってくれなかった。ハイヒールの音は青年の真後ろで止まったのだ。何故だ、何故止まったのだ。気になるが、怖くて振り返ることが出来ない。固まったまま様子を窺っていると、
「可哀想に」
と、今度は女性の声が聞こえて来た。真後ろにいるのは、声色から察するに中年の女性だ。
「報われない愛……可哀想」
「え? だ、誰ですか?」
振り返ろうとした瞬間、後ろの人物は強い力で青年の顔を壁に押し付けた。その衝撃で歯茎から血が出て来る。
「大丈夫。私が食べてあげる。あなたの可哀想な心を」
背中に何かが突き刺さる様な感触。更に次の瞬間、何かがそこから吸い出されてゆくかの様な感覚が彼を襲った。吸い出される度に激しい痛みが彼の身体を襲う。あまりに痛くて悲鳴もあげられない程だ。苦しみ悶える生徒の姿を見て、後ろの人物は静かに笑っている。
それが終わった頃には、男子生徒はミイラの様になっていた。げっそりと痩せ細り、血の気は無くなり、息も殆どしていない。
最後に男子生徒の哀れな姿を見てあざ笑うと、ハイヒールの人物は何処かへ立ち去った。
翌朝。
由衣の機嫌は非常に悪かった。昨晩から今に至るまで何も口にしていない。大好きなチョコレートも喉を通らない。授業はいつも以上に集中出来ず、ノートも真っ白なまま。これには友人の春日恵美も驚きを隠せず、昼食の際に彼女を呼び出して問いつめた。
「由衣、本当に大丈夫? 何かあったの?」
「別に」
「別にって。隈は出来てるし、ノートは全然とらないし、何か今日変だよ?」
恵美の気遣いはありがたいが、言ったところで信じてくれる筈が無い。話せば笑われるか、おかしい人間だと見なされるだけだ。
由衣は食事もとらず、ぼーっと食堂を見回した。それ意外にすることが無かった。何か別のことに意識を向けられたらそれで良かった。
だが、思い通りにはいかなかった。彼女の視界に真っ先に入って来たのは、他でもない三神斗真その人だったのだ。彼は別の席に腰掛け、同じように食堂内を見回している。1度は希望を持ったが、彼のあの鋭い目を見て、やはり彼は変わってしまったのだと改めて痛感した。
と、今度は由衣の方を睨みつけた。怖くなって顔を下に向ける。が、彼の視線はヒシヒシと伝わって来る。助けを呼びたい。だが、呼ぶことが出来ない。呼んだところで何かが変わるわけではない。
「あら、ここ良いかしら?」
そこへ1人の女性がやって来た。岸田栄子教授。心理学に詳しい女性だ。以前由衣も何度か彼女の世話になっている。優しい女性で、授業のこと以外でも何でも相談に乗ってくれた。
「最近どう? 成績は落としてない?」
「私は大丈夫ですよ〜! あ、でも、由衣が……」
「ちょっと恵美!」
「あら、落としちゃったの?」
母親の様な口調で栄子が尋ねて来た。逃げ隠れは出来ない。由衣は正直に認めた。だがその理由を話すことは難しい。複雑な理由だ。恵美も多分気づいているかもしれないが、学生に恋をしている等という話を彼女がいる前では出来ない。
思い詰めた表情をした由衣を見て、栄子が真剣な顔つきになった。
「由衣? だ、大丈夫?」
「草薙さん」
そして、由衣の両肩に手を置いて話を始めた。
「もし何か、周りの人に言えない様な悩みがあるのなら、私の所に来ると良いわ。1人で抱えるよりもずっと良いわ」
「で、でも……」
「大丈夫よ。私は他の人に喋ったりしないから」
と、栄子は恵美の方を見て言った。恵美がムッとした表情を浮かべる。その様子を見ていても、やはり由衣は笑うことが出来なかった。
栄子は心理カウンセラーの資格も持っている。彼女に相談すれば、何か良い方法を教えてもらえるかもしれない。どうにかして心の闇を消し去らなければ。今の由衣は自ら命を絶ちかねない。
自殺。その選択肢を考えたとき、由衣は昨日の斗真の言葉を思い出した。自分が怪物になり、そして斗真が、斬り殺す。由衣の心を再び恐怖が襲った。
ふと斗真が座っていた席に目をやる。が、そこにはもう彼の姿は無かった。
放課後。
由衣は早速栄子を頼ることにした。昼食の後栄子に時間を空けてもらうよう頼んだのだ。教授は嫌がること無くすぐに承諾してくれた。
彼女の部屋の場所は知っている。前にも何度か尋ねたことがある。部屋を見つけ、ノックして返事がくるのを待っていると、背後から女性の声がした。
「草薙さん」
栄子が立っていた。手にはファイルを持っている。
「ごめんなさいね。少し遅れちゃったわ。さ、入って」
「はい」
栄子がドアを開けて由衣を中へ招く。そして自身も中に入り、ドアの鍵を静かに閉めた。
部屋は相変わらず綺麗に整理されている。隅々まで掃除が行き届いている。本も全て50音順に整理されている。どれも心理学に関する書物だ。
「さ、お茶でも飲みながら」
「ありがとうございます」
「それで、悩み事っていうのは、恋愛のことかしら?」
何と栄子は由衣の悩みを察知していた。驚いて答えも出なかった。
「ふふふ、私も学生の頃にあったから、そういうこと」
「先生もですか?」
「ええ。私も恋する乙女だったのよ」
自然と笑みがこぼれる。栄子の心理カウンセラーとしての腕は本物だ。話しているうちに心が温かくなる。由衣の顔にも笑みが戻って来た。
「ほら、その顔よ」
「え?」
「あなたは笑顔が似合う子よ。もっと笑ってなくっちゃ」
「は、はい。ありがとうございます」
「ふふふふ。ところで、何で失恋しちゃったのかしら?」
何となく、声のトーンが低くなった様な気がした。
質問された途端、忘れかけていたあの記憶が全て蘇って来た。駄目だ、これではまた今朝の状態に逆戻りだ。必死に耐えようとする由衣。だが、心の闇はどんどん浸食してゆく。
「無理しないで。素直に受け入れなさい。人はね、良いことばかりを受け入れようとして来た。でもそれじゃあ駄目なの。良いことも悪いことも、全部を受け入れて、初めて人は強くなれるのよ」
彼女の言葉を聞いていると、昨日の記憶がより鮮明になって脳裏に蘇って来る。色が音が、そして声が、全てがはっきりと際立って蘇って来る。まるでその場にいるかのように。
踞る由衣。そんな彼女を見て栄子はニヤリと笑みを浮かべた。同時に彼女の爪が見る見るうちに長く鋭くなってゆく。
「そうよ、そのまま、そのまま……」
爪を由衣の背中に突き立てんとする栄子。だが、それは1人の青年によって邪魔されてしまった。
鍵を閉めた筈のドアが、爆音と共に開かれた。正確には吹き飛ばされたと言うべきか。栄子が由衣から離れてドアを睨む。由衣もまた同じように音のした方に目をやる。
部屋の入り口に、大きな剣を持った1人の青年が立っている。斗真だ。斗真がまた現れたのだ。
「だから言ったろ。恋心なんて捨てちまった方が良い」
「何で? 何でここに?」
「お友達?」
栄子が優しい口調で話しかける。答えようと彼女の方を向くが、変貌した栄子の指を見て由衣は絶句してしまった。長く鋭くなった爪。そのどれもが赤く輝いている。その様を見て気づいた。彼女もまた、昨日のものと同じ怪物だということに。
怖くなってその場から後ずさりする由衣。そんな彼女に、栄子は優しく語りかける。
「待って、逃げないで」
「嫌……そんな、先生まで……」
「わかったらとっとと失せろ人間。邪魔なだけだ」
斗真が剣を構えて栄子に向かってゆく。栄子はそれを瞬時に躱し、爪で彼を切り裂こうとして来た。
「お前も相変わらず、くだらないものに執着してるんだな」
彼の言うくだらないものとは、きっと「愛」のことなのだろう。昨日も同じ様なことを言っていた。
「あら、知らないの? 他人の失恋は蜜の味。恋が壊れて嘆き苦しむ人間の血液は絶品なのよ?」
喋りながら戦闘を続ける2人。
栄子の言葉を聞いて、由衣は何故彼女が自分を呼んだのか漸く理解した。本気で由衣の心配をしていたわけではない。ただ、由衣の血が吸いたかっただけだったのだ。きっとあの細長い爪を突き刺して飲もうとしていたのだろう。無理矢理嫌な記憶を呼び起こしたのも、血を更に美味しくするためだったのかもしれない。
最早何を信じれば良いかわからない。由衣はまたその場に崩れてしまった。その様を見て斗真が舌打ちする。
「何処までも面倒臭い人間だ。死んでも知らないぞ!」
素早く動き回る相手を確実に仕留めるため、斗真は一旦栄子から距離を離し、剣を大きく振るって衝撃波を放った。整理されていた本や機材が全て宙を舞い、栄子の方へ飛んでゆく。栄子は手をクロスさせるが、この量の物体を防ぐのは不可能だ。波と共に室内のもの全てが彼女に直撃した。その威力は後ろの窓ガラスも割ってしまう程だ。
これで倒したか、と思われたが、それは間違いだった。栄子はまだ腕をクロスさせてその場に立っていた。
この形。昨日怪物に変身したパフォーマーも同じ様な仕草をしていた。両腕をクロスさせる。すると人間だったものがたちまち、おぞましい獣へと変貌する。
栄子もまた気味の悪い怪人になってしまった。後頭部には百合の様な華が咲き、身体も骨や筋肉が剥き出しになっている。爪は相変わらず長く、顔はまだ人間らしさを保っているものの、口は大きく裂けてしまっている。それを縫い針で無理に補強してある。
「ま、そう簡単にはいかないか」
斗真も同じように手をクロスさせてあの悪魔の姿に変身した。
どちらも怪物に変貌したところで、2人は戦いを再開した。怪人は先程以上にスピードが上がっている。素早く動き回って悪魔を翻弄し、隙をついて蹴りを入れたり爪で斬りつけたりしてくる。昨日の様な大きな相手とは違い、同じサイズの、しかも攻撃を当て辛い敵。悪魔はただ剣を構えて立っているのみだ。
だが由衣には何度か、怪人の姿が静止して見える瞬間があった。理由はわからないが偶に数回、相手の姿が写真のように見える時があるのだ。
攻撃に耐える悪魔。激しい攻撃を浴びせる怪人。とここで、再び怪人の姿がはっきりと見えた。
「そこっ!」
何を思ったのか、由衣はその瞬間大きな声で叫んだ。同時に悪魔も剣を使って反撃に出る。由衣のおかげか攻撃は見事直撃、怪人はバランスを崩して怯んでいる。
「お前……」
悪魔が由衣を睨んでいると、怒った怪人が立ち上がって威嚇して来た。せっかく留めてあった縫い針も全て弾き飛ばし、口を大きく開いて気味の悪い叫び声をあげた。
「まずはお前を黙らせる」
剣を構えた状態で怪人に突進、悪魔はそのまま真っすぐ走った。その先にあるのは窓。悪魔は物ともせずその窓を突き破った。当然怪人も巻き込んで。空中で怪人を蹴って更に距離を広げると、悪魔は剣を下に向けて投げ飛ばした。真っすぐ落ちた剣は怪人に突き刺さり、更に彼女の肉体を切り裂いて下へ落下した。高所から落としたことで威力が上がったのだ。真っ2つになった怪人は悲鳴を上げることも無く空中で霧となって消えてしまった。
結末を見ていない由衣は、何が何だかわからずただ呆然としている。すると、窓から斗真が戻って来た。どうやって上がって来たのだろう。やはり彼はもう人間ではないということなのか。
這い上がった斗真はつかつかと由衣に歩み寄り、胸ぐらを掴んで立たせた。
「余計なことをするな」
「余計なことって?」
「俺に話しかけるな。それに何故逃げなかった。こっちは真剣なんだ。お前の様な邪魔が入ると集中出来ない」
それだけ告げて斗真はまた立ち去ろうとした。が、今回は由衣も黙っていなかった。
「待ちなさいよ!」
大声で斗真を止める。彼も予想外だったのか足を止めてしまった。
「そっちこそ何よ、人の生活滅茶苦茶にして……大体あの化け物は何なのよ!」
しばし沈黙。だがその直後、斗真ははっきりとした口調で質問に答えた。
「俺達は業獣だ」
「業、獣?」
「前世の業によって姿を変えた哀れな人間達だ」
由衣の記憶が正しければ、業とは仏教用語で前世の行いに対する報いを意味する。あの怪人達、そして斗真もまた、前世の行為に対する報いを受けてあの様な姿になってしまったということか。
自分達のことについて話すと、斗真はまた歩き始めた。
「あっ、ちょっと! 待ってよ三神君!」
「三神斗真は死んだと言っている」
もう1度立ち止まって、目の前の男は再度三神斗真の死を伝えた。
「俺は言わば三神斗真の前世の魂だ。今頃その男の魂は逝くべき場所に送られたところだろう」
再び歩を進める斗真。もう由衣が彼を止めることは無かった。
もう三神斗真はいない。会うことも出来ない。誰も居なくなった廊下で、彼女はただ1人泣き続けた。
aLRauNe・・・前世に自らの夫を毒を持って殺害したことで業を背負った業獣。恋心を傷つけられた人間の生き血が大好物で、失恋した人間を見つけてはその血を爪から摂取していた。