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KaRMa  作者: 鵤牙之郷
16/16

英雄

 予想外の襲撃に遭い、ヘトヘトになって芭蕉たちの元へと帰って来たムカデの業獣。人間の姿に戻ると、古い神社の中へと土足で入っていった。トウマだけでも1人で倒すのは面倒なのに、ファウストという、新たな同族殺しの業獣まで現れた。ラクシャーサさえも手こずるほどの相手。これでは安心して人間を襲う未来はまだまだ先だ。それも辛いが、芭蕉という人間に従い、争うことが出来ずにいる自身が情けなかった。業獣の中でも底辺の存在。いつしか彼は、己をそう蔑むようになっていた。

 仏壇の置かれている大きな座敷に、芭蕉とラクシャーサが腰かけていた。ラクシャーサは人間の子供の姿をとって芭蕉の周りを駆け回っていたが、ムカデの姿を見るや否や、すぐさまおぞましい業獣の姿を露わにし、ムカデに飛びかかろうとした。その口からは目のない蛇の頭部が見え隠れしている。

「ヒィッ、勘弁してくれよ!」

 ムカデが怯えている。ラクシャーサは他の業獣からも恐れられているのだろうか。だとすれば、それを手懐けられる芭蕉に嫌々ながらもムカデが従っていることも納得がいく。

「……その辺にしておいてあげなさい」

 芭蕉が静かに言うと、ラクシャーサはムカデを睨みつけ、ケダモノの姿のまま芭蕉の元へ戻っていった。骸骨のような姿なので眼球は無いが、ムカデは空洞になった目の奥から向けられた怒りの視線を確実に感じ取っていた。

「彼、或いは彼女が、面白い情報を持って来てくれましてね」

 芭蕉が手を軽く上げた。すると、ラクシャーサが立ち上がり、1人の人間へと姿を変えた。少年のものではない。化けたのは草薙由衣の姿だった。ラクシャーサは由衣の姿を借りて、「トウマ!」と叫んだ。由衣本人が、蝋の怪物に襲われた時と全く同じトーンで。

 ラクシャーサの前世は人間ではなく猛獣。変身する直前に自分が聞いた言葉をそのまま再生することしかできない。なのでラクシャーサ本人は、このトウマという言葉にどのような意味があるのかは理解していない。

 この少女の姿、ムカデの業獣はまだ見たことがなかった。彼はずっとトウマだけを狙っていた。

「なんだ? これの、どこが面白いってんだ?」

「この少女、あの同族殺しの彼と深い繋がりがあるようなのです」

「あいつと?」

「あなたと別れた後、こっそりと監視してくれていたようで」

 トウマと戦った時、ラクシャーサはファウストが乱入した直後にその場を離れた。しかし、その後も姿を変えて、トウマとカズヤの会話を盗み聞きしていたらしいのだ。以前もこの業獣が監視をしていたことがあったが、その時もトウマとカズヤはラクシャーサの存在に気づかなかった。また、工場での由衣の言動を再現しているということは、この業獣もあの場所で監視を続けていたということになる。

「あんたまさか、監視させるために俺とこの猿を……」

「いいえ。この子は優秀でしてね。私が指示を出さなくても、何が重要かをきちんと判断し、自分で行動してくれる。あなたとは大違いですね」

 ムカデをサポートすることよりも、敵の偵察を優先した、ということだろう。由衣の姿から元のケダモノの姿に戻ると、業獣は芭蕉に擦り寄った。頭を撫でられると、嬉しそうに音のなる尻尾を振った。ガラガラという音が部屋に響き渡る。この業獣は、戦いを有利にすることよりも、芭蕉に気に入られることを喜びとしているらしい。自ら進んで敵の情報を掴もうとしたのも、全ては芭蕉を喜ばせるためだったのだ。

「お、俺はいいとしてよ、その、同族殺しとあの娘の深い関係ってのはなんなのよ?」

「それはですね……」

 芭蕉がラクシャーサに目をやると、今度はカズヤの姿に変身し、トウマとの会話の中で彼が言った言葉を再現した。

「本当は愛を望んでいるはずだ。彼女も、君も」

「あ? 愛? おいおい、業獣が人間に恋したっていうのかよ?」

「ありえなくはないでしょう? あなた方も元々は人間だったのですから」

「だからって、そんなうまい話があるとは思えねぇがな」

「……私も、思うところはありましてね」

 と芭蕉。トウマが業獣界から人間界に渡ることができたのは、三神斗真という男が死亡したため。彼が死亡したのは、人間界にやってきた業獣・ハゼルの襲撃に巻き込まれたから。そして、その事件を裏で操っていたのが、水無月芭蕉その人だった。現世で人が死ねば業獣が魂の抜けた肉体を使って再び人間界に渡れる。それを知った彼は、裏で様々な事故や事件を引き起こしていた。業獣と利害関係を結ぶための行為だったが、結果としてトウマという例外が現れてしまった。だからこそ、芭蕉はトウマを消したいのだ。

 トウマが初めて人間界にやってきた日。草薙由衣もその場にいたのだ。当然、彼女はトウマが業獣であることを知っている。にもかかわらず、つい先日まで、彼と行動を共にしていた。そして彼をトウマと名前で呼んでいる。ここまでくれば、由衣がトウマに特別な感情を抱いていたことも頷ける。反対に、トウマが彼女をどう思っているのかは定かではないが、それでも今日まで彼女に危害を加えず、なおかつ普通の人間以上に接点を持っている点を考慮すると、やはり彼の中でも一際存在感のある人間なのだろう。

「私も、本当に罪深い存在だとは思うのですがね」

 芭蕉は、自分が考えている新しい作戦について語り始めた。それはムカデさえもゾッとするようなものだったが、同時に面白みのある内容でもあった。

「へっ、ここまで業獣を嘗めた人間は初めて見たぜ。あんた、本当に腹黒いな」

「自分でもそう思います。でも、より深く、より黒い悪意があれば、もっとあなた方に近づけるでしょう?」

 そう言った芭蕉の顔に笑みはなかった。

「それじゃあ、俺様が早速準備を……」

「いえ、あなたにはこの方のお手伝いをしてもらいます」

「は? 手伝いって……」

 と、ここで、座敷に2人の男性が入ってきた。30代後半で、黒いスーツを身にまとった痩せ型の男性だ。色白で、短めの髪は金に染まっている。細い目とつり上がった口角は、微笑んでいるというより、あざ笑っているかのように見える。その後ろに立っているのは体格の大きい男性で、スキンヘッドには切り傷のようなものがついている。この男も黒いスーツを着ている。暴力団のような風貌だ。

 この男の姿を見た途端、ムカデの顔つきが変わった。交錯の印を切って業獣の姿になると、男の前に跪いた。

「あなたもご存知でしたか」

「当然だろ! この方は、業獣界の英雄だ」

「英雄? はっ! 俺もそこまで偉くなっちまったかぁ!」

 と、男は笑った。ムカデの口ぶりから察するに、彼もまた業獣。それも、かなりの力を持った存在。罪深き業獣たちでさえ頭が上がらないとは。英雄と呼ばれた男は嬉しそうなそぶりを見せたが、何故だか本心から喜んでいるようには見えなかった。

「なんであんたが、この方と繋がってるんだよ?」

「簡単だろ、利害関係だよ」

 答えたのは金髪の男の方だった。

「この人間には、俺たち以上に業獣の知識が備わってる。こいつが生んだ兵隊も、こいつの作戦も、惚れ惚れするものばかりでな。特に、あいつを潰す作戦は俺も買っててね」

 あいつとは、トウマのことだろう。どうやらこの男、以前に彼と接触があったらしい。それも、あまり良い出会いではなかったようだ。男の顔つきが険しくなった。拳も強く握りしめている。

「先に言っておくけどよ、ヘマやらかすんじゃねぇぞ。業獣だろうが、屑は潰す」

「は、はい!」

 文句の一つも言わずに男に従うムカデ。再び、彼のプライドは挫かれた。





 明くる日。

 トウマはいつものように、校舎の屋上にいた。しかし、今日は業獣を探しているのではない。ただ寝そべって、空を見つめていた。普段なら授業に出ている時間帯。トウマは初めて授業を欠席した。三神斗真の初黒星だ。

 自分の中で何が起きているのだろう。カズヤの言う通り、トウマ自身も由衣のことを求めているのだろうか。

「有り得ない」

 幾ら何でも、相手は現世の人間だ。トウマとは反発していたし、勝手に自分の考えを押し付けてくるし、はっきり言って邪魔でしかない。そんな人間を求めるなど、絶対に有り得ない。そう思っていた。だが、有り得ないと呟いた時の、この重苦しい感情は何なのだろうか。自分の言葉に、自信が持てない。何かを隠しているような、そんな気さえしてくる。自分のことが疑わしいのだ。

 不意に、度々見るヴィジョンのことを思い出した。あの映像も、どういうわけか由衣と何らかの関わりがあった時によく想起する。トウマの勘が正しければ、あれは過去の自分の記憶だ。自分がどのような立場の人間だったのかはわからないが、彼女との関係性と、過去の自分の生涯に、何らかの共通点があるということなのか。だとすれば、彼女は記憶を取り戻す上での重要な存在だ。何度斬っても何の成果も得られない業獣狩りよりもずっと効果的な方法。すぐにでも彼女に会ってーー。

 すぐに自分の考えを捨てた。

 今の由衣が、自分に会ってくれるはずがない。彼女はまだ、自分に嫌悪感を抱いている。そしてその理由も、トウマは自分で理解することができなかった。何故なら、自分が彼女にどのような悲しみや苦しみを与えたのか見当もつかないからだ。自分は、自分がすべきことをした。自分の思う道を進んだだけ。そんな思いが彼の思考を邪魔していた。

「やはり、人間とは面倒な生き物だ」

 と、トウマは呟いた。

 たとえすぐに答えが出ずとも、業獣を狩っていた方がよほど楽だ。現世の人間と関わるよりも、ずっと。トウマはそう考えた。いや、そう考えるように自分に強いた。彼は、正体のわからない何かから解放されたかった。






 授業を終えた由衣は、いつものように帰り仕度をしていた。嫌なことを思い出して憂鬱な気分になっている自分を友達に励ましてもらおうと思っていたが、あいにく彼等に用事があり、仕方なく1人で帰路につくこととなった。

 嫌なこととはもちろんトウマのことだ。自分でも忘れようと決めていたはずなのに、心のどこかで仲直りできるのではないかというくだらない妄念を抱いていた。トウマは業獣狩りのことで頭がいっぱいだ。業獣を狩ることで、自分の記憶を取り戻すのに精一杯だ。こんな人間の事など初めから眼中にない。そもそも言っていたではないか、人間は面倒だと。

 そもそも、業獣のことを知ってから、ろくなことが起きていない。一目惚れした相手が冷たくなり、教授や友人までもが業獣で、幾度となく彼等の襲撃を受けてきた。業獣に関わらない方が良い、それもトウマからの忠告だった。彼のことを責めていたが、自分が首を突っ込んだことがそもそもの間違いだったのかもしれない。

 ため息をついてとぼとぼ歩く由衣。と、その後ろから、あの男が追いかけてきた。

「やぁ」

 カズヤだった。

 この男のことを忘れていた。彼もまた業獣で、トウマの友人。忘れようとしていたことを思い出してしまうのは、この男が話を蒸し返すのも原因なのかもしれない。

 由衣は言葉を返すこともなく、歩調を早めて彼から離れようとした。だが、カズヤも引き下がらない。

「彼とは上手くいってる? あ、その様子じゃまだまだみたいだね。ほら、彼、不器用っていうか。……あ、じゃあ、何なら僕と付き合ってみる? 本気で」

 あまりにしつこいカズヤ。由衣もいよいよ耐えきれなくなり、足を止めて振り返った。

「あいつとは、何でもないの! もうほっといてよ!」

「あっ、ご、ごめん」

 カズヤは素直に謝った。本当に申し訳なさそうな表情だ。

「……ごめんなさい。私もカッとなって、つい」

「いいよ、別に。僕もしつこかったし。でもね、これだけはどうしても気になるんだ」

「え?」

「君も彼も、自分に嘘をついてる」

 何も言葉が出なかった。

 カズヤは、由衣が抱いていた疑念をストレートに言ってくれたのだ。トウマを忘れたい、今度こそ、本当に忘れたい。そう言い聞かせていたことが、自分でも納得がいかなかった。

 俯く由衣。カズヤは急に彼女の手を取った。

「え、何?」

「今日、1人でしょ? だったら僕と食事でもしようよ!」

「いや、何で急にそんな話に……」

「僕、良い店知ってるんだ! フレンチ料理好き? あ、そう。じゃあ決まりだ!」

 勝手に話を決めて、カズヤは由衣を連れて走り出した。抵抗する間もなく、由衣はカズヤのペースに飲まれてしまった。

 とはいえ、何か良からぬことをしようと企んでいるわけではないらしく、カズヤは本当に、学校の近くに建っているフレンチ料理店へと由衣を案内した。まだ店内は空いていて、人はいない。お世辞にも綺麗な店とは言えないが、それでも落ち着いた雰囲気がある。ここなら別に良いかと思っていたのだが、

「ねぇ、テラスで食べようよ」

 と、勝手に外の席を選んでしまった。そこそこ人通りもあるところでの昼食。これでは話は別だ。落ち着いて食事などできるわけがない。しかもここは学校の近く。男子と食事をしているところを知り合いにでも見られたら、また面倒なことになる。

 本当は屋内で食べたかったが、カズヤは聞く耳を持たない。結局、テラスでのランチになってしまった。

「好きなものを選んで! 僕のオススメはね……」

 メニューを捲りながらカズヤが喋る。好きなものを選んで良いのではないのかとツッコミを入れたくなるが、由衣もいつしかこの身勝手なペースに和んでいた。失っていたものを取り戻したような、そんな感覚だった。

 昼食は、カズヤのオススメだというボロネーゼに決まった。スパゲティが届くまでの間、カズヤはずっと自分の話をしていた。当然、業獣としての話だ。人間界にやってきたのは最近のことらしいので、こちらの世界の話題はまだ乏しい。せいぜいこの店を覚えたくらいか。

「でね、僕も彼と同じように、欲しいものがあるから狩りをしてるんだ」

「欲しいもの?」

「そう。僕らの持ってる武器も、昔は僕らと同じ業獣だった。自分の業を背負うのも大変なのに、僕らはさらに別の業まで背負ってるってわけ」

 カズヤが言うには、彼とトウマが所持している武器は、業獣界でも危険とされていた存在から生み出されたものらしい。あまりにも強力で、肉体を与えることが危険だと見なされ、自らの力では動けないよう武器に変えられたそうだ。それらの武器全てを持つのが管理人である奈落。管理人と言ってもただ単に業獣を監視していれば良いわけではなく、その深く重い業を全て受け止めなければならない。彼もまた前世の業を背負った者の1人。これも一種の罰なのだ。

「それぞれの武器が血と肉に飢えている。だから、武器の願いを聞いてあげることで、代わりに僕らも願いを叶えてもらうんだ」

「そんなことができるの?」

「さぁ、わからない」

「わからないのに、戦うの?」

「たとえ嘘っぱちでも、何かに縋ってないとやっていけないんだよ、僕らは」

 その言葉が、由衣にはとても重く感じられた。何の確証もないまま戦い続ける2人。同族を殺し続けたことで、いつしか業獣からも忌み嫌われるようになった。それでも、2人は業獣を斬る手を止めない。止めてしまったら、自分を苦しめている何かから二度と逃れられないと感じているのだ。

「で、あなたは何を求めているの?」

「僕は、愛が欲しい」

「愛?」

「恋愛だけじゃない。家族でも、友達でも、何でも良い。僕は、愛を感じていたいんだ」

 彼の思いに偽りはない。由衣はそう思った。これまでの彼の会話の中で最も落ち着いていて、かつ心のこもった言葉だったからだ。

「あ、来たよ、スパゲティ」

 ちょうどそこへボロネーゼが届いた。会話を中断し、2人は食事を楽しむことにした。

 カズヤの言った通り、このボロネーゼは本当に美味しかった。嬉しそうにフォークに巻いたパスタを口へと運ぶカズヤ。自然と由衣の顔にも笑顔が戻って来た。

「ふふふ、やっと笑ってくれたね」

「え?」

「僕らが初めて会った時からずーっと、君は僕に怒った顔しか見せてくれなかった」

「それは……」

 再び由衣の表情が曇る。カズヤが由衣の前に現れたのは、トウマとの一件があった直後だった。だから、カズヤが由衣の笑顔を見るのは初めてだったのだ。きっとその笑顔というのも、うわべだけのものではない、心からの笑顔を言っているのだろう。由衣は、友達との関わりもあって、自分では笑顔を作っていたつもりだったが、カズヤに言わせればそれは偽物。どこか不自然なものだったらしい。

「今の笑顔は、君の心の底からきてるものだろう? だとしたらそれは、自分の心に正直になれる証拠だ。だったら君も、彼への素直な気持ちをぶつければ良いんだ」

「それとこれとは話は別でしょ? それに、わ、私は……」

「本当に、君と彼はそっくりだね。彼も自身の心に素直になってないから、今の君みたいに言葉に詰まったんだ」

「あいつも?」

「どうして自分たちの愛に素直になれないんだよ?」

「愛? 愛なわけないじゃない! 何で私があいつなんか」

「言っただろう? 恋愛だけじゃないって。友情でも良いじゃないか。どうして君達は素直になれないんだ? お互いに心に正直になれば、また友達に戻れるのに」

 今日の食事会の本当の目的はこれだったのだ。

 カズヤは、由衣にこのメッセージを伝えたかった。だから、食事という、どんな人間でも正直な気持ちを出しやすい方法をとったのだろう。単に遊びにきたわけではない。カズヤは真剣に、トウマと由衣のことを思っていた。

「……どうして?」

 ここで、由衣が尋ねた。

「どうして、そこまでしてあいつとの仲を戻そうとするの?」

「彼の友人だからさ」

 カズヤの言葉には迷いがなかった。

「あの堅物で、他人に興味を示さなかった彼が、たった1人の人間に心を開こうとしていた。僕にはわかるんだ! 彼の君に対する愛を、僕は無くしたくない」

 その言葉を聞いて、由衣の気持ちは一気に冷めてしまった。カズヤは愛を感じていたいと話していた。結局、この男も自分の心を満たすためにこんなことをしているのだ。由衣の心に怒りが戻ってきた。

「あなたも、私のことを使って、自分の心を満たしたいだけなんでしょ? 私とあいつの仲を無理矢理直して、自分だけ満足したかっただけなんでしょ?」

「違うよ! 僕は……」

「もういい! あんたたちみたいな怪物、大っ嫌い!」

「あ……」

 呆然とするカズヤを残し、席を立った由衣。このまま1人で出て行こうとしたが、ここで予期せぬ事態が巻き起こった。テラスの柵の向こう側に、黒いスーツを着た金髪の男が立っている。その両脇にも同じくスーツをした、体格の良い男たちが。その奥に、何人もの通行人が倒れているのを見て由衣は小さく悲鳴をあげた。

 怖くなって屋内に逃げ込もうとしたが、そちらからも同じ風貌の男たちがやってくるところだった。店内にも、やはりシェフやスタッフが倒れている。由衣とカズヤは、あっという間にスーツの男たちに囲まれてしまった。

「いやぁ、こんなに簡単に見つかるとはねぇ! 俺も嬉しいよぉ!」

 一瞬、男の目が黄色く光った。彼らもまた人間ではなく、業を背負った存在なのか。

 カズヤもそれに気づいて立ち上がった。手には既にステッキが握られている。

「おやおや? もう1人もここにいたとは」

「お前、何者?」

 カズヤが問う。由衣と話していた時とは違う、険しい口調だ。

「おいおいおい、知らねぇのか? ヘルメス・トリスメギストスの名を」

「何? なぜお前がこっちに?」

 ヘルメス・トリスメギストスの名にカズヤは聞き覚えがあった。それもそのはず。その業獣は、業獣界で大きな事件を引き起こした者の1人なのだから。

 その事件とは、管理人である奈落に反旗を翻し、彼を殺して支配者になろうとした業獣たちが、仲間を集めて奈落に攻撃を仕掛けた、というもの。これまで、強大な力を持つ奈落に刃向かうものなど1人もいなかった業獣界に新たな風を呼び込んだ者たち。業獣たちは、初めて奈落に挑んだ9人の反逆者たちを「先九者パイオニア」と呼んだ。その頃から、彼らに感化された業獣たちが各地で争いを起こし、業獣界はさらに混沌とした世界になってしまった。

「反逆罪で再び裁判にかけられたものとばかり思っていたけど、まさか人間界にいたなんてね」

「反逆? これだから育ちの良い坊ちゃんは嫌いだぜ。俺は、英雄だ。悶々として腐りきった業獣界に自由をもたらした、英雄なんだよ!」

 金髪の男、ヘルメスが手をカズヤの方に向けた。すると、彼の手から大量のコインが現れ、カズヤめがけて飛んでいった。躱す間もなく、カズヤはコインの波に押されて吹き飛ばされた。

 邪魔者が消えると、ヘルメスはその鋭い視線で由衣を捉えた。彼が手を広げると、再び無数のコインが現れ、それぞれ回転しながら由衣の方へと向かってゆく。だが、それらが彼女に直撃することはなく、眼前で停止している。

「悪いねぇ。どうしてもぶっ殺したい奴がいてさ」

「それと、それと私と何の関係があるのよ!」

「今にわかるよ。連れて行け」

 ヘルメスに指示された男2人は、由衣の両腕を掴むと無理やり彼女をどこかへ連れて行こうとした。由衣は必死に抵抗するが、彼らはものともしなかった。

 満足げに笑みを浮かべるヘルメス。そんな彼の方へ光の弾が飛んできた。ヘルメスはそれに気づくと、弾を素手で受け止めて握りつぶしてしまった。

 弾が飛んできた方向を見ると、そこには交錯の印を切って変身したファウストの姿があった。

「彼女をどうする気だ?」

「そうだなぁ……殺す、かな?」

「何?」

「じっくりと甚振って、拷問して、二度と飯も食えないようにしてやる。こんな飯も、二度と食えないようにな!」

 言いながら、ヘルメスはテーブルに向けてコインを発射し、それを破壊してしまった。まだ食べかけだったボロネーゼのソースも、地面の上に無残に広がっている。

 込み上げてくる怒り。それを抑えきれず、ファウストは光の弾を乱射した。それら全てを、ヘルメスはいとも簡単に躱してしまう。遠距離攻撃が効かないのならと、武器をステッキに持ち替え敵に飛びかかる。ファウストが向かってくるまでの間にヘルメスは交錯の印を切り、彼のステッキが眼前に向かってくるところで、紺色の鎧を身に纏った悪魔に変身していた。黄金の太い管が口から伸び、背中側から胸を貫き、右肩に突き刺さっている。左腕も同じように左肩から伸びた管が貫いている。業獣らしく、ところどころ腐敗した肉も見えている。

 ヘルメスはその右手でファウストのステッキをつかんでいた。振りほどこうにも、相手の腕力が強いためにそうできなかった。

「お前確か、あいつのダチだったよなぁ?」

「くっ、それがどうした?」

「あいつに伝えておけ。北島組の事務所で待ってるってよ!」

 言いながら、ヘルメスは再び手を広げ、至近距離で大量のコインを発射した。再びファウストの体が宙を舞う。彼が着地するまでに、ヘルメスは人間の姿に戻り、部下、そして由衣とともにその場から立ち去った。ファウストの体は空中でカズヤのものに戻り、地面に体を強く打ち付けた。

 これが、奈落に反旗を翻したものたちの実力。あの業獣がトウマに対して復讐心を抱いていることも聞いているが、なぜ由衣を狙ったのだろう。まさか、バックに別の誰かがいるのか?

 由衣が、そしてトウマが危ない。立ち上がろうとするが、ダメージが大きすぎて体に力が入らない。

「まずい……このままじゃ……」

 全身を襲う痛みに耐えきれず、カズヤは地面に倒れた。

HeRMeSヘルメス TRiSMeGiSTuSトリスメギストス:かつて業獣界の管理人、奈落に反旗を翻した9人の業獣、先九者パイオニアの1人。手からコインを出して飛ばす戦術をとるが、肉弾戦も得意とする。人間界では北島組という暴力団の若頭として潜伏している模様。

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