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KaRMa  作者: 鵤牙之郷
15/16

燃える彫像

 ある夜。

 1人の少女が、人気の無い細い道を走っていた。歳は17歳くらいだろうか。高校の制服を着て、スカートは短めに履いている。街灯が照らす彼女の髪は金色に染まっている。

 しきりに後ろを振り向きながら走る少女。彼女はあるものから逃げていた。こんなことになるとは思っても見なかった。無論、夜遊びが危ないことくらい彼女も理解していた。理解した上で彼女はその道を選んだのだ。自分が危険な目に遭えば、両親も少しは自分と向き合ってくれるかもしれないと思っていた。だが、その代償は大きかった。

 少女の後ろから火の玉が飛んでくる。どうにかそれを躱して走り続けるが、1度に大量に飛んでくる玉を避けるのは至難の業だった。結局、彼女の脹ら脛に火の玉が直撃、少女はバランスを崩して点灯した。

 足を押さえる少女のもとに、1人の男が歩み寄ってきた。痩せ形で、30代くらいの男だ。かなりの猫背で、散髪に行っていないのか、髪は肩の辺りまで伸びている。グレーのシャツや茶色のズボンも所々穴が空いている。

「く、来るな! こっちに来るな!」

 近くに転がっていた石ころを投げつけるが、火の玉が男の体から飛び出し、それを焼き焦がした。

「お前も、俺のものになれ」

 そう言うと、男は右手を広げて少女に向けた。何をされるのだろうかと固まる少女。すると、次の瞬間、男の右手から何かが飛ばされた。それは手を直視していた少女の目に直撃し、視界を遮った。それだけではない。彼女は両目を覆いながら悶えている。

「熱い! 熱いぃっ!」

 少しすると、少女の目から湯気が立ちこめた。痛みと熱に耐えられず、ケダモノのような悲鳴を上げる少女。男は暗闇の中で気味の悪い笑い声をあげた。

「すぐに、楽にしてやるよぉ!」

 暴れる少女の頭を鷲掴みにする男性。どうやらその手も熱を帯びているらしく、今度は少女の頭が焼かれてゆく。

 初めは大声を上げていた少女だったが、すぐにその声は止んだ。

 男の手から、熱を帯びた何かが流れ出した。あまりの熱さに周囲が霧に包まれる。

「何やってるんだ!」

 少女の悲鳴を聞きつけたのか、近隣住民が集まってきた。男は舌打ちをすると少女をその場に放置し、霧に紛れて姿をくらました。

 霧はすぐに晴れた。もうそこには、あの男の姿は無い。何事だったのだろうと困惑する住人達。と、1人があるものを見つけて大きな悲鳴を上げた。

 街灯の隣に立つ、所々艶のあるオブジェ。ゴムが焼けたような異臭を放つそれは、人の形をしている。

「おい、で、電話! 警察、警察!」

 慌てふためく住人達。

 現場に残されたオブジェは、両目を手で覆い、上を向き、不自然な格好でその場に立っていた。全体を何か、蝋のようなものが覆っているが、足の一部や肘は剥き出しになっている。

 蝋に覆われていたのは紛れもなくあの少女だった。まだこのときは、僅かに意識が残っていた。だがそれももうすぐ途絶える。脳が痺れてゆくような感覚。貧血になって頭から血が引いていくような、あの感覚。少女はそれを体感していた。視界がぼやけ、徐々に何も見えなくなってゆく。目が見えなくなると、今度は耳が敏感になる。しかし、それも一瞬のこと。耳もまた力を失い、音は小さくなる。

 薄れゆく意識の中で最期に彼女が聞いたのは、自分を見て驚いている住人達の悲鳴だった。






 いつものように、席に着いてノートをとる由衣。講師の言葉もしっかりとメモしている。

 最前列の席にはいつも通りトウマが腰掛けている。視界に入れたくはないが、どうしても見えてしまう。そして彼の背中を見る度に、あの夜の、怒りと悲しみが混ざり合った、何とも言えない不快な感情がこみ上げてくる。ノートをとる手も止まり、頭もだんだんと下を向く。これほどの屈辱を、今までに感じたことがあっただろうか。

「おい、そこ、大丈夫か?」

 教授には由衣が体調を崩したように見えたらしい。

 心配そうに声をかける教授に対し、由衣は「大丈夫です」とだけ答えた。どうやら、自然と歯を強く噛み締めていたらしい。声をかけられた途端、由衣の奥歯を重い痛みが襲った。

 授業が再開される。何となくトウマの方に目をやるが、やはり彼はただ前を見つめている。が、その手には筆記具が握られていない。業獣は板書などせずとも簡単に記憶できてしまうものなのだろうか。だとすれば、彼もまたあの夜のことを鮮明に覚えているはずだ。それでも、彼は何も感じないだろう。トウマにとって、自分は他人よりも少しだけ接点の多い人間にすぎない。授業に集中するはずが、またトウマのことばかり考えている。それも、事実かどうかもわからない、妄想に近いものだ。これではまずい。由衣は軽く頭を振って、教授と黒板に意識を集中するよう努めた。

 30分後に講義が終了し、生徒達は各々帰り支度を始めた。

 また前を見ると、もうそこにはトウマの姿は無かった。先に出て行ってしまったらしい。また新しい業獣が現れたのだろうか、それとも、由衣から離れたかったのだろうか。

 これでいい。向こうもそのつもりなら、忘れることは簡単だ。由衣は自分にそう言い聞かせる。が、心の奥底には、トウマに見向きもされなくなったことを辛いと思う自分がいた。

 カバンに荷物を詰めて教室を出ようとした、そのとき、

「ごきげんよう!」

 と、後ろから誰かが声をかけて来た。振り返る間もなく、相手は由衣の肩に手を回して彼女の顔を見つめた。

 相手はカズヤだった。トウマと違い、カズヤは人間に対して好意的らしい。ただ、少々攻めの姿勢が強すぎるようだ。由衣はカズヤの手を払って彼から離れた。

「あははは、可愛いね」

「な、何なの?」

「いやぁ、彼がさぁ、君を僕の彼女にしてもいいって言ってたからさ」

 彼とはトウマのことだ。授業中に膨らんだ妄想が再び想起される。怒りと悲しみがこみ上げてくる。それをカズヤに悟られまいと平静を保った。

「へぇ、驚かないんだ」

「別に。アイツとは何でもないから。もちろん、あなたとも」

 足早にカズヤのもとから離れる由衣。

 教室を出る直前、由衣はカズヤにこう言い放った。

「私、もう全部忘れることにしたから。アイツのことも、怪物のことも。だから、私はあなたの彼女になるつもりはない。邪魔なだけ」

 1人教室に残されたカズヤは深いため息をついた。素直でない面は彼の“友人”にそっくりだ。カズヤの推理が正しいか否かはわからないが、あの男も本当の気持ちを心の奥底に無理やり押し込み、封じ込めている。類は友を呼ぶという言葉はあながち間違いではないのかもしれない。

 いや、もしかすると、彼らは目指すべき場所が見えていないのかもしれない。彼女のことを見ていてわかったことがひとつ。由衣はまだ、トウマのことを完全に見放したわけではない。心のどこかでトウマのことを待っている。そして、心の中に存在するこの2つの感情のせいで、彼女自身わけがわからなくなっている。それはきっとトウマも同じだ。彼らは、互いに何をどうしたいのかがわかっていないのだろう。第三者であるカズヤからすれば、路頭に迷う2人の姿は滑稽に見える。

 業獣になって以来、カズヤは他者の感情を覗き見ることが出来るようになった。対象は人間でも業獣でもどちらでも良い。見るだけで、相手が何を考えているのかが手に取るようにわかるのだ。由衣、そしてトウマの弱さを改めて理解したカズヤは、薄紫の帽子に手をかけ、ニヤリと笑みを浮かべた。しかし、その目は笑っていない。

 教室から出るとカズヤの表情が険しくなった。業獣特有の、どす黒い、薄気味悪い気を察知したのだ。この近くに業獣が潜んでいる。気の強さから、相手がこのキャンパスからそう遠くない場所にいることがわかる。

 由衣のことも気になるが、彼が人間界にやって来た理由はトウマと同じく、業獣を殺して願いを叶えるため。指を鳴らすと、カズヤはその場から姿を消した。




 その頃、トウマは新たな業獣を探していた。

 大学の近辺で、相次いで女性が失踪しているらしい。奈落からの情報だ。女性ばかりを狙う業獣。業の中でも最も典型的で、それでいて最も醜いもの。性的欲求が業獣を突き動かしているのかもしれない。

 気の流れを読もうとしていると、不意に業獣の気配を察知した。探している獲物だろうか。いや、違う。気配は彼のすぐ近くからする。相手は素早くトウマに近づき、そして、

「死ねぇっ!」

 飛びかかって来た。トウマは素早く躱して武器を取り出した。

 そこに立っていたのは、右手がムカデのようになった業獣。以前も戦ったことがあったが、その時は芭蕉に付き添っている業獣に邪魔されて取り逃がしたのだ。

「へへへへ、流石だなぁ、兄ちゃん」

「ふん、1人で来るとは、威勢だけは認めてやる」

「……お褒めに預かり光栄です……なんてなぁっ!」

 突然、別方向からも業獣の気配を察した。見ると、件の業獣・ラクシャーサが迫って来るところだった。ジャンプして敵の攻撃を躱すも、続けてムカデの業獣が迫って来る。芭蕉は本気でトウマを殺しにかかっているようだ。

「やはり、屑は屑か」

「言ってな! お前は、その屑に殺されるんだからよ!」

 この男1人なら、人間の姿のままでも充分戦えそうだが、ラクシャーサがついているとなると話は別だ。すぐさま交錯の印を発動し、トウマは悪魔の姿に変化した。剣から衝撃波を放ち、2体へ同時に攻撃をぶつけた。ムカデの方は簡単に吹き飛ばされてしまったが、やはりラクシャーサは一筋縄にはいかない。衝撃波など物ともせず、トウマに向けて蛇を飛ばしてきたのだ。

 蛇を1体切り落としたところへ、ラクシャーサ本体が強烈なタックルをお見舞いする。これには流石のトウマも怯んでしまった。体勢を立て直す隙を与えんとばかりに、敵は尾を使ってトウマを攻撃した。運の悪いことに、剣はラクシャーサの尾によって払い落されてしまった。

「さて、そろそろ終わりにしようぜ!」

 追い詰められたトウマを見てムカデの業獣が襲いかかる。彼の生きた右腕が、トウマめがけて伸びてゆく。

「死ねぇっ、同族殺しぃっ!」

 まさか、こんな下劣な業獣にここまで追い詰められるとは。トウマはまだ諦めておらず、ムカデを払いのけようと身構えるが、今度はラクシャーサの長い尾が彼の首を捕らえた。

 これには、ムカデの業獣も勝利を確信した。これなら、あの同族殺しを倒せる。芭蕉の信頼も得られると。しかし、彼の思惑は外れることとなる。別方向から光の弾が飛んできて、ムカデの右腕を貫いた。怯んだ業獣が右腕を戻し、弾が飛んできた方向に目をやる。

「2対1は卑怯なんじゃないの?」

 そこにいたのは、ステッキをライフルのように構えるファウストだった。指を鳴らしてハットを紫色のものに戻すと、すぐさまラクシャーサの方へ向かい、ステッキで敵を追い払った。拘束から解放されたトウマに手を差し伸べるが、トウマはそれを受け入れず、自分で立ち上がって剣を取った。

「何故お前がここに?」

「決まってるだろ? 殺して願いを叶えるためだよ。さ、どっちが先に仕留められるかな?」

 2人が同時に攻撃を放つ。トウマは剣撃でムカデを襲う。ラクシャーサが助けに入ろうとするが、ファウストの魔法のような攻撃によってそれを阻まれる。

「おっ、おい! 猿! 早く助けろよ!」

 ムカデがラクシャーサに助けを求めるが、ラクシャーサはこれ以上ムカデに肩入れするのは時間の無駄だと考えたのだろう、背を向けてどこかへ逃げ去った。強力な助っ人を失ったムカデも、悔しそうな声をあげてその場から退散した。

 戦いが終わると、トウマとファウストは元の姿に戻った。ファウスト、もといカズヤは笑っているが、トウマは相変わらずしかめっ面だった。

「全く、彼女にはフラれるし、お友達にはセコい手で殺されそうになるし、災難だね」

「黙れ! 奴等は友人ではないし、あいつも……」

「あいつも、何かな?」

 どういうわけか、由衣のことを切り捨てる事ができなかった。あいつもただの人間に過ぎない。そう言いたいのに、言葉が出ない。困惑するトウマに、カズヤが迫った。

「僕が思うに、君達は自分の気持ちに嘘をついている。本当は愛を求めているはずだ。彼女も、君も」

 カズヤは愛を求める業獣。それゆえに、他人の愛にはかなり敏感なようだ。愛といっても恋愛だけではない。互いを認め合う絆のようなもの。それも、カズヤに言わせれば、れっきとした愛の形なのだ。

「はっきり言っておく」

 と、カズヤは声のトーンを落とした。

「僕は、愛を粗末にする奴が嫌いだ。たとえそれが友人でも、愛を粗末にするのなら、僕は決して許さない」

「お前……」

「……おっと、別の業獣が出たみたいだよ。……行くなら、今しかない」

 そう言うとカズヤはその場から立ち去った。業獣は彼も狙っているはず。敢えて殺しに行かなかったのは、トウマに倒させようとしているのかもしれない。今しかない、というのも「殺すのは今が狙い目」という意味ではないのだろう。そこには別の意味が含まれているに違いない。

 友の言葉に、トウマはさらに険しい表情になる。

 自分が、あの女に特別な感情を抱いているのか? トウマ自身、それが理解できていなかった。

「そんなはずはない。たかが人間に、特別な思いを抱くなど、決して……」

 独り言を呟いていると、急に彼の頭を激しい痛みが襲った。手で頭を押さえると、彼の脳裏に、見たこともない映像が過ぎった。

 どこかの、大きな宮廷の一室。トウマはその中で、もう1人の女性と一緒にいる。その女性は顔をベールで隠していて表情は伺えないが、なんとなく笑っていることはわかった。

 女性はゆっくりとトウマに歩み寄り、彼の目の前に立ったとき、そのベールを取り払った。ベールの奥に隠されていた顔は……。

 そこで映像は途切れ、痛みも消えた。

「今のは、俺の前世……?」

 あのような現象が襲ってくるのは今に始まったことではない。これまでにも何度かトウマは頭痛に悩まされていた。そしてあの映像も、徐々に鮮明になっていった。初めは何かわからなかったが、今回ははっきりと理解できた。この現象が起きるときに限って、トウマのそばには彼女がいた。

「あの女、何者なんだ?」

 草薙由衣。確か奈落も、彼女はトウマにとって重要な人物だと言っていた。まさか彼女の存在が、前世の記憶を取り戻す鍵なのか?

「くっ……認めない。俺は、俺のやり方で記憶を取り戻す!」

 業獣の居場所を特定すると、トウマは新たな戦場へと向かった。




「何なのよ、アイツ」

 キャンパスを出ると、由衣はカズヤのことを思い浮かべて悪態をついた。知り合ったのはつい最近のこと。それなのに、相手は一気に距離を縮めようとしてくる。由衣にとっては迷惑極まりなかった。


“彼がさぁ、君を僕の彼女にしてもいいって言ってたからさ”


 不意に、カズヤが言った言葉を思い出した。同時に、駅へと向かっていた彼女の足も止まった。

 別にトウマと交際していたわけではない。愛情などこれっぽっちも感じていない。そのはずなのだが、妙にあの言葉が心に突き刺さる。何故だろう。魂が入れ替わる前の、あの穏やかな斗真を恋しく感じているのだろうか。いや、それとも違う。では、この気味の悪い何かはどこからやってきたのだろうか。

 忘れようとしているのだが、カズヤの言葉を皮切りに、トウマとの思い出が次々に蘇ってきた。公園で初めて業獣の存在を知ったとき。教授になりすましていた業獣から助けられたとき。無理矢理手伝わされて、占い師の店にも入ったりもした。初めは邪魔者扱いされていた由衣だったが、あのときはトウマの方から手伝って欲しいと頼まれたのだ。何だかんだ、彼と由衣との間には、深い絆が生まれていたのかもしれない。そして、トウマが自分のことを認めてくれたことも由衣は嬉しかった。

 そう。斗真ではない。トウマに強い思いを抱いているのだ。

 だからこそ、あの夜の一件は辛かった。

 トウマの方からデートに誘ってくれた。それは、2人の関係がより深いものになった証だと思っていた。見た目は片思いの相手と同じだが、中身は別人。当初は三神斗真が死んだということに絶望していた由衣だったが、徐々に斗真ではなく“トウマ”という存在に対して興味を抱くようになっていった。相手の正体は怪物だが、それでも元は人間。トウマとも分かり合えるようになる。そんな気がしていた。そしてそれが、ついに叶うのではないかと思っていた。あの“裏切り”は、その矢先の出来事だったというわけだ。

 ここまで考えて、由衣はクスッと笑った。自分が馬鹿だった。あんな堅物な化け物と仲良くなれるなどと思っていた自分が無様だった。

 今までの出来事はすべて、夢のようなものだったのだ。そう考えることにした。もう業獣も何も関係ない。何度か業獣に狙われたこともあったが、それはきっとトウマと出会ってしまったからだ。彼との関係も終わった。業獣狩りに協力することもない。これから先は、自分の思う道を進む。自分のための道を。決意を胸に再び歩き出す由衣。すると、

「綺麗だな」

 背後から、男性の声がした。恐る恐る振り返ると、そこには小太りの男の姿が。髪は伸びきってボサボサになっており、目が髪に隠れている。紺のセーターを着ているが、袖も伸びていて、所々ほつれている。履いているジーンズやスニーカーは土か何かで汚れている。

 辺りを見回すが、男の他には誰もいない。人気のない道で立ち止まっていたため、怪しい人物に目をつけられてしまったか。

 後ずさる由衣。すると、男もじりじりと距離を詰めてくる。

「お前も、俺の……」

 言いながら、男はセーターの袖をまくった。露わになった手は爛れている。何をするのかと構えていると、急に男の手から火が上がった。ライターのようなものは持っていない。突然、男の手が燃え上がったのだ。にも関わらず、目の前の男は苦しむそぶりを見せない。それどころか、笑っている。

 これで相手の正体がわかった。また業獣が現れたのだ。

「嘘……何で、何で私のところにばっかり出るのよ!」

 じわじわと侵食していた恐怖がどっと彼女の心に流れ込んできた。由衣は慌てて走り出した。男はゆっくりとした歩調で後を追い、手から火の玉を飛ばして由衣の行く手を阻む。道を変えて逃げ続けたが、彼女がたどり着いた先は、行き止まりだった。

 そこに建っていたのは、今は使われていない工場。高いフェンスで覆われているが、誰かがいたずらでもしたのか、一箇所だけ破損している。

 左右には一軒屋が建っているが、こちらもコンクリートの塀に守られていて、逃げ場にはならない。仮に家に逃げ込んだとしても相手は業獣だ。その家の住人もろとも由衣を襲うに違いない。正義感の強い由衣は、他人を巻き込むことは何としても避けたかった。

 振り返ると、ちょうど男が鼻歌まじりにやってくるところだった。走らず、ゆっくりとしたペースで歩いているところを見る限り、相当余裕があるように思われる。

「人間は単純だな」

 ある程度距離を縮めると、男はそう呟いた。

「少し誘導しただけで、簡単に罠にはまってしまう」

「罠?」

「この近辺はいい具合に寂れている。おまけに狭い道も多い。まるで迷宮みたいにな。それに何よりも……この辺り、いや、現代はいい女がごまんといる」

 言いながら、男は舌なめずりをした。業獣の世界にも所謂変態が存在していたらしい。そもそも相手は元人間。過去に同じように女性を食い物にし、その罪を背負って獣になってしまったのだろう。今も、男は低めの声で「女、女、女、女」と呟いている。

「俺は、女を保存しておきたい」

「保存? 保存って何? どうするつもり?」

「文字通り、永遠に保存するのさ。俺の館にな」

 男の右手が徐々に怪物のものに変わってゆく。手の甲は人間のそれよりもはるかに大きく、指も長いようだ。相手の手は蝋で覆われており、大きなヒレのようになっているのだ。そのため正しい甲の大きさや指の長さはわからない。ヒレからはどくどくと蝋が流れ出ており、地面に落ちると瞬時に固まってしまう。

 保存。

 蝋を見て、何となく想像がついた。おそらく男は由衣を焼き、蝋で固めてしまうつもりなのだ。前に知人がそんなホラー映画を薦めてきたことがあった。まさか映画の登場人物と全く同じ運命をたどることになろうとは。

「さぁ、俺のものになれ、女ぁ!」

 男がそう叫ぶと、由衣に向けて蝋を飛ばしてきた。間一髪のところでそれを躱すと、由衣は工場の中へと逃げ込んだ。工場は奴の巣。これではむしろ相手の思う壺だ。

 中は薄暗く、壁に空いた隙間から差し込む陽の光だけが頼りだった。まだ大きな機材なども残されており、隠れるのには最適だ。来た道を確認するが、相手はまだ追いついていない。

 今のうちにどこかに隠れよう。ベルトコンベアが設置されている大きな部屋に逃げ込むと、極力物音を立てないように、慎重に隠れる場所を探した。しかし、この部屋には隠れるのに適した場所がない。ベルトコンベアの陰に隠れてもすぐに見つかってしまうだろう。

 しかしそれでもまだチャンスはある。部屋の両脇には、別の部屋へと続く扉がある。この先なら良い場所があるかもしれない。藁にもすがる思いでノブに手をかける。鍵は開いていた。男が来ていないことをもう一度確認すると、由衣は急いでその部屋に入った。しかしすぐに、由衣は部屋に入ったことを後悔する。

 この部屋はほぼ真っ暗だが、奥にガラス窓があるらしく、そこから光が差し込んでいた。その光を、何かが邪魔している。1つや2つではない。幾つもの物体が光を遮っている。天井から何かが吊るされているのだ。恐る恐る顔を上げると、それら全てが人の形をしていることがわかった。窓から差し込む光が、それぞれの表面に艶があることを彼女に気づかせる。マネキンだろうか、いや、違う。全部蝋で固められた人間だ。暗い部屋で順応した彼女の目が、眼前にある物体のつま先らしき部分が妙に生々しいことを確認した。色はよくわからない。わかりたくもない。たまらず由衣が悲鳴をあげて部屋から出た。すると、

「女、女」

 ちょうど、男がベルトコンベアの部屋に入ってくるところだった。

「見たのか?」

 手のひらから炎を出し、弄びながら尋ねた。

「見たのか?」

 言葉が出ない。怪物に襲われ、罠にかかり、終いには何人もの犠牲者を目の当たりにした。立て続けに襲いくる恐怖が、確実に由衣から平常心を奪っていった。

「そうか。見たのか」

 炎が消えると、男の手のひらから蝋がドロッと地面に落ちた。彼はその手を由衣に向けている。

「お前も、そうなるんだぁっ!」

 炎を帯びた蝋の弾丸が、由衣めがけて飛んでゆく。目を瞑る由衣。だがその弾丸は、轟音とともに消し飛んだ。

 コンクリートの破片とともに、1体の業獣が降り立った。剣を持った悪魔、トウマだ。

「トウマ!」

「何だ貴様ぁ!」

 喚く男に、トウマが剣を向けた。

「お前を、狩りに来た」

 悪魔の顔には目と思しきものは伺えないが、トウマの瞳は確実に、目の前の男を捉えていた。

「と、トウマ」

「逃げたきゃ逃げろ」

 由衣に冷たい言葉をかけるトウマ。

「俺はこいつに用がある」

 命は救われたが、由衣の心は再び暗い感情に支配されていた。部屋の奥には大きな穴が空いている。着地と同時にトウマが空けたらしい。由衣はそこから外へ出たが、すぐに逃げることはなく、数秒ほどトウマの後ろ姿を見つめていた。

「早く行け!」

 それに気づいたトウマが叫ぶ。由衣は唇を噛み、その場から立ち去った。まるで、何かを堪えるような、悲しげな表情だった。

 彼女の顔を見ることもなく、トウマは目の前の男を牽制する。

「噂は聞いているだろう? 同族殺しの業獣の噂を」

「何故だ? 何故人間を助ける?」

「勘違いするな。俺は、俺のために戦っている」

「ふざけるなぁっ!」

 男が両手を胸の前でクロスさせる。彼の体は瞬く間に炎に包まれ、両手を広げたと同時に、全身を蝋で覆われた、鬼のような姿に変貌した。角の代わりに、頭部にはロウソクが刺さっている。今も敵の体を覆う蝋は固まっておらず、少し動くとぼたぼたと汚らしく雫が垂れた。

 業獣は唸り声を上げると、蝋の弾丸をいくつも飛ばして来た。トウマはそれらを正確に斬り捨てる。が、敵の弾丸はまだ固まっていない蝋。トウマの剣にそれが纏わりつき、重みのせいで剣を振るう速度も落ちてしまった。

 隙をついて業獣が襲いかかる。蝋によってさらに大きくなった両手を使って攻撃を仕掛ける。トウマはそれらの攻撃全てを剣で防ぐが、その度に新たな蝋が剣に纏わりついた。

「ふん、お前のことは知っている」

 そう言うと、トウマは業獣の腹に蹴りを入れ、その反動で後ろへと退いた。距離を置くと、今度は剣に力を込める。すると、彼の剣から炎が吹き出した。その炎を見て業獣も驚いたようだが、すぐさま威嚇の雄叫びをあげて飛びかかって来た。

「お前が、何を嫌っているのかもな!」

 炎を纏った剣を振るうと、衝撃波とともに赤い炎が業獣めがけて飛んでいった。炎は敵の体を捕らえると、その勢いを増して体を焼いた。

「やめろぉっ! やめてくれぇっ!」

 炎を振り払おうと暴れまわる業獣。暴れれば暴れるほど、炎は威力を増していった。そして最後には全ての蝋を溶かし、中に隠れていた本体を焼き尽くした。

 相手は前世に生きた娘を捕らえて蝋人形にしていた貴族。その罰として、永遠に業獣界で炎と熱に苦しめられることとなった。その苦しみを少しでも和らげるため、業獣は自らすすんで蝋を纏ったのだ。炎を操る敵の一番の弱点は、その炎だったのだ。

 業獣が灰となって消え去ったのを確認すると、トウマは人間の姿に戻った。

 これでまたひとつ、彼のゴールが近づいた。しかし、彼の心にはぽっかりと穴が空いていた。何とも言えない喪失感。トウマ自身もそれが不気味でならなかった。

「何だ、この感情は」

 靄がかかったような心。その靄を抱えたまま、トウマは工場を去った。





 またもトウマに助けられた。

 トウマが来た時、由衣はそれを嬉しく感じていた。あれほど嫌悪感を抱いていたにも関わらず。やはり心のどこかにいる別の自分は、トウマを見つめ、トウマを求めているようだ。

 一瞬、彼と元通りの関係になれると思った。仲が良いとは言えないが、トウマの傍若無人ぶりに由衣が呆れ、時にはツッコミを入れ、口論する。とても幸せな状況には見えないが、それでもどこか楽しくて、心を満たしてくれていた。

 トウマと仲直りがしたい。そのチャンスが巡って来たと思った。だが、駆けつけた彼が投げつけたのは、とても冷たい言葉だった。彼はまだ、業獣を殺すことだけに集中していた。

 日が傾き、空が優しげなオレンジ色に染まっている。その温かい光に包まれた道を、由衣は1人、泣きながら歩いていた。

MeLTiSメルティス: 女性を連れ去り、自身の館で拷問した後、遺体を蝋人形にして飾っていた貴族が、その業によって変貌した姿。永遠に炎に焼かれ続ける罰を受けたが、その苦しみを和らげるべく、数多の遺体に使用してきた蝋を自らの体に纏った。固まることのない蝋を弾丸のようにして飛ばすほか、炎を操る力を持っているが、その罰ゆえ、炎が同時に弱点でもある。

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