ファウスト
「ほう、これは面白い」
山奥に建つ古びた神社で、芭蕉は1人そう呟いた。
トウマに続くもう1体の特殊な業獣が現れた。名前はファウスト。その業獣とトウマは元から知り合いだったらしい。目的は不明だが、彼にも何か実現したいことがあるようで、そのために同族を襲っているらしい。
これらの情報は全て猿の業獣・ラクシャーサが持って来たものだ。彼の擬態能力をトウマもファウストも見抜くことは出来なかった。芭蕉がラクシャーサに纏わせた特殊な波動が、業獣の念をかき消したのだ。
芭蕉がラクシャーサの頭を撫でると、彼は嬉しそうに尻尾をパタパタ動かした。
「面倒なことになってきましたね」
そう呟き夜空を見上げる。
少しすると、神社へ別の業獣がやって来た。中年男性の姿をしているが、片方の腕がムカデのように変化している。ここに来るということは、彼もまた芭蕉に借りがあるのだろう。
「どうしました?」
「芭蕉さんよぉ、どういうことだい! 変な業獣に追われて困ってんだ!」
すぐに勘づいた。ファウストのことだと。この業獣は既に1度トウマと戦っている。その際はラクシャーサが止めに入り難を逃れた。彼の口ぶりから察するに、相手の業獣はトウマではない。現時点で考え得るのはもう片方の業獣のみだ。
「あの業獣殺しから逃げるのも大変なのに、それが2人になったらもう何処へ逃げれば良いか……」
業獣の“逃げる”という言葉に芭蕉は強く反応した。そして、近くに置いておいた杖を手に取り男の首筋に当てた。
「逃げる? 聞き捨てなりませんね」
「な、何を……?」
「誰が逃げていいと言いました? 我々は確かにあなた方のお役に立ちたいと思っています。ですが、あなたがそのようにやる気の無い態度をとるのであれば、こちらもあなたの処分を考えなければなりません」
「しょ、処分って……た、ただの人間が、俺達を飼いならそうってか?」
「ただの、人間ですか」
芭蕉はクスッと笑った。が、目は全く笑っていない。その表情が、業獣には溜まらなく不気味に見えた。すぐにラクシャーサの方に顔を向け、彼を説得しようと試みた。
「お、おい猿! お前も人間の言いなりになってて良いのか? あ? 俺達は、俺達はこんな奴等よりもずっと……」
途中で話すのを止めた。ラクシャーサの口元から蛇が顔をのぞかせている。目の無い蛇だ。彼はもうすっかり、芭蕉の可愛いペットになっていた。
「わかったよ」
芭蕉に逆らえばどうなるかわかったものではない。彼は他の業獣を使って武器を作ったと聞いている。自身もまた、再び霊になる機会も与えられず道具にされてしまうかもしれない。それだけは御免だった。業獣はため息をつくとゆっくり立ち上がり、神社から出て行った。
再び静寂を取り戻した神社。芭蕉は杖を置いて月を見上げた。
「さて、そろそろ次の仕事に取りかかるとしましょう」
ラクシャーサを呼ぶと、芭蕉は彼と共に根城から出て行った。
彼の言う次の仕事とは、いったい何なのだろうか。
キャンパスに向けて1人とぼとぼと歩き続ける由衣。彼女の脳裏にはずっとトウマの顔が浮かんでいた。今の思いは、彼女が業獣のことを知る前とは真逆のものだ。早く忘れたいのだが、なかなかトウマとの記憶は消えてくれない。
数日前とは違い、今では冷静にあの日のことを考えることが出来る。トウマが元々優しさなど持ち合わせない存在だということはわかっていた筈。だから何も重く考える必要は無かったのだ。それなのに、何故自分は今も苦しんでいるのだろう。由衣はそのことが不思議だった。
そんなことをずっと考えていると、突然背後から誰かに肩を叩かれた。振り返ると、そこには外人風の顔質をした青年が立っていた。彼のことも知っている。トウマと同じ、業獣を倒す側の存在だ。初めて見た日と同じくハットを被っているが、今日は暑いためか無地のシャツを着ていて、袖を肘の辺りまで捲っている。
「こんにちは!」
相手も由衣のことを覚えていたらしい。たった1回、しかもほんの少ししか対面していないというのに。
「こ、こんにちは」
「はははっ、怖がらないでよ」
子供の様な笑い声を上げると、青年は由衣にこう尋ねた。
「君、彼のお友達? それとも……大切な人?」
「ちょっ」
咄嗟に相手を軽く突き放してしまった。手を引っ込めて、由衣は顔を赤らめた。その様が青年には滑稽に見えたようで、また子供の様に笑った。
「面白いなぁ、人間の女の子は」
「何なんですか?」
「ごめんごめん。君ともお友達になりたくて。僕、彼の友人なんだ」
“彼”とはトウマのことだろう。先日2人の様子を物陰から窺っていたので何となく理解出来る。業獣を倒した後に戦う様子も無かった。
「こっちの世界では鷺沼和弥っていう名前みたい。よろしくね」
「は、はい。草薙由衣です」
「由衣ちゃんね。由衣ちゃんは彼の友達なんだろう?」
「違います」
即答だった。由衣はどうにかトウマとの関わりを絶とうとしていた。そうすればこの濁った心も澄み切るし、業獣同士の戦いに巻き込まれることもない。もう苦しむ必要は無いのだ。
カズヤは由衣の様子を見て何となく感じた。本心からのものではないと。由衣は必死に、「トウマとの関係を絶ちたい」というのが本心だと自分を偽ろうとしているが、心の何処かでそれを否定している。彼女の言葉、仕草、息遣いを見て、カズヤはそう判断したのだ。
「そっか。まぁいいや。じゃ、また今度ね!」
「え? 今度って?」
声をかけたときには、カズヤは何処かに消えていた。人間の姿をしているが彼も業獣。身体能力は人間のそれとは大きく異なる。
トウマよりは優しいようだが、これ以上業獣とも関わりたくない由衣としては、彼と付き合うのも好ましくはなかった。
ため息をついて再び歩き出す由衣。そんな彼女を、1人の男性がじっと見つめていた。
由衣と別れたカズヤは、彼女が通うキャンパスの屋上にやって来た。空を見上げて深呼吸をするカズヤ。その背後に、剣を構えたトウマが立っていた。先にここに来ていたのか、はたまたカズヤ……いや、業獣としてはファウストのことをつけていたのか。
「答えろファウスト。何故お前がここにいる?」
カズヤは笑みを浮かべたままゆっくりと振り返った。
「ここには邪魔者もいない。答えろ」
「君と同じだよ」
「何?」
カズヤは指を鳴らし、紫色のステッキを呼び出した。どうやらこの武器、トウマが持つ剣と同じように特殊な物質らしい。
「僕にも、叶えたい願い事があるのさ」
「何が願いだ。業獣界では1度も聞いたことが無いぞ、そんな話」
「そうかなぁ? 君が聞いてなかっただけじゃないかな?」
「ふざけるな」
「欲しいものがあるんだ。君が前世の記憶を欲するように、僕もあるものが欲しい」
2人の様に業獣狩りをしている業獣は、何かしら欲しいものがあるらしい。それと彼等の持つ武器がどう関わっているのかは定かではないが。
「まさかお前……」
トウマは、カズヤが何を欲しているのか気づいたらしい。トウマが何かを言いかけたのを制止すると、カズヤは話題を変えた。
「あの由衣って子、君の彼女なんだろう?」
トウマは目を見開き、剣先をカズヤに向けた。が、カズヤもそれをステッキで止めた。この態度からすると、先程カズヤが由衣に接触していたことは知らなかったようだ。
「あんな人間、俺とは関係無い」
「はははっ、強がっちゃって。僕には嘘は通用しないよ。わかってるよね?」
「俺の言葉に偽りは無い。ヤツとは何の関係も無い」
「ふぅん、そっかぁ」
トウマをおちょくるかのような口調。彼の言葉もまた本心から来るものではないと判断したらしい。だがそれは、単に彼の態度から判断したわけではなかった。彼にはトウマの言葉が嘘だと断言出来るだけの、確固たる証拠があった。
「無理だよ、全部奈落から聞いてるからね」
「奈落だと?」
「そ。業獣のことに関しては、彼の言葉に嘘偽りは無い」
どうやら人間界で本格的に狩りを始める前に、カズヤは奈落からトウマと由衣のことを聞きかじったらしい。2人が知り合いだったことは奈落も知っている。トウマのことが話題に上がったとしても何ら不思議は無い。
トウマはかなり苛ついているようで、剣を持つ手は震えている。何も言い返すこと無く、ただ黙って地面を睨みつけている。そんな彼の姿を見てカズヤは面白くなって来た。
「あ、そうだ」
と、ここで彼は驚愕の提案をトウマに突き付ける。
「そこまで言うんだったら、僕が由衣ちゃんを貰っちゃおうかなぁ?」
彼の言葉を聞いてトウマがカズヤの方に視線を移した。かなり驚いている様子だ。この姿を見て、カズヤはますます楽しくなって来た。
「だって、関係無いんでしょう? だったら僕が貰っても良いんじゃないの?」
「貴様……!」
剣を再びカズヤに向けるトウマ。相手は業獣。人間ではないから躊躇わずに斬ることが出来る。が、彼はすぐに剣を仕舞い、カズヤに背を向けた。
「勝手にしろ」
その返答が、カズヤにとってはかなり意外だった。彼は、トウマがもっと取り乱して、本心を現すだろうと考えていたのだ。ここまで淡白な答えが返って来ると何だか調子が狂う。つまらなくなってしまい、カズヤもステッキを仕舞った。
「そっか。それじゃあお言葉に甘えて。……言っとくけど、僕は君よりも人間に詳しいし、人間の女の子を落とすことくらい簡単なんだよ」
それだけ告げると、カズヤはまた何処かに消えてしまった。彼が持つ鷺沼和弥の学生証はこの学校のものではない。ここに潜伏して業獣を探すことは出来ない。彼が通う筈の学校に行ってしまったのだろう。
カズヤがいなくなると、今度は別の客がやって来た。赤黒いタキシードを着た男性、奈落だった。彼の姿を見るなり、トウマは彼に近づき胸ぐらを掴んだ。
「貴様……アイツに何を吹き込んだ!」
「へへへへ、ご立腹だな、おい」
「黙れ! 俺とあの女には何の関わりも無い!」
「さぁて、どうかねぇ」
今日は調子の狂う1日だ。カズヤからも茶化され、奈落もこの様子である。
怒りに興奮してしまったが、どうにか自身を抑えて奈落にカズヤのことを尋ねた。
「何故ヤツにまで武器を渡した?」
「おいおい。お前1人が特別ってワケじゃねぇだろ。お前も醜い業獣の1匹。みんな平等だよ」
「貴様……」
「全く、友達思いだなぁ。危険な狩りに臨む友人のことを思ってるのか?」
「……そうじゃない」
少し間をあけてトウマが言った。彼は視線を遠くの方に移して言葉を続けた。
「俺が斬る分の業獣が殺されてしまう」
奈落は彼の言葉を鼻で笑った。が、言い返すことは無かった。反対に彼の言葉に乗ってやった。
「そうだなぁ。アイツは1度目標を定めると止められないからなぁ」
「ヤツは、まだ欲しているのか?」
「ああ。おまえ以上に飢えてやがるよ、愛に」
愛。それがカズヤの望むもの。彼は業獣狩りをして、愛を手に入れようとしているのだ。
奈落は勿論のこと、トウマも業獣・ファウストの前世をよく知っていた。だからこそ、彼が何を欲しているのかも簡単に気づくことが出来たのだ。
殆どの業獣に言えることだが、ファウストは人生を全うせず、早くに命を落とした。それも子供の頃に。
彼はとある夫婦の家に生まれた。家はあまり裕福ではなかったが、かといって両親は仕事をするわけでもなかった。父親は毎日酒を飲み、母親も違う場所で相手を作って遊んでいた。そんなこともあって、ファウストは両親から全く相手にされなかった。
8歳になると、両親はファウストに仕事をさせた。自分達が遊ぶための金を稼がせるためだ。しかし子供が出来る仕事などたかが知れている。貰える金も少ない。汚れて帰って来る息子を見るなり、両親は彼のことを殴った。褒めるでも慰めるでもなく、ただひたすら怒鳴り、殴り続けた。
愛が欲しい。彼はずっと愛を欲していた。ただ抱きしめてもらうだけでも良い。「おかえり」と言葉をかけてもらうだけでも良い。そんな小さなものでも良いから、愛が欲しかった。しかし、両親はそんな彼の気持ちなど知らず、ろくに金も稼げない息子に苛立ちを隠せずにいた。
そんなあるとき、彼が業獣になるきっかけとなる事件が起きた。
ある晩、両親がファウストに関する話をしていた。夜、眠ることが出来なかった彼は物陰に隠れて話を聞いていた。だが、すぐに後悔することになる。両親はファウストを奴隷として売り出そうと考えていたのだった。
もう、彼等から愛は望めない。自分は奴隷として、知らない地に売りに出されてしまう。彼は静かに小さな部屋に戻り、静かに泣いた。そして決意した。恐ろしいことを。
夜中、両親が寝たことを確認すると、彼はこっそり松明を持って来て暖炉の火をそれに付けた。そして両親の寝ているところに火を放ったのだ。火はたちまち布を燃やしてゆく。両親も火に気づいて起き上がるが、引火してしまって床の火を消すどころではない。その隙にファウストは溜めてあった油を全て零し、更に火を放った。油が零されたことによって火が広がるのも早くなった。両親は、初めは吠えていたが、すぐにその声も聞こえなくなった。
ファウストは逃げるでもなく、床に座り込んだ。自分に愛をくれる人間はこの世にはいない。だったら死んだ方が良い。天国に行けば、自分は愛を手に入れることが出来る。そうすればこの心の苦しみからも解放される。
「おやすみなさい」
彼はそう言って、燃え盛る炎の中で眠りについた。
ところが、彼は天国に行くことは出来なかった。あの晩彼が放った炎は近くの家々にも燃え移り、彼が考えていた以上の犠牲を生んでしまったのだ。
結局、ファウストは地獄に行くでもなく、それよりも悲惨な業獣界に連れて行かれた。そこで彼の身体は醜い怪物へと変貌してしまったのだ。
過去のことを思い返し、カズヤはひと息ついた。
トウマ達と別れた後、カズヤは学校付近の墓地に足を運んでいた。この墓場にいると何故か落ち着くのだ。が、今日はなかなか心が晴れない。それは、彼を包囲するかの様に地面に伏せているクモの様な業獣達のせいだろうか。以前トウマ達のキャンパスに現れたものと同じだ。おそらく芭蕉が放ったものだろう。
「奈落が言ってた業獣か」
どのクモ達も、カズヤの言葉には応えない。その様子がカズヤには何だか滑稽に思えた。
「愛が、欲しいんだ」
業獣を倒せば、愛に近づける。カズヤは交錯の印を切り、ファウストの姿に戻ってステッキを構えた。業獣としての彼の姿を見るなり、クモ達は一斉に飛び上がった。
ファウストはまず光弾を大量に放って数体のクモを撃退した。ジャンプしたため、最も装甲が薄い腹部が露わになったのだ。これで全て倒せたわけではない。数体には攻撃を躱されてしまった。
彼からすれば何ら問題ではない。指を鳴らすと帽子の形状がマリンハットに変化し、彼の身体も水の様に変質、クモ達の方に向かって行った。変幻自在の攻撃に彼等も対処出来ない。攻撃を与えても液体のようになった身体には傷1つ付けられない。反対にファウストは所々身体を固体に戻しつつ、ステッキを使ってクモ達の弱点を確実に突いてゆく。
元の姿に戻ると、ファウストはステッキを回転させた。回転する杖からは光の波が飛び出して来る。波はクモ達を全て飲み込むと空中で丸くなった。中ではクモ達がもがいている。業獣でも息が苦しくなるようだ。
「僕は愛が欲しい」
ファウストがステッキを操作すると、それに合わせて球体も動く。クモ達はその中から出ることが出来ない。息が無くなって動かなくなった個体が数体確認出来る。
「僕の愛のために……死んでくれ」
ステッキを球体の方に向けて突き出すと、球体が勢いよく空中で弾け飛んだ。波から解放されたクモ達も外気に当たった途端身体の腐敗が進み、地面に着く前に砂のようになって消えてしまった。
「この水は君達の命を吸い取る。骨すら残らないよ」
死に絶えた業獣達にそう告げると、カズヤは人間の姿に戻った。先程のクモ達、おそらく30体近くいただろう。
「もっともっと、殺さなきゃ」
彼は新たな業獣を求めて場所を移した。前世で手に入れることが出来なかった“愛”を求めて。




