降臨
一面赤と黒で彩られた世界。そこにはビルもバスも無く、ただ赤い空と黒い岩山が広がっている。岩山から絶えず漏れ出す臭気が大気を汚染している。
そう、ここは現世ではない。自分自身の行為による報いを受けた者達が住まう、天国とも地獄とも違う世界だ。
その世界で対峙する者達がいた。1人は大きな剣を持つ悪魔。赤い骨の様な装飾に、コウモリの翼の様な兜。剣には目玉の様な模様が施されている。もう1体は大きなカエルのような怪物。ピンク色の身体には無数の気泡が出来ている。気泡は割れては生まれを繰り返し、怪物の身体を蝕んでいる。爆発によるものなのか、怪物の下半身は骨が剥き出しになっている。
「さぁ、とっとと終わらせよう」
悪魔が怪物に語りかける。だが、怪物は言葉を話せないのか、ただ雄叫びをあげて威嚇している。
と、ここでカエルが攻撃を仕掛けて来た。相手は口を大きく開けると、自分の身体に出来ている様な気泡を連射して来た。素早くそれらを躱す悪魔。地面に当たった気泡は爆発してしまった。
「つくづく面倒なヤツだな」
悪魔は降下すると共にカエルを切り裂こうとする。しかし相手の身体能力も飛び抜けており、先程の悪魔同様高くジャンプして攻撃を回避した。更に着地した悪魔の頭上に降下し始めた。このまま彼を潰すつもりだ。
「面白い」
落ちて来たカエルに向け、悪魔は持っていた剣を投げた。剣は回転しながら怪物の方に向かっていき、相手の身体を斬りつけた。切断することは出来なかったが、攻撃は相手の気泡に当たり、爆風でカエルの着地点がずれた。
攻撃には失敗し、更にダメージを受けてしまい、怪物は悔しそうに叫び声をあげる。剣を回収した悪魔はトドメを刺そうと怪物に近づく。
「お前も頑張った方だ」
最後に怪物を讃え、その頭に剣を振り下ろさんとする。が、その瞬間、カエルは素早くその場から這って逃げ出した。まだ動く力が残っていたようだ。慌てて悪魔が跡を追う。怪物が逃げる先には大きな穴が。穴は岩山に開いているのではなく、この空間そのものに空いているようだ。
高くジャンプしてその穴に飛び込む怪物。悪魔も同じように飛び込もうとしたが、穴から発せられた電撃によって跳ね返されてしまった。穴は悪魔を受け入れること無く自然消滅してしまった。
あと1歩のところで逃げられた。今あの怪物が向かったのは、彼等が簡単には行けない様な場所。カエルは運が良かった。トドメを刺されそうになったところで、あの場所に逃げるチャンスを得たのだから。
悪魔は剣を地面に強く突き刺した。悔しさで心が支配されてゆく。あんなことさえ無ければ、今頃怪物を始末出来ていた筈。ここからカエルの所に行くのは至難の業だ。
やはり諦めるしか無いのか。また別の相手を探すしか無いのか。ため息をついて剣を引き抜くと、悪魔は次の場所に向けて歩き出した。だが、そこで思わぬことが起きた。
目の前に、大きな穴が空いている。怪物が使ったものと同じ、空間に開いた穴が。
「俺もついてたみたいだな」
そう呟くと、悪魔は穴に向けて駆け出した。今度は排除されることも無い。この穴は、自身のために開かれたのだ。
悪魔は瞬く間に穴に吸い込まれた。彼が入ったのと同時に、穴はまたすっと閉じてしまった。
「間違いない。この先は……現世だ」
彼等が向かう先、それはあの世界よりもずっと色鮮やかで、ずっと住み心地の良い世界……現世。
草薙由衣はいつもその学生のことを見つめていた。
教室の最前列に座り、熱心にノートをとっている学生。髪は首の辺りまで伸びていてつやがある。痩せ形で、あまりスポーツは得意でない方だが、それでも由衣には彼の背中が頼もしく見えた。
「由衣? 由衣? ちょっと!」
「えっ?」
「ノートノート」
「……あっ」
友人に声をかけられて我に返ることなど日常茶飯事。最前列の青年に心を奪われて、いつも真面目に授業が受けられないのだ。何とか落第点は取らずに済んでいるが、それも全て友人達が協力してくれているおかげ。彼等がいなければ留年になっていたかもしれない。
授業が終わると、由衣は片付けをしながら最前列の青年を観察し始めた。これが彼女の最近の日課だ。教科書、ノート、そして筆記具を茶色の鞄に仕舞い、青年が立ち上がる。そして顔をこちらの方に向ける。当然彼は由衣を見つめているのではない。出口の方を見ているだけだ。それでも由衣は幸せだった。彼の顔を見ているだけで疲れが吹き飛んだ。
その生徒の名は三神斗真。同じ時期にこの大学に入った生徒だ。穏やかな性格で、誰に対しても同じように接してくれる。彼のことを悪く言う学生はそうそう、いや、おそらく全くいないだろう。
初めて見たときから、由衣は彼に夢中だった。これを運命と呼ぶのだろうと思った。ここまで胸をときめかせたことは今まで1度も無かった。これまでとは違った感覚。それが恋であると気づくのにそう時間はいらなかった。
前に1度だけ、彼と話す機会があった。そのときは由衣が知らない男子学生に絡まれていたのだが、そこへ斗真が通りかかり、彼等を引き離してくれたのだ。彼は暴力を振るうこと無く、誰も傷つけずに争いを止めたのだ。そのときの斗真の笑顔は輝いて見えた。
それ以来毎日斗真のことを見つめている。話すことも無く、ただずっと見つめている。いつか彼と同じ屋根の下で暮らす。そんなことを夢見ながら。
斗真が歩いて来る。由衣は恥ずかしくなって目を逸らしたが、やはり彼のことが気になる。鞄の中を弄るフリをして、こっそりと斗真を観察する。
と、ここで由衣はため息をついた。いつまでこんなことをしているのだろう。ただ見つめているだけで相手が振り向いてくれるわけではない。確かに由衣は大学の中でも綺麗な方だが、飛び抜けて美しい、可愛らしいというわけではない。このままでは他の女子に彼を取られてしまうかもしれない。
由衣は意を決して立ち上がった。自分を変える。そして、運命を変える。斗真にアタックするのは今しかない。後で後でと先延ばしにしていたら、本当に誰かに取られてしまう。声をかけようとして立ち上がったが、そこにはもう斗真の姿は無かった。彼は退室してしまったらしい。
大慌てで帰り支度を済ませ、由衣は教室から出て行った。廊下に出ると遠くの方に彼の後ろ姿を発見。誰かと話をしているようだ。まだ間に合う。しかし、この距離を縮めることが出来ない。心の中で別の自分が「まだ早い」と由衣の手を掴んでいる。
斗真が再び歩き出した。由衣も同じように足を動かす。
この大学から駅までは少々時間がかかる。駅に向かう途中には公園があって、彼はいつもそこの自販機でコーヒーを買い、一旦ベンチに腰掛けて飲んでいる。由衣がこれまで彼を観察し続けて知ったことだ。
今日もいつも通りコーヒーを購入。しかし、座れるベンチが見つからない。今日は公園でピエロの格好をしたパフォーマーが曲芸を見せているのだ。そのせいでいつもより人が多い。斗真はその場に立ち惚けてしまった。
「何よ、こういう日に限って」
斗真がベンチに腰掛けたところで話しかけようと思っていたのだが、それは難しそうだ。先程までの勇気は何処かへ飛んでいってしまった。今日はもう話しかけられない。諦めて先に帰ろうとした、そのとき、突然園内に轟音が鳴り響いた。思わずその場にしゃがみ込む由衣。パフォーマンスを見ていた観客達が大慌てで逃げ出してゆく。
音が止んだところで顔を上げる。先程までパフォーマーがいた場所に、大きなトラックが転がっている。事故だ。理由はわからないが、トラックが園内に突っ込んだのだ。隙間からは何やら赤い液体が漏れ出ている。誰かが負傷したらしい。
「あっ、救急車!」
急いで携帯をバッグから取り出し、救急車を呼ぼうとしていると、彼女の視界にあるものが飛び込んで来た。
トラックから少し離れた場所に倒れている、1人の男性。うつ伏せで顔は見えない。彼の近くには破裂したコーヒーの缶も転がっている。
携帯が由衣の手から落ちた。続いて彼女自身もその場に崩れた。
あそこに転がっているのは斗真だ。トラックにはねられてしまったのだ。
こんなことがあり得るのだろうか。最愛の人物が、目の前で命を奪われることになるなんて。もっと早く声をかけていれば良かった。まだ彼とは多く話していない。自分のことも知ってもらっていないし、彼の知らない部分もまだ教えてもらっていない。こんな筈ではない。こんな終わり方は望んでいない。
その場に泣き崩れる由衣。それを見かけた通行人が、彼女を逃がそうと近づく。
「何やってるんだ! 早く逃げなさい! トラックが爆発したらどうする!」
「嫌ぁっ! ここに、ここにいさせてぇっ!」
大声で説得する男性と、それでも退かないと悲鳴を上げる由衣。そんな2人の声をかき消す程のけたたましい爆音がその場に鳴り響いた。
何事かと音のした方を見ると、トラックが真っ2つに別れている。その隙間に、先程パフォーマンスを見せていた曲芸師が立っている。全身血だらけだが、曲芸師は辛そうな素振りも見せず、ただじっとその場に立っている。
「あっ、大丈夫ですか?」
通行人が曲芸師に駆け寄る。だが相手は反応しない。
「あの、すぐに救急車を……」
言いかけたところで、いきなりパフォーマーが男の首を掴んで締め上げた。男の方が曲芸師よりも身体が大きい筈なのだが、曲芸師はいとも簡単にその男の身体を持ち上げてしまった。
「な、なにを……」
男の質問には答えず、ピエロは次にあることをした。それは、この世のものとは思えぬ恐ろしい光景だった。
突然、ピエロの口が大きく開かれた。人間のそれよりもずっと大きく。その口の中から、大蛇の様な舌が飛び出し、男に巻き付いた。次の瞬間、男はその舌に引っ張られて口の中へと消えていった。
「な、何、アレ……?」
食事を済ませるとピエロは汚らしい仕草で自身の口を拭いた。そして彼は次に、由衣に目を向けた。
自分も殺される。あの男に食われる。逃げ出さなければならないのだが、身が竦んでその場から動けない。何を思ったか携帯を拾い上げるも、それを男の長い舌によって払い落とされてしまった。
「やめて……来ないで」
ピエロはただ笑みを浮かべているだけで言葉を発しない。由衣の目の前まで来ると、彼は再び口を大きく広げた。まるでカエルの様な口。その奥では何かが光っている。
殺される。由衣はそう悟った。だが、それでも良いと思った。斗真のいない世界等生きている価値が無い。それなら天国で再会した方が良い。そこで幸せに、2人仲良く暮らすのだ。
口から舌が伸びて来る。目を瞑る由衣。だが、舌はなかなか由衣に巻き付いて来ない。ゆっくりを目を開けると、そこにはピエロの姿が無い。キョロキョロと辺りを見回すと、曲芸師がトラックの前に倒れているのが見えた。そして由衣の隣には、1人の男が立っていた。
「逃げられると思うなよ」
それは紛れもなく三神斗真の姿だった。しかし様子がおかしい。今まで見て来た彼はもっと穏やかな顔をしていた。だが今の彼は、何処か冷たい目をしている。
斗真はピエロの方に駆けて行くと、更に1発、2発と蹴りを入れた。立ち上がったピエロの顔面を強く殴って怯ませ、その隙に腹に蹴りを入れた。暴力的な姿も初めて見た。由衣が知っている斗真ではない。斗真の身体をした別の誰かだ。
「どうした? その程度か?」
斗真がピエロを挑発するが、相手はやはり何も答えない。代わりに斗真を睨みつけ、先程の彼さながら、素早い身のこなしで攻撃を仕掛けた。結局どれも斗真に防がれてしまったが。
「人間の身体を得たのが間違いだったようだな、ハゼル」
「グッ……だ、だ……」
何かを言おうとしたピエロに強い蹴りを浴びせる斗真。彼は曲芸師のことをハゼルと呼んでいる。それが本名なのだろうか。
「ここでお前を斬る。お前にも、俺の手助けをしてもらおう」
「こ……と……わ、る」
ここで初めてピエロが言葉を発した。更に自身の顔の前で両腕をクロスさせた。次の瞬間、彼の身体は見る見るうちに大きく、おぞましい怪物の姿に変貌してしまった。ピンク色の身体に大量の気泡、骨が剥き出しになった下半身。その姿はまるでカエルだ。あの大きな口と舌の理由がわかった様な気がする。
「交錯の印か。面白い」
と、ここで斗真も同じように手をクロスさせた。するとこちらも赤黒いオーラに身体が包まれ、瞬く間に悪魔の様な姿に変貌してしまった。手には目玉模様のついた剣が握られている。悪魔は剣をひと振りすると怪物に攻撃を仕掛けた。
何が起きているのか、由衣の頭では処理しきれなかった。いきなりパフォーマーが怪物になり、意中の相手が悪魔に変身し、今目の前で戦っている。気泡に剣が触れるとそれが爆発する。これは夢なのだろうか。
怪物は口から大量の気泡を放って悪魔を攻撃する。剣で裂かれた気泡は体表のものと同じように爆発する。
「お前の業は見切った。とっとと地獄に帰るが良い」
悪魔が剣を振って衝撃波を放つ。怪物は高くジャンプしてその場から逃げ出した。だが悪魔も黙ってはいない。彼は砲丸投げの容量で剣を投げ飛ばしたのだ。激しく回転する剣は怪物の身体を空中で切断してしまった。その後、ブーメランの様に戻って来た剣をキャッチすると、元の斗真の姿に戻った。彼は剣を睨みつけて何やら文句を言っている。
「ちっ、大物を殺せば良いというわけではないのか」
「……三神、君?」
自分でもよくわからなかった。何故彼の名を呼んだのか。
声をかけられ、斗真はゆっくりと由衣の方を向いた。その目はやはりいつもの彼とは違う。ずっと冷たい、刺す様な視線だった。
・HaZeRu……名前は爆ぜるから。カエルの様な姿をした業獣。パフォーマーの死をきっかけに現世に召喚された。爆弾を作って大勢の人間を殺した業を背負っており、そのため自身の身体にも爆発する気泡が出来ている。
・DiaBLo……三神斗真の死をきっかけに現世に降臨した業獣。業獣でありながら他の同族を殺している。その理由とは……。