幼なじみを優先する婚約者っているのね、実際
一度なら、仕方がないと思った。
「申し訳ない、リディア。ミレーヌが熱を出したそうなんだ」
婚約者であるセドリック・オルブライト侯爵令息は、そう言って観劇の約束を取りやめた。
ミレーヌ・ロシュ子爵令嬢は、セドリックの幼なじみだった。
幼い頃に母親を亡くしてから身体を崩し、長く領地で静養していたが、二年前、社交界へ出るため王都へ戻ってきた。
その頃から、セドリックは何かにつけて彼女を気にかけるようになった。
熱を出して心細がっているのなら、幼い頃から親しくしているセドリックを頼ることもあるだろう。
「どうぞ、行って差し上げてください」
リディアはそう答えた。
用意していた新しいドレスは、また別の機会に着ればいい。
二度目も、事情は理解できた。
王宮の夜会で、ミレーヌが人混みに酔った。
休憩室へ付き添ったセドリックは、そのまま戻ってこなかった。
リディアは一人で踊り、一人で挨拶を済ませ、一人で馬車に乗った。
翌日、謝罪に訪れたセドリックは言った。
「彼女には僕しかいないんだ」
「ご家族や侍女の方もいらっしゃるでしょう?」
「そういう意味ではないよ。幼い頃から彼女を知っている僕でなければ、落ち着かないことがあるんだ」
それなら仕方がないのだろう。
リディアにはミレーヌと同じ経験がない。
幼くして母を失った悲しみを、完全に理解することはできない。
「君なら分かってくれるだろう?」
「ええ」
リディアは答えた。
三度目は、昼食の約束だった。
四度目は、領地で暮らすリディアの祖母へ、婚約者として挨拶に行く予定だった。
五度目は、結婚後に暮らす侯爵家別邸を見学する日だった。
ミレーヌの馬車が故障した。
ミレーヌが亡き母の夢を見て泣いている。
ミレーヌが父親との関係について相談したがっている。
理由は毎回違ったが、結果は同じだった。
セドリックはミレーヌのもとへ向かい、リディアとの約束は後回しになった。
彼は必ず謝った。
悪びれもせず約束を破るような男性ではなかった。
花を贈り、事情を説明し、次の約束を取りつけた。
そして最後には、同じ言葉を口にした。
「君との婚約は揺るがないのだから」
その言葉を聞くたび、リディアは自分が大切にされているような気がした。
何があっても揺るがない関係。
幼い頃から結ばれ、両家に認められ、将来を約束された婚約。
十年以上、セドリックはリディアの婚約者だった。
ミレーヌが王都へ戻ってくるまでは、約束を理由もなく反故にするような人ではなかった。
だからこれは一時的なものなのだと、リディアは考えていた。
ミレーヌが王都での生活に慣れれば、きっと以前のように戻る。
セドリックも、幼なじみが心配で少し周囲が見えなくなっているだけだ。
そう思って、二年間が過ぎた。
婚礼の日取りを決めるため、両家が集まった日のことだった。
オルブライト侯爵夫妻とセドリック。
エルフォード伯爵夫妻とリディア。
侯爵家の応接室には、王都で評判の料理店から取り寄せた菓子と、婚礼に適した日を記した書類が用意されていた。
セドリックは約束の時間に遅れて現れた。
「すまない。少し手間取った」
それでも、来たのだからよかった。
リディアはそう考えた。
両家の父親が、秋の終わりと翌年の春のどちらがよいか話し始めた頃、侯爵家の使用人がセドリックへ小さな紙片を渡した。
紙面に目を通したセドリックが立ち上がる。
「父上、母上。申し訳ありませんが、少し席を外します」
侯爵が眉を寄せた。
「どこへ行く」
「ミレーヌのところです。今日は彼女の母上の命日なのですが、急に気分が悪くなったそうで」
部屋の中が静かになった。
侯爵夫人が困ったように息子を見る。
「ロシュ子爵家には、子爵も使用人もいるでしょう」
「ですが、彼女は僕を呼んでいます」
「今日はあなた自身の婚礼の日取りを決めるために、皆様に集まっていただいたのですよ」
「分かっています。長くはかかりません」
セドリックはリディアへ顔を向けた。
「すまない、リディア。君なら分かってくれるだろう?」
その場にいた全員が、リディアを見た。
いつもの問いだった。
いつもどおり、理解を示せばよい。
婚礼の日取りは、セドリックが戻ってから決めればいい。
今日決まらなくとも、別の日に集まり直すことはできる。
けれど、リディアはすぐに返事ができなかった。
自分の婚礼について話し合う席から、婚約者が立ち去ろうとしている。
別の女性に呼ばれたから。
そして、その女性を優先することを、婚約者である自分に理解させようとしている。
「リディア?」
「……ええ」
答えた声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「どうぞ、行って差し上げてください」
「ありがとう。やはり君は優しいね」
セドリックは安心したように微笑み、部屋を出ていった。
その日は結局、婚礼の日取りを決められなかった。
翌日、リディアは知人の令嬢たちと小さな茶会に出席した。
最近流行している恋愛小説の話になり、年下の令嬢が笑いながら言った。
「物語に出てくる男性って、本当にひどい方が多いですわ。幼なじみの女性を優先して、婚約者を何度も待たせるのです」
「物語だからでしょう」
別の令嬢が答えた。
「現実にそんなことをすれば、婚約を解消されてしまうもの」
「やっぱりそうですわよね。幼なじみを優先する婚約者なんて、本当にいるのかしら」
リディアは手にしていたカップを静かに置いた。
幼なじみを優先する婚約者っているのね、実際。
わたくしの婚約者が、そうだった。
他人の話のように考えた瞬間、それまで見えなかったものが、急にはっきり見えた。
婚約者との観劇を取りやめられた令嬢。
夜会で置き去りにされた令嬢。
祖母への挨拶を延期された令嬢。
婚礼の日取りを決める席から、婚約者に立ち去られた令嬢。
その令嬢が自分でなかったなら、リディアはなんと言っただろう。
事情があるなら仕方がない。
幼なじみを心配するのは優しいことだ。
婚約は揺るがないのだから、我慢するべきだ。
そんな言葉をかけるだろうか。
おそらく、かけない。
リディアは帰宅すると、自室の机から予定帳を取り出した。
セドリックとの約束は青いインクで記してある。
取りやめになった予定には、後から赤い線が引かれていた。
ミレーヌが王都へ戻ってきた、この二年間。
セドリックと約束していた予定は、二十三回あった。
そのうち、ミレーヌに関係する理由で取りやめ、または途中で切り上げられたものが十二回。
遅刻が五回。
最後まで予定どおり過ごせたのは、六回だった。
リディアは数字を数え終え、しばらく予定帳を眺めた。
自分は寛大な婚約者なのだと思っていた。
違った。
何度約束を破っても許してくれる、都合のよい相手になっていただけだ。
翌朝、リディアは両親へ婚約解消の意思を伝えた。
エルフォード伯爵は驚いたものの、理由を聞き終えるまで口を挟まなかった。
「セドリック殿を愛していないのか」
「愛しておりました」
リディアは過去形で答えた。
「十年以上、わたくしの婚約者でした。ミレーヌ様が王都へ戻られる前は、誠実な方だと思っておりました」
「では、なぜ」
「愛していたから、これまで理解しようとしてまいりました。ミレーヌ様がおつらいことも、セドリック様が放っておけないことも、理解していたつもりです」
リディアは予定帳を父へ差し出した。
「ですが、わたくしが理解していることを理由に、セドリック様は何度でも、わたくしとの約束を後回しになさいました」
伯爵夫人が、赤い線の数を見つめる。
「リディア。本当にいいのね」
「はい」
「二年前までは、問題なく過ごしていたのでしょう。セドリック様が以前のように戻る可能性はないの?」
「戻るかもしれません」
リディアは否定しなかった。
「ですが、戻らないかもしれません」
婚姻すれば、今より多くの役目を共に担うことになる。
夜会や式典、領地への訪問、親族との付き合い。
侯爵夫人として、リディア一人の都合では変更できない予定も増える。
「そのたびにミレーヌ様から呼ばれれば、セドリック様はわたくしに理解を求めるでしょう。そしてわたくしは、侯爵夫人として笑って許すことを求められます」
「それを、もう続けられないのね」
「続けたくないのです」
リディアは一度、息を吸った。
「婚約を解消してくださいませ」
「侯爵家との縁を失うことになるわ」
「承知しております」
「次の縁談が、すぐに見つかるとは限らない」
「それも承知しております」
それでも、誰かの次にされ続けるために結婚するより、一人でいるほうを選びたい。
リディアがそう告げると、エルフォード伯爵は長く黙った。
やがて予定帳を閉じ、娘を見る。
「分かった。正式に申し入れよう」
両家の話し合いは、一週間後に行われた。
前回と同じ侯爵家の応接室に、前回とは違う書類が置かれている。
セドリックは、深刻に受け止めていないようだった。
「リディアが不満を抱いていたことには気づけなかった。悪かったと思っている」
彼は誠実そうな顔で言った。
「これからは、もう少し君との予定を優先するようにする。ミレーヌにも、できるだけ僕以外の人を頼るよう話してみよう」
「その必要はございません」
「遠慮しなくていい。僕にも反省すべきところはある」
「反省していただくために、婚約解消を申し出たのではありません」
セドリックの表情がわずかに曇った。
「では、何のためだ」
「婚約を終わらせるためです」
「だから、それは分かっている。君がそれほど怒っていたとは思わなかった。しばらく距離を置きたいということだろう?」
「いいえ」
「では、ひと月か。ふた月か」
「期間を定めて離れるのではありません。正式に婚約を解消していただきます」
セドリックは初めて、両家の父親の前に置かれた書類を見た。
王家へ提出するための婚約解消申請書。
双方の家が合意したことを示す署名欄には、すでにエルフォード伯爵の名が記されている。
「待ってくれ」
セドリックが立ち上がった。
「僕たちは十年以上も婚約してきたんだ。こんなことで終わらせるのか」
「わたくしにとっては、こんなことではございません」
「ミレーヌが王都へ戻ってきて、まだ二年だ。そのうち落ち着く」
「その二年間、わたくしはそう思い続けてまいりました」
「ならば、もう少し待ってくれてもいいだろう」
「いつまでですか」
「それは……」
「ミレーヌ様が王都での暮らしに慣れるまででしょうか。亡きお母様を思い出さなくなるまでですか。馬車が故障しなくなるまでですか。それとも、相談したいことがすべてなくなるまででしょうか」
「そんな言い方をするな」
「では、いつまで待てばよかったのでしょう」
セドリックは答えなかった。
「ミレーヌには僕しかいないんだ」
「存じております」
「君なら分かってくれるはずだ」
「これまでは、そうしてまいりました」
リディアは彼をまっすぐ見た。
「ですが、理解することと、受け入れ続けることは同じではございません」
「君との婚約は揺るがないと言っただろう」
「揺るがないと決める権利は、あなたお一人のものではございません」
セドリックは言葉を失った。
オルブライト侯爵は、リディアの予定帳と、過去の予定変更を知らせる手紙の写しを確認していた。
やがて、重い声で言った。
「こちらに非がある」
「父上」
「二年前までは問題がなかったとしても、この二年間のお前の行動が消えるわけではない」
「今後は気をつけます」
「その言葉を信じて、エルフォード伯爵家の令嬢に生涯を預けろというのか」
侯爵は申請書に署名した。
婚約は、正式に解消された。
それでもセドリックは、リディアがいずれ戻ってくると思っていた。
長い婚約だった。
リディアは自分を愛していた。
ミレーヌが王都へ戻ってくる前の十年近く、自分たちは穏やかに関係を築いてきた。
今回は少し強い抗議をしただけだ。
時間がたてば気持ちも静まる。
ミレーヌとの距離を少し調整し、花でも贈れば、また以前のように戻れる。
リディアが贈り物を返しても、彼はまだそう思っていた。
手紙の返事が来なくとも、怒りが続いているだけだと考えた。
婚約解消から二か月後。
リディアは、グランヴィル公爵家の夜会へ招かれた。
他国への留学から帰国したばかりの公爵令息、アレクシス・グランヴィルの帰国祝いだった。
アレクシスはリディアより三歳年上で、七年間、国外の大学や官庁で学んでいたという。
帰国した頃には、同年代の有力令嬢の多くが婚約済みだった。
だからといって年下の令嬢との縁談を急ぐこともなく、本人は仕事を優先していると聞いていた。
そのアレクシスが、夜会の途中でリディアへ挨拶に来た。
「エルフォード伯爵令嬢。少しお話ししてもよろしいでしょうか」
「わたくしと、ですか」
「はい」
公爵令息から声をかけられたことで、周囲の視線が集まる。
婚約を解消したばかりの伯爵令嬢に、格上の公爵令息が興味を示した。
明日には、尾ひれのついた噂が王都中を巡るだろう。
リディアが身構えていることに気づいたのか、アレクシスは人の少ない場所へ強引に連れ出すことはしなかった。
人目のある広間の端で、適切な距離を保ったまま尋ねた。
「不躾なことを確認します。オルブライト侯爵令息との婚約は、あなたが解消を申し出たのですか」
「……はい」
「解消されたのではなく、あなたが解消した」
「そのとおりです」
アレクシスは小さくうなずいた。
「その違いは、私にとって重要です」
リディアは彼の意図を測りかねた。
「婚約を解消された女性だから、声をかけたわけではないのですか」
「違います」
即答だった。
「格上の侯爵家との婚約であっても、今後の人生にふさわしくないと判断し、自ら終わらせた女性だから、お話ししたいと思いました」
「わたくしの判断が正しかったかは、まだ分かりません」
「正しかったかどうかを、私が決めるつもりはありません」
アレクシスはリディアの顔を見た。
「あなたは今、どうなさりたいのですか」
尋ねられ、リディアは答えに詰まった。
婚約解消後、周囲から何度も質問された。
なぜ我慢できなかったのか。
復縁するつもりはないのか。
次の縁談はどうするのか。
侯爵家との縁を失って後悔していないのか。
けれど、これから自分がどうしたいのかを尋ねられたのは、初めてだった。
「今は、すぐに次の婚約を考えるつもりはございません」
「承知しました」
アレクシスは、落胆した様子を見せなかった。
「私も、すぐに次の婚約を考えていただくつもりはありません」
それから少しだけ、声を柔らげた。
「ただ、いつか考える日が来たなら、私を候補に加えていただきたい」
「わたくしを、公爵夫人候補に?」
「はい」
「なぜですか」
「先ほど申し上げた理由だけでは、足りませんか」
「婚約を解消したことだけで、わたくしの人柄を評価するのは危険ではございません?」
アレクシスは初めて笑った。
「おっしゃるとおりです。ですから、まずは知り合う機会をいただきたいのです」
求婚ではなかった。
婚約の申し込みでもなかった。
ただ、相手を知るための交流を申し込まれた。
「わたくしが、お断りするかもしれません」
「もちろんです」
「途中で、候補から外すことも」
「それもあなたの判断です」
リディアは少し迷ってから、うなずいた。
「では、お友達としてでしたら」
「光栄です」
アレクシスとの最初の約束は、美術館で行われる他国絵画の展示を見ることだった。
待ち合わせの五分前に到着すると、彼はすでに入口にいた。
「お待たせしてしまいましたか」
「いいえ。私が早く着いただけです」
それだけのことに、リディアは戸惑った。
展示を見終えた後の茶席で、アレクシスは次の予定を尋ねた。
「来週でしたら、水曜と金曜の午後が空いています。エルフォード伯爵令嬢のご都合はいかがですか」
「わたくしの都合を優先してよろしいのですか」
「二人で会うのですから、二人の都合を合わせるものでは?」
「そう、ですわね」
あまりにも当然のように言われ、リディアは自分の質問がおかしかったような気がした。
二度目の約束の前日、アレクシスから手紙が届いた。
急な会議が入り、予定の時刻に間に合わない可能性がある。
遅い時間へ変更するか、別の日へ改めるか、リディアの都合のよいほうを選んでほしいと書かれていた。
予定を変えることは、誰にでもある。
けれど、事前に知らせることができる。
相手の都合を尋ねることもできる。
自分の事情だけで決めず、選択肢を渡すこともできる。
リディアは別の日を選んだ。
当日、アレクシスは約束の時間に来た。
三度目の茶会では、リディアが領地の孤児院について話した。
途中で公爵家の使用人が何かを伝えに来たが、アレクシスは短く指示を返しただけで、席を立たなかった。
「急ぎのご用事ではないのですか」
「急ぎではありますが、今すぐ私が行かなければならない用事ではありません」
「けれど」
「私は今、あなたのお話を伺っています」
アレクシスは、先ほどまでと同じ姿勢で続きを待っていた。
「孤児院の冬の燃料費が、どうなさったのですか」
話の途中だったことを、覚えている。
最後まで聞こうとしている。
それだけで、胸の奥が妙に熱くなった。
アレクシスが特別に甘い言葉を囁くことはなかった。
毎日花を贈ってくることも、宝石を並べることもない。
ただ、約束の時間に来た。
変更があれば、先に知らせた。
リディアの話を最後まで聞いた。
次に会う日を、リディアの都合も尋ねて決めた。
その普通さに触れるたび、リディアは自分がどれほど普通ではない扱いを受けていたのかを知った。
婚約解消から四か月後の夜会で、リディアはセドリックと再会した。
アレクシスと並んで話していたところへ、セドリックが近づいてきた。
「リディア。少しいいか」
「こちらでよろしければ」
リディアが答えると、セドリックはアレクシスを見た。
「二人で話したい」
アレクシスはリディアへ尋ねた。
「私は席を外したほうがよろしいですか」
判断を任された。
「いいえ。ここにいてくださいませ」
「承知しました」
セドリックの顔が強張った。
「婚約を解消したばかりで、もう次の男か」
「アレクシス様とは、交流の機会をいただいているだけです」
「公爵令息と何度も出かけておいて、ただの交流だと言うのか」
「それが何か問題でしょうか」
「僕への当てつけなのか」
リディアは、目の前の男性を静かに見た。
かつては、この人の機嫌を損ねない言葉を選んだ。
ミレーヌを責めていると思われないように。
理解のない婚約者だと思われないように。
面倒な女だと思われないように。
けれど今は、もうその必要がない。
「あなたは、わたくしが嫉妬して婚約を解消したと思っていらしたのですか」
「違うのか」
「違います」
「では、なぜだ。僕は今後、君との約束も大切にすると伝えた。それでも君は聞こうとしなかった」
「その言葉を、信じられなかったからです」
「十年以上も一緒にいた僕より、帰国したばかりの男を信じるのか」
「アレクシス様は、信じてほしいとはおっしゃいません」
リディアは答えた。
「約束した時間に来て、わたくしの話を最後まで聞いてくださいます。それを見て、わたくしが判断しております」
「そんなことは僕だってできる」
「できることと、実際になさることは違います」
セドリックの唇が歪んだ。
「ミレーヌには僕しかいなかったんだ。それは君も理解していただろう」
「はい。理解しておりました」
「ならば」
「あなたがミレーヌ様を優先なさるたび、わたくしは理解を求められました」
リディアは、声を荒らげなかった。
「今度はあなたが、わたくしの選択を理解なさる番です」
「君は怒っているだけだ」
「いいえ」
「では、僕に変わってほしいのだろう。だから公爵令息を使って――」
「もう、あなたに変わってほしいとは思っておりません」
セドリックが黙った。
「わたくしは、あなたを罰したくて婚約を解消したのではありません。嫉妬させたいわけでも、謝らせたいわけでもございません」
「では……」
「あなたとの婚姻を望まなくなったのです」
そのとき初めて、セドリックの顔から苛立ちが消えた。
「僕たちは、十年以上も」
「ええ」
「ミレーヌが戻ってくる前は、うまくいっていた」
「そうですわね」
「なら、なぜその十年を捨てられる」
「二年前までのあなたと結婚することはできません」
リディアは静かに答えた。
「わたくしが結婚することになるのは、今のあなたです」
セドリックは息を止めた。
「君は僕を愛していた」
「愛しておりました」
「それなら、なぜ」
「愛していたから耐えていたのです」
リディアは静かに告げた。
「何をされても離れない人間だったわけではございません」
セドリックは何も言えなかった。
リディアは彼へ一礼し、アレクシスとともにその場を離れた。
広間を出た後も、アレクシスはすぐには口を開かなかった。
廊下の先まで歩いてから、ようやく尋ねる。
「このまま庭へ出ますか。それとも、お帰りになりますか」
彼はセドリックへの怒りを口にしなかった。
リディアを慰めると決めつけることもなかった。
ただ、どうしたいのかを尋ねた。
「少し、庭を歩きたいですわ」
「では、ご一緒します」
翌年の春。
リディアはアレクシスと、王都の植物園を訪れた。
待ち合わせの時間より少し早く着いたが、彼はすでに門の前に立っていた。
「お待たせしましたか」
「いいえ。私も先ほど着いたところです」
いつものやり取りに、リディアは笑った。
園内を歩き、春に咲く花を見て、温室の前に置かれた長椅子へ座った。
「アレクシス様」
「はい」
「以前、いつか次の婚約を考える日が来たなら、候補に加えてほしいとおっしゃいましたね」
「覚えております」
「ずいぶん長く、お待たせしました」
「待つと決めたのは私です。あなたが気にすることではありません」
リディアは彼の横顔を見た。
「もう候補ではなく、あなたを選びたいと思います」
アレクシスは目を見開いた。
すぐに喜びを口にするのではなく、確かめるように尋ねた。
「私と婚約することを、ご自身で望んでくださるのですか」
「はい」
「公爵家からの申し入れだからではなく?」
「違います」
「周囲に勧められたからでもなく?」
「わたくしが、あなたと生きたいと思いました」
アレクシスはようやく微笑んだ。
「光栄です」
「理由をお聞きにならないのですか」
「教えていただけるのでしたら、ぜひ」
リディアは少し考えた。
「約束の時間に来てくださるからです」
「それだけでよろしいのですか」
「それだけではございません」
リディアも笑った。
「ですが、それがどれほど大切なことかを、わたくしは知っております」
アレクシスは、彼女の答えを笑わなかった。
「では、これからも守ります」
「無理なときは、先に知らせてくださいませ」
「もちろんです。二人の約束ですから」
派手な愛の言葉ではなかった。
けれどリディアには、それで十分だった。
誰かの都合によって、いつ消えるか分からない時間ではない。
自分だけが理解し、我慢し、待ち続ける関係でもない。
約束が守られる関係は、こんなにも穏やかなものだったのか。
リディアは、自分が選んだ人の隣で、春の庭を歩き始めた。
悪役令嬢も婚約破棄も、ずいぶん書いてきたつもりでした。
けれど改めて考えてみると、「婚約者が幼なじみを優先し続ける」という、ど真ん中のシチュエーションには手を入れていなかったなぁと。
それなら今回は、あまりひねらず、蔑ろにされ続けた令嬢が自分から婚約を終わらせる話を書いてみました。
約束の時間に来ること。変更があれば先に知らせること。相手の話を最後まで聞くこと。
特別なことではないはずなのに、その普通がいちばん難しい関係もあるのかもしれません。




