『39.5度のモザイク ― 凪(なぎ)のあとの、かすかな潮騒 ―』
第一章:深夜1時のアイスクリームと、静かな予感
その夜、麻生栞は、自宅マンションのキッチンで、一人、プレミアムバニラのアイスクリームをスプーンですくっていた。
時刻は午前1時14分。
明日は水曜日。一週間の中で最も「踏ん張り」が必要な日だと分かっているのに、一度冴えてしまった頭は、眠りという安息を拒絶している。
冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸る音が、静まり返ったリビングに響く。
1LDKのこの部屋は、3年前、36歳の時に思い切って購入した中古マンションだ。自分の好みの無垢材のテーブルを置き、少し値の張る北欧照明を吊るし、誰に気兼ねすることもなく、自分の好きな温度に設定できる空間。
「それなりに、ちゃんとやってきたつもりなんだけどな」
口の中で溶ける冷たい甘みが、なぜか少しだけ苦く感じられた。
あと3ヶ月で、40歳になる。
30代に入ったばかりの頃は、40歳なんてずっと遠い、どこか別の国の出来事のように思えていた。けれど、いざその境界線に立ってみると、景色は驚くほど変わっていない。肌の乾燥が少し気になるとか、徹夜が翌々日まで響くようになったとか、そんな瑣末な変化を除けば、自分という人間は20代の頃から地続きのままだ。
けれど、周囲の「枠組み」だけが、じわじわと、確実に、変質していった。
栞の仕事は、中堅デザイン会社のシニアディレクターだ。
後輩たちの面倒を見ながら、クライアントの無理難題をさばき、自分でも手を動かす。責任はあるが、やりがいもある。収入も、自分一人が生きていく分には、少しの贅沢を許容できる程度には安定している。
「麻生さん、次のプロジェクト、メインで入ってもらえますか? 麻生さんがいてくれると、現場の空気が締まるんですよね」
部長の言葉は、以前なら純粋に誇らしかった。けれど最近は、その「空気が締まる」という言葉に、どこか「守護神」や「お局」といった、動かしがたい石像のような響きを感じてしまう。
私だって、誰かに「君がいると安心するよ」ではなく、「君がいないと寂しいよ」と言われてみたい。
そんな青臭い願望を、もう5年も、どこか遠い棚の奥にしまい込んできた。
最後に恋人がいたのは、34歳の冬。それ以来、一人の気楽さに慣れきってしまった。誰かと出会うたびに「一人の自由を削る価値があるか」という冷徹な計算が働き、結局、誰もその秤に届かなかった。
その日、大学時代の友人・恵理子から届いた連絡は、そんな栞の「凪」の日常に投げられた、最初の石だった。
恵比寿駅から少し離れた場所にある、隠れ家のようなイタリアンレストラン。
「栞! こっちこっち」
弾んだ声で迎えた恵理子は、大学時代から変わらない華やかさを纏っていた。二人の子を持つ専業主婦。栞にとって、彼女は「自分が選ばなかった方の人生」の完成形だった。
しかし、ワインが進むにつれ、恵理子の笑顔の裏側に張り付いた亀裂が、言葉となって漏れ出した。
「私、離婚することにしたの。先週、家を出たわ」
栞の手が止まる。
「どうして? あんなに幸せそうだったのに」
「幸せだったわよ。でもね、栞。このまま『誰かの妻』と『誰かの母』だけで私のカレンダーが埋まっていくんだと思ったら、ある日突然、息ができなくなっちゃったの」
恵理子は、自嘲気味に笑いながら続けた。
「40歳を目前にして、怖くなった。私の人生、私の名前で呼ばれる時間は、あとどれくらい残ってるんだろうって。……寂しいわよ。死ぬほどね。でも、寂しさを紛らわせるために誰かといるのと、寂しさを抱えたまま自分の足で立つのとでは、きっと、景色が違うと思うの」
「寂しさを抱えたまま、自分の足で立つ」
その言葉は、一人の自由を謳歌しているはずの栞の胸を、深くえぐった。
栞は寂しさを抱えて立っているのではない。寂しさを「仕事」や「丁寧な暮らし」という名の美しい蓋で、必死に隠して立っているだけではないのか。
「ねえ、栞。あんたはどうなの? 自由で、格好よくて……正直、羨ましいって思ってたよ。ずっと」
「私は……」
栞は言葉に詰まった。羨ましいなんて、冗談でしょう。
夜中に一人、天井を見つめて、自分の存在価値が砂のように指の間からこぼれ落ちていく感覚を、彼女は知らない。
「私は、何をしたいのか、もうわからなくなっちゃった」
「……わかるよ。私たち、きっと『39.5度』の熱の中にいるんだと思う。平熱じゃいられないし、かといって、倒れるほどの高熱でもない。一番苦しい温度よね」
恵理子の重ねた手の温もりが、栞の冷え切った指先に伝わる。
その温かさが、かえって栞を不安にさせた。
翌週、職場にさらなる揺さぶりがかかった。
「ライフスタイルブランド『LUMINA』のリブランディングの件ですが、今回のメインデザイナーは、瀬戸に任せようと思っています。麻生さんは、彼女のサポートと進行管理をお願いします」
部長の言葉は、栞が長年築き上げてきたプライドを、静かに、しかし残酷に踏みつけた。
瀬戸茜、27歳。
圧倒的な感性と、SNS世代のリアルな心理を突くデザインで注目される若手だ。
「瀬戸のサポートに、麻生さんが回ってください。現場の統率力は、麻生さんの右に出る者はいませんから」
進行管理。調整。バックアップ。
それらは、かつては「信頼の証」だった。しかし今、その言葉は「お前はもう、新しい価値を生むステージにはいない」という宣告のように響いた。
「瀬戸さんの感性を活かせるよう、尽力します」
微笑み一つ崩さず答える自分。その「大人の対応」が、今の自分にはひどく虚しい。
午後、会議室で瀬戸茜と向き合う。
茜は、派手なネイルを施した指でタブレットを操りながら、迷いのない声で言った。
「今回のテーマは、30代後半から40代の女性の『再生』です。でも、麻生さんの構成案、ちょっと……綺麗すぎませんか?」
「綺麗すぎる?」
「はい。整っていて、隙がない。でも、ターゲット層の女性たちが求めているのは、そんな『完成された美しさ』じゃないと思うんです。もっと、こう、言葉にならないドロドロした寂しさとか、夜中に一人で叫びたくなるような孤独とか。そういうものを肯定した上での、微かな光というか……」
栞は喉の奥が乾くのを感じた。
ドロドロした寂しさ。夜中に一人で叫びたくなるような孤独。
それは、まさに栞が深夜に一人で抱えている感情そのものだった。
それを、自分より一回りも若い、おそらくまだ「本当の孤独」など知らないはずの茜から指摘される。
「デザインにはある程度の『憧れ』の要素も必要よ。生々しすぎると、品位が損なわれるわ」
「『品位』って、結局、自分を守るための鎧じゃないですか?」
茜の言葉は、何の悪気もなく、それゆえに鋭利だった。
「私たちはもう、完璧な大人を演じることに疲れてるんです。麻生さん、最後に誰かと、なりふり構わずぶつかったのはいつですか? いつ、自分の弱さをデザインに晒しましたか?」
栞は言葉を失った。
いつ、最後に感情を露わにしただろう。
仕事でのトラブルは冷静に対処し、友人とは適度な距離で笑い合い、波風を排除した生活。
その結果得たものは、誰からも非難されない「品位」と、何の色もついていない「空白」だった。
その夜。
栞は会社を出て、最寄り駅とは逆の方向に歩き出した。
冷たい夜風が、火照った顔を刺す。
(寂しい。結婚したい。いい人がいたら。……でも、それが私の本当の望み?)
茜に指摘された「品位」という名の鎧が、足取りを重くする。
40歳という扉が、すぐ目の前にある。
その扉の向こうに待っているのは、今と同じ、清潔で、整った、けれど色のない部屋なのか。
あるいは、恵理子が飛び込んでいったような、孤独だけれど生々しい「自分だけの人生」なのか。
ふと、街灯に照らされたショーウィンドウに、自分の姿が映った。
上質なコートを着て、自信に満ちたキャリア女性に見える自分。
けれどその瞳の奥には、出口を見失い、怯えている39歳の子供がいた。
「……何がしたいんだろう。私は」
声に出すと、それは白い吐息となって冬の夜空に消えていった。
答えは出ない。
けれど、今夜のアイスクリームは、いつもより少しだけ溶けるのが早そうだと思った。
感情という熱が、栞の中で静かに、けれど確実に上がり始めていた。
39.5度。
それは、病としての熱ではなく、人生が変わりたがっている証拠なのかもしれない。
40歳まで、あと少し。
栞の「凪」の季節は、今、音を立てて終わりを告げようとしていた。
第二章:綻び(ほころび)のドレスと、未完成のパズル
「麻生さん、これじゃあ、クライアントが納得しません」
月曜日の朝一番、会議室の空気は冷え切っていた。プロジェクターが映し出すのは、瀬戸茜が心血を注いだ『LUMINA』のメインビジュアル案だ。そこには、従来のライフスタイルブランドが好む「丁寧な暮らし」の代名詞のような白壁も、柔らかな朝陽もなかった。代わりにあったのは、少し乱れたベッド、飲みかけのグラス、そして鏡に映る、化粧を落としきれていない女性の、ひどく真っ直ぐな眼差し。
「瀬戸さん、あなたの言う『リアル』は理解できるけれど、これは広告よ。消費者が自分を投影したくなる『憧れ』が欠けているわ」
クライアントであるLUMINAの広報担当、中島は、栞より二つ年上の女性だ。彼女もまた、この業界で戦い抜いてきた「鎧」を纏っている一人だった。
「憧れって、誰が決めたものですか?」
茜が食い下がる。
「完璧に整えられた部屋に住んで、毎朝スムージーを飲む。そんなの、もうみんな飽きてるんです。このブランドのターゲットは、夜中に一人で泣いて、それでも翌朝にはパンプスを履いて戦いに行く女性たちじゃないんですか?」
会議室に沈黙が流れる。茜の言葉は正論だが、ビジネスという戦場では青臭い。
栞は、茜の熱量と、中島の冷徹な論理の間に挟まれ、自分の心臓がドクンと嫌な音を立てるのを感じた。
以前の私なら、迷わず中島に加勢しただろう。茜を宥め、クライアントが好む「品位ある案」に落とし込む。それがディレクターとしての、プロとしての「正解」だった。
けれど、栞の脳裏には、あの夜食べたバニラアイスの甘みと、恵理子の「寂しさを抱えたまま立つ」という言葉が、呪文のように渦巻いていた。
「……中島さん」
気づけば、栞は口を開いていた。
「瀬戸の案には、『隙』があります。でも、その隙こそが、今の女性たちが誰にも見せられない自分を預けたくなる、本当の居場所になるのではないでしょうか」
中島が驚いたように栞を見た。いつもなら「落とし所」を真っ先に見つけるはずの栞が、若手の、それも最も無謀な案を庇ったからだ。
「麻生さん、あなたらしくないわね」
その言葉は、栞の胸を深く刺した。自分らしくない。そうかもしれない。
けれど、これまでの「私らしさ」が、私をこの行き止まりの凪に閉じ込めてきたのだとしたら。
週末、栞は代々木上原にある古いアパートを訪ねた。
恵理子が離婚を決めて、最初に借りた仮住まいだ。
「ごめんね、まだ片付いてなくて」
迎え入れてくれた恵理子は、ノーメイクにスウェットという、大学時代を思い出させる姿だった。
六畳二間の部屋には、段ボールが積み上がっている。
世田谷のあの広大なリビングとは比べるべくもない、狭く、日当たりの悪い部屋。
けれど、そこには、誰のものでもない恵理子自身の空気が流れていた。
「……大変でしょ、これから」
栞は、持参した手土産のワインを、まだ何もないキッチンのカウンターに置いた。
「大変だよ。手続きも山ほどあるし、子供たちとの面会日を決めるのも心が痛む。でもね、栞。昨日の夜、この部屋で一人でコンビニのカップラーメンを食べたんだけど、なんだか笑っちゃうくらい美味しかったの」
恵理子は、段ボールの上に腰を下ろし、遠い目をした。
「結婚して十五年、ずっと『誰かのための食事』を作ってきた。栄養バランスを考え、旦那の好みに合わせ、子供が喜ぶように。それはそれで幸せだったけど、自分が何を『美味しい』と思うのかさえ、忘れてたんだよね」
栞は、恵理子の手伝いをしながら、古い雑誌や不用品をゴミ袋に詰めていった。
「ねえ、恵理子。私、仕事で若い子に言われたの。完璧な大人を演じるのに疲れてるんじゃないかって」
「あはは、その子、鋭いね」
「笑い事じゃないわよ。私、40歳を前にして、自分が空っぽだってことに気づいちゃったの。仕事もそれなりにできる、家もある。でも、中身が、私という人間そのものが、どこかに置き去りにされてる気がして」
恵理子は、ゴミ袋を縛る手を止め、栞を見つめた。
「栞、あんたは『いい人がいたら』って言ってたよね。でも、それって、自分の空っぽな部分を、誰かに埋めてもらおうとしてるだけじゃない?」
その指摘は、茜の言葉よりも残酷に栞を射抜いた。
結婚したい、恋人が欲しい。
それは、誰かと人生を共にしたいという純粋な願いではなく、自分一人では抱えきれない「40歳という孤独」を、誰かに代わりに背負ってほしいという、卑怯な逃げではなかったか。
「……そうかもしれない。私、自分が何をしたいのか、何が欲しいのか、本当は何も分かってない」
「それでいいんだよ。40歳なんて、人生の折り返し地点ですらない。一回、全部壊してみれば? 壊して、散らばった破片の中から、どうしても捨てられないものだけを拾い集めるの。それが、あんたの『本当の望み』だよ」
恵理子の言葉は、この古びたアパートの隙間風のように、栞の心に冷たく、けれど鮮やかに吹き込んできた。
その翌週、栞は大きな決断を下した。
『LUMINA』のプロジェクトにおいて、茜の案をベースにしつつ、栞自身がかつて捨て去った「生々しい表現」を組み込んだ、全く新しい案を再構築することにしたのだ。
深夜のオフィス。
栞は、何年も握っていなかったスケッチブックを開いた。
ディレクターとして「整える」のではなく、一人のクリエイターとして「吐き出す」。
かつて美大生だった頃、誰に頼まれるでもなく描いていた、あの無骨で、不器用で、けれど情熱だけが詰まっていた線。
(40歳になる私が、今、本当に美しいと思うものは何?)
それは、整えられた朝食ではない。
一日を終え、疲れ果ててパンプスを脱ぎ捨てた瞬間の、あの解放感。
鏡の中の自分と向き合い、「今日もお疲れ様」と心の中で呟く、あの静かな肯定。
孤独は敵ではない。それは、自分自身と再会するための、大切な静寂だ。
完成した案を茜に見せた時、彼女は目を見開いた。
「……これ、麻生さんが描いたんですか?」
「ええ。瀬戸さんの案にあった『ドロドロした寂しさ』に、私なりの『大人の責任』を加えてみたわ。寂しさを否定せず、それを持って生きていく強さ」
茜の瞳に、初めて栞に対する「尊敬」の色が混じった。
「……凄いです。私、麻生さんのこと、ただの『管理のプロ』だと思ってました。すみません」
「いいのよ。私も、そう思っていたから」
プレゼンの当日。
栞は、自分を美しく見せるための高いヒールではなく、足馴染みの良いフラットシューズを履いた。
中島をはじめとするクライアントを前に、栞は静かに、けれど揺るぎない声で語り始めた。
「このブランドが提供すべきなのは、『完成された私』ではありません。『未完成の私』を愛するための勇気です」
プレゼンは、静かな衝撃を持って受け入れられた。
最終的に案が通った時、中島は栞を呼び止め、少しだけ表情を和らげて言った。
「麻生さん、今回の案……正直、怖かったわ。自分の隠したい部分を見せられているようで。でも、だからこそ、目が離せなかった」
「ありがとうございます。私も、怖かったです」
オフィスを出ると、夕暮れの街がオレンジ色に染まっていた。
仕事は成功した。けれど、それで何かが劇的に変わったわけではない。
家に帰れば、また一人の静かな部屋が待っている。
恋人も、結婚の予定も、まだ何もない。
けれど、栞の心は、あのバニラアイスの夜よりもずっと軽かった。
恵理子の離婚。茜の情熱。そして、自分自身の内側から溢れ出した、未完成の言葉たち。
それらがモザイクのように組み合わさり、栞の「39歳」という景色を、少しずつ塗り替えていく。
駅のホームで、栞はふと、自分と同じように遠くを見つめる人々の姿に目を留めた。
誰もが、何かしらの寂しさを抱えている。
誰もが、正解のない問いの中で、必死に足を踏ん張っている。
(このまま歳を取っていくのかな)
そう思う。けれど、それは「仕方ない」という諦めではなく、「それも悪くない」という、かすかな潮騒のような肯定に変わり始めていた。
「いい人がいたら、付き合いたい。結婚もいいかも。……でも、まずは私が、私をちゃんと生きないとね」
独り言は、入線してきた電車の音にかき消された。
40歳まで、あと二ヶ月。
凪の海は終わり、栞は今、自分自身の足で、新しい波を待っていた
第三章:冬の帰郷 ― 重なる手、剥がれゆく季節
四十歳という数字が、ただのカレンダーの印ではなく、逃れられない物理的な重力として全身にのしかかり始めたのは、二月に入ってすぐのことだった。
朝、洗面所の鏡の前に立つと、昨日まではなかったはずの影が目の下に居座っている。高い保湿クリームを塗り込み、念入りにマッサージを施しても、皮膚の奥に潜む「疲労の化石」のようなものは、頑として動こうとしない。
さらに追い打ちをかけるように、原因不明の肩の凝りと、指先の感覚が遠のくような冷えが栞を襲った。
「……これが、身体の変化ってやつなのね」
かつては一晩眠ればリセットされていたはずの細胞たちが、今はそれぞれの持ち場で「もう無理はできない」とストライキを起こしているような感覚。
仕事でどれほど「再生」を謳うプレゼンを成功させ、周囲から賞賛を浴びても、自分自身の肉体が緩やかに、けれど確実に「減退」へと向かっている事実は、残酷なまでに確かだった。
そんな折、地方都市に住む母から一通のメールが届いた。
『お父さんの七回忌の件だけど、久しぶりに顔を見せに来ない? 四十歳のお祝いも兼ねて、美味しいものでも食べましょう』
「四十歳のお祝い」。
その言葉に、栞は微かな眩暈を覚えた。祝われるべきことなのか、それとも、人生の「第一線」からの退場を宣告されているのか。
けれど、今の栞には、あの清潔すぎて静かすぎる東京の1LDKを離れ、自分のルーツに触れる時間が必要な気がしていた。
三時間かけて戻った実家は、冷え冷えとした冬の空気に包まれていた。
玄関を開けると、使い込まれた木の匂いと、微かな線香の香りが鼻をくすぐる。
「お帰り、栞。疲れた顔してるわね」
出迎えた母・芳江は、六十代後半。最後に会った半年前よりも、少し背中が丸くなり、歩幅が小さくなったように見えた。
「お母さんこそ、少し痩せた?」
「そうかしら。歳を取ると、勝手に余計なものが落ちていくのよ。便利だわ」
母は茶目っ気たっぷりに笑ったが、差し出されたその手の甲に浮き出た血管と、深いシワが、栞の胸を締め付けた。
その夜、母が作った里芋の煮物を囲みながら、他愛のない話をした。
近所の誰が亡くなった、あそこの息子さんが結婚して家を建てた。そんな、都会ではノイズとして処理されるような情報の断片が、ここでは唯一無二のニュースになる。
「栞、あんた、結婚のことは……相変わらず?」
案の定、会話はそこに行き着いた。以前の栞なら、「仕事が忙しいから」「一人の方が楽だから」と、定型文のような盾を構えて即答していただろう。
けれど、今の栞は、箸を置いて母の目を見つめた。
「……いい人がいたら、したいとは思うよ。でもね、お母さん。それが本当に私の望みなのか、最近わからなくなっちゃったの。ただ一人が寂しいから、誰かに縋りたいだけなんじゃないかって。自分一人を支えきれないから、誰かに預けたいだけなんじゃないかって」
母は驚いたように手を止め、湯気の立つお茶を啜った。
「あんた、真面目すぎるのよ。誰かに縋りたくて結婚するなんて、みんなそうじゃない。お父さんと私だって、そうだったわよ」
「え?」
栞は目を見開いた。父と母は、栞にとって「完璧な家族」の象徴だった。仲睦まじく、互いを尊重し、波風立てずに暮らしてきた。そんな二人でさえ、そんな不純な動機があったというのか。
「お父さんはね、実家の商売が立ち行かなくなって、誰かに支えてほしくて私を選んだの。私は私で、早く自立したくて、逃げるようにこの家に嫁いできた。……愛がなかったわけじゃない。でも、始まりはそんな、格好いいものじゃなかったわ」
母は、仏壇に飾られた父の写真に目を向けた。
「四十歳になる直前、私もあんたと同じように悩んだわ。このまま、一人の男の妻として、あんたの母親として、この古い家で朽ちていくのかしらって。一週間くらい、あんたを置いて家出しようかと思ったこともあるのよ」
初めて聞く母の本音に、栞は言葉を失った。
「……知らなかった。お母さんは、ずっと幸せだと思ってた」
「幸せよ。でもね、幸せと『満足』は違うの。満足なんて一生しないわよ。でも、その『満足できない自分』を抱えて生きていくのが、大人の女ってものじゃないかしら」
翌日、栞は法事の準備の合間に、母に頼まれて納戸の整理をすることになった。
埃を被った段ボール箱を一つずつ開けていく。子供の頃の教科書、父が愛用していた古い万年筆、そして、一冊の古いアルバム。
それは、母が今の栞と同じ、三十代後半だった頃の写真集だった。
写真の中の母は、今の栞よりもずっと「女」の顔をしていた。意志の強そうな瞳、流行りの肩パッドの入った服。
そして、アルバムの隅に挟まれていた、一枚のルーズリーフ。
そこには、母の筆跡で、震えるような文字が並んでいた。
『何が欲しいのか、わからない。どこへ行きたいのか、わからない。ただ、今の私を、誰かに「これでいい」と言ってほしい』
それは、深夜一時にアイスクリームを食べていた栞が、誰にも言えずに抱えていた叫びと、鏡合わせのように同じだった。
栞はアルバムを閉じ、窓の外に広がる冬の枯れ木を眺めた。
世代が変わっても、時代が変わっても、女性が抱える「孤独の質」は変わらない。
若さが失われていくことへの、抗いがたい恐怖。
自分の人生が、誰かの付属品になってしまうことへの拒絶。
けれど、それらすべてを飲み込んで、母は今、ここに立っている。
その時、急に立ち上がろうとした栞の腰に、鋭い痛みが走った。
「……っ!」
うずくまる栞。筋肉が強張り、自由が利かない。
「栞! どうしたの?」
駆け寄ってきた母の手が、栞の背中に触れた。
温かかった。けれど、その手は驚くほど小さく、脆かった。
「ごめん、お母さん。ちょっと、身体がガタついてるみたい。情けないね」
「無理しちゃダメよ。あんた、もう若くないんだから」
母のその言葉は、毒ではなく、福音のように響いた。
そうか、私はもう、若くないんだ。
もう、無敵の自分を演じる必要はないのだ。
老いていくこと、衰えていくこと。それは敗北ではなく、新しいフェーズへの「移行」なのだ。
母に肩を貸してもらい、居間へ戻る。
不甲斐なさと、心地よい諦めが混ざり合い、栞の目から不意に涙がこぼれた。
「……寂しいの、お母さん。仕事も頑張ってきたけど、ふと立ち止まると、誰もいない部屋に帰るのが怖くなるの。結婚しても満足できないかもしれない。でも、独りでいることの正解もわからない」
母は、栞の頭を子供のように撫でた。
「寂しくていいのよ。寂しいから、人は誰かを愛せるんだから。あんたが一人で完璧に平気な人間だったら、お母さん、それこそ心配だったわよ」
法事を終え、東京へ戻る特急列車の中で、栞は自分の手を見つめた。
母ほどではないが、節くれ立ち、少しずつ質感が変わってきた自分の手。
この手で、これからもデザインを描き、誰かの手を握り、そして自分自身の人生を掴んでいく。
東京駅に着くと、街は相変わらずのスピードで動いていた。
けれど、栞の歩幅は、以前よりも少しだけゆっくりになっていた。
急いで「正解」に辿り着く必要はない。
40歳という扉の向こうに待っているのは、完成された世界ではなく、もっと生々しくて、もっと不完全な、自分だけの時間なのだ。
スマホを見ると、瀬戸茜からチャットが入っていた。
『麻生さん、例のビジュアルの修正案、クライアントから絶賛されました。「今の私たちが求めていたのは、この体温だ」って。……麻生さん、実家で何かありました?』
栞は、窓に映る自分の顔を見た。
相変わらず、目の下には影がある。けれど、その瞳には、冬の海のような静かな光が宿っていた。
「体温、ね」
独り言は、地下鉄の騒音にかき消された。
40歳まで、あと一ヶ月。
凪の海は終わり、栞は今、自分自身の足で、新しい波を待っていた。
そこにはもう、誰かが作った「品位」という名の鎧はない。
最終章:朝の光と、開かれたパズル
二月二十二日、火曜日。
目覚まし時計が鳴る前に、栞は目を覚ました。
窓の外はまだ薄明るく、冬の終わりを告げるような透明な空気が部屋を満たしている。
今日で、四十歳になった。
かつて想像していた「四十歳の朝」は、もっと重苦しく、人生の後半戦という名の審判を突きつけられるような、そんな厳かなものだった。けれど、いざその瞬間を迎えてみると、拍子抜けするほどに静かだ。
隣に誰かがいるわけでもない。魔法のように肌のシワが消えているわけでもない。
ただ、沸かしたてのお湯がシュンシュンと音を立てる、いつもの朝がそこにあるだけだ。
栞はキッチンへ向かい、お気に入りのマグカップに白湯を注いだ。
一口飲むと、温かな熱が身体の芯へと染み渡っていく。
先月、実家で母に背中を撫でてもらった時のあの温度。あれ以来、栞の中にあった「39.5度」の熱は、不思議と落ち着きを見せていた。それは熱が下がったというよりも、その微熱を自分の「平熱」として受け入れられるようになった感覚に近い。
その日の午後、栞は表参道の路地裏にあるギャラリーにいた。
今日から始まる、ライフスタイルブランド『LUMINA』のリブランディング・ローンチイベント。
壁一面には、栞と瀬戸茜が共に作り上げたビジュアルが並んでいる。
そこにあるのは、完璧なモデルが微笑む写真ではない。
仕事帰りに地下鉄の窓に映る、少し疲れた顔。
週末、誰に会うでもなく丁寧に淹れた一杯のコーヒー。
そして、ベッドの上で丸くなって眠る、無防備な背中。
「……あ、麻生さん」
声をかけてきたのは、茜だった。今日はいつもの派手なネイルを封印し、シンプルだが仕立ての良い黒のワンピースを着ている。
「お誕生日、おめでとうございます。……さっき、クライアントの中島さんが来てましたよ。『この広告を見て、久しぶりに自分のために花を買った』って、少し泣きそうな顔で笑ってました」
栞は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「そう。よかった。……瀬戸さん、私ね、今回の仕事で分かったの。私たちが作っているのは『憧れ』じゃない。『共感』でもない。ただ、『あなたは、そのままでそこにいていいんだよ』っていう、ささやかな肯定なんだって」
茜は深く頷いた。
「私、麻生さんと組めてよかったです。麻生さんが、自分の『寂しさ』を隠さずにぶつけてくれたから、このデザインは完成しました。……私、麻生さんみたいな四十歳になりたいです」
「……生意気ね」
栞は苦笑したが、その言葉はどんな高価なプレゼントよりも深く、彼女の心を癒やした。
若さという武器を持つ茜に、今の自分が「なりたい姿」として映っている。それは、栞が必死に守り抜いてきた「品位」という鎧を脱ぎ捨てた後に、ようやく現れた本当の輝きだった。
イベントを終えた後、栞は恵理子と待ち合わせていた。
場所は、恵理子の新しい「城」である、あのアパートの近くの小さなビストロ。
「栞、おめでとう! 四十代へようこそ」
恵理子は、新しい生活の疲れを感じさせない、晴れやかな笑顔でグラスを掲げた。
「どう? 四十歳になった気分は」
「……思っていたより、空気が美味しいかな。肩の力が抜けたみたい」
二人は、離婚の手続きや、恵理子の新しい仕事(小さな編集プロダクションでのアシスタント)について語り合った。
「ねえ、恵理子。私、一ヶ月前にここにいた時、あんたに言ったよね。『いい人がいたら付き合いたい』って」
「うん。言ってたね」
「今も、その気持ちは変わらない。誰かと出会いたいし、愛されたい。結婚だって、もし最高のパートナーに出会えたら、素敵なことだと思う。……でもね、前と違うのは、『空っぽを埋めるために』誰かを探すのはもうやめたってこと」
栞は、グラスに残ったワインを見つめた。
「私、自分が一人の時間も、この仕事も、この不完全な身体も、結構気に入ってるの。だから、誰かがいなくても、私はもう不幸じゃない。誰かがいてくれたら、それは『プラスアルファの幸せ』。……そう思えるようになったら、なんだか、世界が急に広がった気がして」
恵理子は優しく微笑んだ。
「それ、最強の独身女性のセリフだね。でも、そういう女のところに、案外いい男は現れるものよ。……まあ、現れなくても、私たちはこうして笑っていられるけどね」
「そうね。現れなくても、今の私は、私で満足してる」
満足、という言葉が自然と口から出た。
母が言っていた「満足なんて一生しない」という言葉の意味を、栞は今、自分なりに解釈していた。
満たされていない部分があるからこそ、人は動ける。
寂しさがあるからこそ、誰かの優しさに気づける。
その欠落さえも、人生というパズルを構成する、大切なピースなのだ。
恵理子と別れ、一人で夜道を歩く。
二月の風はまだ冷たいが、どこか春の気配を含んでいる。
駅のホームに立ち、電車の到着を待つ。
ふと、隣に立っている女性に目が留まった。
三十代半ばくらいだろうか。眉間に少し皺を寄せ、スマホを凝視している。かつての自分を見ているような、そんな危うさと懸命さがそこにあった。
(大丈夫よ)
栞は心の中で、その見知らぬ女性に語りかけた。
(悩んでもいい。寂しくてもいい。40歳になっても、正解なんて見つからないけれど、それでも明日の朝、美味しいお湯を沸かすことはできるから)
自宅に帰り、玄関の鍵を開ける。
明かりを灯すと、自分好みの家具たちが「おかえり」と迎えてくれる。
5年間、恋人がいなかったこの部屋。
けれど今、この静寂は「孤独」ではなく、自分自身を慈しむための「聖域」に変わっていた。
栞は、クローゼットの奥から、新しいノートを取り出した。
四十歳の最初の日。
そこには、これからしたいことを書くのではない。
今日、自分が「美しい」と感じたもの、今日、自分が「救われた」言葉。
そんな小さなモザイクの破片を、一つずつ丁寧に書き留めていくのだ。
窓を開けると、遠くからかすかな潮騒のような、街の喧騒が聞こえてきた。
人生の踊り場は終わり、新しい階段が続いている。
そこがどこへ繋がっているのかは、まだわからない。
けれど、栞はもう、その暗闇を恐れてはいなかった。
「……さて、明日も仕事、頑張ろうかな」
独り言を呟き、栞は鏡に映る自分に向かって、小さく微笑んだ。
その表情は、二十代の眩しさも、三十代の張り詰めた美しさも超えた、柔らかくて深い、四十歳の「麻生栞」の顔だった。
凪のあとの、かすかな潮騒。
それは、彼女の新しい人生が、今、静かに始動した合図だった。




