閑話 元宮廷魔導師
ライカたちは、再び約束の場所を目指していた。
「父上閣下! 以前にも増して、さらに魔物が少なく感じますわ」
エリスが周囲を見渡しながら呟く。ライカ自身も、その肌で異変を感じていた。
森に入ってからというもの、狂暴な獣の咆哮はおろか、羽虫の羽音すらも遠ざかっている。静寂が、まるで物理的な重みを持って降り注いでいるかのようだった。
「ユタル老師、お体は大丈夫ですか? 一旦、小休止を挟みましょうか」
ライカが背後の老人に声をかける。アルサーク王国の魔法体系を築き上げた重鎮の一人、元宮廷魔導師ユタル=ドーソンは、深い皺を刻んだ顔をほころばせた。
「ありがとう、ライカ。でも、まだ大丈夫じゃ。それより、早く女神に逢いたくて仕方ないのじゃよ。この森の深部から漏れ出す魔力の残滓……。
わしの長い人生でも、これほど純粋で、かつ【異質】な理に触れたことはない。興味が尽きんよ」
「左様ですか。ですが、あと半刻は進みます。無理は禁物ですよ。エリス、しっかり老師の補助を頼むぞ」
「はっ! 父上閣下!」
エリスの教育はまだ終わっていない…。
ライカを先頭に、ユタル老師、エリスと並び、最後尾を巨躯のサラが警戒しながら沢を登っていく。
しかし、目的地に近づくにつれ、前回には無かった変化が一行に現れ始めていた。
エリスの息は荒くなり、目に見えない巨大な壁に押し潰されるような重圧が彼女を襲う。
「エリス嬢、大丈夫かの?
…ふむ、確かにこの辺りの魔力の密度は、この爺でも来るものがあるわい。無理をせずに一度休むかのう。ライカよ、老人は疲れた。一度休憩を入れるとしよう」
ユタルはエリスの限界を察し、あえて自らの疲労を口にした。
「…かしこまりました、ユタル老師。サラ、お前は大丈夫か?」
「私は……なんとか。ですが、空気の粘度が増した様な感覚です」
「そうか。なら、俺と休憩の準備を」
一行は、目的地を目前にして何度も足を止めざるを得なかった。
真鍋が直接指定した「魔法準備領域」は半径二十メートルほどだったはずだ。
しかし、彼女の干渉は、周囲の因果律を歪め、その余波は数キロに及んでいた。
真鍋は、またしても無自覚に「やらかして」いたのである。
数回の休憩を挟み、やっとの思いで約束の沢へ到着したライカ一行。
彼らを迎えたのは、人の良さそうな微笑みを浮かべる青年と、
その手をそっと繋いだ、薄く緑がかった銀髪の少女だった。
少女は慈悲を含んだ柔らかな笑顔を向けている。
「ライカさん、お待ちしておりました。こちらに食事も用意してあります」
坂本は快活に声をかけ、急造した庵へと案内する。
かたや、一世一代の死闘を終えた直後のような、青白く、汗だくの極限状態にあるライカ達。
二組の間に漂う圧倒的な温度差こそが、その場の格の違いを雄弁に物語っていた。
ユタルは、震える足で一歩前に出ると、深々と頭を下げた。
「女神様、お初にお目にかかります。私は、元宮廷魔導師を任されておりました、ユタル=ドーソンと申します。
以後、お見知りおきを。
…そして、早速で大変申し訳ないお願いなのですが……」
ユタルは苦しげに、真鍋を見上げた。
「女神様のお力を…その、少しだけ弱めていただけないでしょうか?
我ら人の身には、この場の『神気』は少々、刺激が強すぎるようでして……」
真鍋は驚いて坂本と向き合い、繋いだ手を通じて語り合う。
(坂本君、神気を弱めるってどういうこと?)
(真鍋さん、自分もよく分からないけど…多分、魔法領域の指定のことじゃないかな? 少し干渉を弱めてみたら?)
(りーかい。相手が倒れちゃったら交渉にならないし、いっそのこと、解除しちゃうよ!)
(えっ!?)
真鍋は、相変わらず即実行の女性だった。
ユタルに微笑みを向け、
思考の中で領域展開を”オフ” にした。
そして、森を支配していた重圧が一瞬で霧散した。
「……おお!」
ライカたちの肩から重石が消え、エリスがその場に座り込んで大きく息を吸う。
「早速お聞き入れいただき、ありがとうございます。」
(これほど自在に世界の理を操られるとは…)
ライカは、改めて女神の底知れぬ力に戦慄を覚えた…が、その一方、ユタル老師だけは、年甲斐もなく目を輝かせていた。
「では、温かい食事でもしながら、これからのことをお話ししましょう」
坂本の促しで、今後、何回か行われていく、最初の会合が、森の静寂の中で幕を開けるのだった。
元気の無いエリスは、船酔いをイメージして下さい。
おじいちゃんは、雪の日も寒風摩擦を欠かさないイメージです。




