【第79話:美しい光景】
【タイムリミット:残り4日】
朝もやが渓谷を覆う中、カイとエルナは飛竜の前に立った。
調教を終えた飛竜は、まだ警戒の色を残しながらも、カイたちを襲うことはなくなっていた。
「……さあ、乗るぞ」
カイは飛竜の背に手をかけた。鱗は冷たく、硬い。野生の飛竜の背に乗るなど、普通なら狂気の沙汰だ。
でも、今はそれしか選択肢がない。
「エルナ、先に乗ってくれ。俺は後から前に乗る」
「わ、わかった……」
エルナは震える手で、飛竜の背に触れた。滑りやすい鱗に、何度も手を滑らせる。
カイはエルナが落ちないように支えていた。
「……大丈夫?」
「大丈夫……でも、私高いところ、ちょっと苦手かも」
エルナは青白い顔で答えた。
聖女の都の「清浄の間」から出たことがなかった彼女にとって、空を飛ぶなど想像もつかない体験だった。
「ノクス、飛竜を安定させてくれ」
『了解。重力場で固定する。』
「……落ちない?」
「大丈夫。ノクスが重力で固定してくれる」
カイも飛竜の背に乗り、エルナの前に座った。
「エルナ、俺の腰を掴め。絶対に離すなよ」
「う、うん……」
エルナはカイの腰を掴んだ。その手は震えていた。
「……行くぞ」
カイが飛竜の首を軽く叩くと、飛竜は大きく翼を広げた。
その瞬間、エルナは悲鳴を上げそうになった。
「わあっ!」
飛竜が地面を蹴り、一気に舞い上がる。
重力が急激に変化し、エルナの体が浮き上がるような感覚に襲われた。
「落ちる、落ちるっ!」
「大丈夫だ! ノクスが固定してる!」
カイが叫ぶ。しかし、カイ自身も初めての飛竜移動だ。心臓が激しく鼓動し、手のひらに汗が滲む。
飛竜はさらに高度を上げていく。
眼下に広がる渓谷は、どんどん小さくなっていく。雲が近づき、風が激しく吹き抜ける。
「……高、高すぎる……」
エルナは目を閉じた。それでも恐怖は消えない。
風圧が顔を打ち、髪が激しく乱れる。飛竜の翼が羽ばたくたびに、体が大きく揺れる。
「だ、だめ……怖い……」
「大丈夫。俺がいる」
カイはエルナが必死でしがみついている手をやさしく掴んだ。
その温もりが、少しだけエルナの恐怖を和らげた。
飛竜は高速で飛行を続ける。
風が耳元で唸り、雲が流れていく。眼下には、広大な大陸が広がっている。
「……すごい」
エルナが、おそるおそる目を開けた。
眼下に広がる光景に、息を呑んだ。
「……これが、世界……」
聖女の都の「清浄の間」から出たことがなかったエルナにとって、この光景は圧倒的だった。
広大な平原、険しい山脈、流れる川。すべてが、小さな模型のように見える。
「……きれい」
エルナは呟いた。恐怖はまだ残っている。でも、同時に、この美しい光景を見ることができた喜びがあった。
「カイ、ありがとう」
「……何を?」
「私を、ここに連れてきてくれて」
カイは少し驚いた顔をしたが、すぐに優しく笑った。
「……ああ。でも、まだ終わってないぜ」
飛竜はさらに速度を上げる。
風圧が強くなり、エルナはカイの背中にしがみついた。
「……速すぎる……」
「大丈夫だ。すぐ慣れる」
カイはそう言ったが、自分自身も慣れていない。
飛竜の背にしがみつきながら、必死にバランスを取る。
時間はゆっくりと、しかし確実に過ぎていく。
太陽が空を移動し、影が長くなっていく。
「……休憩が必要だな」
カイは飛竜に指示を出し、高度を下げ始めた。
エルナは、その瞬間が一番怖かった。急降下する感覚に、また悲鳴を上げそうになった。
「……ひっ!」
「大丈夫だ。着陸するだけだ」
飛竜は慎重に高度を下げ、平原に降り立った。
エルナは、飛竜の背から降りると、その場に座り込んだ。
「……生きてる……」
「ああ。でも、まだ半分だ」
カイも飛竜の背から降り、深く息を吐いた。
初めての飛竜移動は、想像以上に過酷だった。
「……もっと、乗りたい」
エルナは立ち上がり、再び飛竜の背に手をかけた。
恐怖はまだ残っている。でも、もう一度、空を飛びたい。
飛竜は休憩を挟みながらも、ファングレアまでの長い距離をたった1日で移動した。
これは、馬車の20倍以上の速度だ。
「……やっぱり、飛竜は速いな」
カイは降り立った飛竜の首を撫でた。
野生の飛竜を捕獲し、ノクスの重力制御とエルナの魔力増幅で一時的に従わせる。
命がけの飛行だったが、移動時間をかなり短縮できた。
「でも、もう限界よ。この子、かなり疲れている」
エルナが飛竜の翼を優しく撫でる。
野生の飛竜を無理やり従わせた反動で、飛竜の体力は限界に近づいていた。
「ああ。ここで解放しよう。
……ありがとう、飛竜さん」
カイは飛竜の首に、竜の渓谷で拾った「飛竜の卵の殻」を結びつけた。
これが、飛竜への感謝の証だ。
エルナは飛竜の首を撫でながら、優しく語りかけた。
「ありがとう。私たちを、ここまで連れてきてくれて。
……また会えるといいわね」
飛竜は大きく翼を広げ、空へと舞い上がった。
カイとエルナの上空を一度だけ大きく回ってから、飛竜の渓谷の方角へ飛び去っていった。
まるで、再会を約束するかのように。
「さあ、行くぞ、エルナ。
あと少しだ」
残り日数は3日。時間は刻一刻と迫っていた。
第5章:聖女の都 セレスティア 【完】
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