【第47話:ポーション】
……冷たい。
頬に触れる硬い何かの感触と、鼻をつく腐臭。
カイはゆっくりと瞼を開いた。
手の中には、まだリリアの剣を握りしめていた。
ノクスが緊急転移で逃がすとき、カイは必死にリリアの剣を握りしめていたのだ。
その剣は、カイと共に転送され、今も手の中にある。
ぼやけた視界の先には、積み上げられた木箱、破れた麻袋、腐りかけた野菜。
ここは……どこだ?
(……生きてる?)
胸元に手を当てる。
激痛が走った。
肋骨が折れているのは間違いない。
ザガンに吹き飛ばされた衝撃が、まだ全身に残っている。
なぜ自分がここにいるのか。
どうやって助かったのか。
記憶はほとんど霧のように薄れていた。
ただ一つだけ、かすかな声が頭に残っていた。
――『行くぞ、カイ』
――『生き延びる可能性がある場所へ』
(……ノクス?)
カイは胸元を探った。
そこにあるはずの黒い魔具は、かすかに温かい。
だが、ひび割れたように脈打っては、すぐに沈黙する。
「ノクス……聞こえるか?」
返事はなかった。
まるで深い眠りについたように、
今は完全に機能を失っている――そんな静けさ。
(あいつ……俺を……?)
そこまで考えたところで、
視界の端に黒い影が差し込んだ。
「……ッ! だ、誰だ……!」
カイは咄嗟に身を起こそうとして、激痛に顔をゆがめた。
その様子を、影の主はしばらく黙って見下ろしていた。
「……まさか、まだ生きているなんて、ね」
静かな声だった。
その声を、カイは知っている。
耳に焼き付いた、あの冷たい女性の声。
「……ザラ……?」
月明かりの中に浮かび上がった銀髪。
ザラは、薄い表情のままカイの倒れる前に立っていた。
「ザガン様に吹き飛ばされて……あれだけの傷で。
普通は、即死しているはずよ。
ここまで逃げたの? それとも……」
ザラはカイの胸元――ノクスの位置を見た。
「……《鍵》が、あなたを運んだのかしら?」
その目は鋭く、そしてどこか揺れていた。
追及するような眼差しではない。
理解できない現象に戸惑う、人間の目だった。
「わ、わからない……気づいたら、ここに……」
答えながら、カイ自身が一番混乱していた。
それを聞いたザラは、ふっと静かに息を吐いた。
「……しぶとい子ね。普通ならもう死んでいるのに」
彼女は周囲を見回し、足音を忍ばせて近づいてくる。
「まさか本当に生き残るなんて」
淡々とした口調の奥に、ほんのわずかな安堵が混じっていた。
ザラは腰のポーチから小瓶を取り出し、
カイの前にしゃがみ込むと、ためらいなく栓を抜いた。
「飲める?」
「え……?」
「ポーションよ。
ザガン様には報告しない。
……あなたがここで死んだら、私の後味が悪いだけ」
差し伸べられた手は冷たく、しかし迷いがなかった。
敵であるはずの彼女の行動に、カイの胸が強く締めつけられる。
「どうして……助けるんですか」
問いかけるカイに、ザラは目をそらした。
「さあね。理由なんて……あると思う?」
短い沈黙。
「……あの時、あなたが彼女を守ろうとした姿を見たからよ。
あんな目をして戦う人間を……私、放っておけないの」
その声は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
ザラは無造作にポーションをカイの口元へ押し当てる。
「ほら、飲みなさい。
死にたくないなら、ね」
甘く、少し薬草の苦味を含む液体が喉を流れ落ちる。
体の中で熱がゆっくりと広がっていくのを感じた。
ザラは立ち上がり、背を向ける。
「……この場所に長くいられると、私まで疑われる。
あなたは、勝手に逃げたことにしておくわ。
生き延びたいなら、二度と私に捕まらないことね」
月明かりの中、銀髪が揺れた。
「あなたは――死ぬには、まだ早い」
そう言い残して、彼女は闇の奥へ消えていった。
カイはかすかに震える手で胸元に触れた。
「……ノクス。ありがとう。
まだ……生きてるよ」
返事はなかったが、
ひび割れた魔具がほんのわずかに、温かかった。
その温もりだけが確かに、
生き延びろというノクスの意思であるように思えた。
カイはもう一度、ゆっくりと目を閉じた。
(……リリアさん)
そして少年は、
静かな夜風の中で、薄れゆく意識を必死につなぎ止めながら、
新たな生の一歩を踏み出そうとしていた。
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