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【第1話:Eランク冒険者と黒い球体】

……この日の俺は、まだ知らなかった。

王城が燃え、王女があんなことになるなんて──

七都市全部を敵に回す運命の夜が、すでに始まっていたことを。



剣の都レガルスの《地下迷宮》は、古代の戦士たちが残した《遺産》の眠る場所として知られていた。

冒険者たちが日々探索するこの迷宮は、死んだ獣の腹の中に似ている。


湿った空気が肌にまとわりつく。

崩れかけた石壁の隙間から、冷たい風が吹き抜ける。

腐敗臭と共に。


カイは肩をすくめ、震える膝を両手で押さえつけた。


「……なんで、俺はこんな危険な荷物持ちなんか、引き受けちまったんだろうな」


薄暗い通路の奥に向かって呟くが、返事はない。

仲間だと思っていたパーティーメンバーたちは、強い魔物の群れに遭遇した瞬間、彼を囮にした。

置き去りにした。

そして、消えたのだ。


どれだけ逃げ回ったか覚えていない。気づけば、迷宮の奥で数時間が過ぎていた。



――数時間前。


「――ッ!? 待てよ、おい!?」


カイが叫ぶが、もう遅い。

パーティーメンバーたちの背中は、通路の奥へと消えていった。

そして、カイの前に――。


「グルルルル……」


低い唸り声。

闇の中から、無数の赤い目が光る。

ゴブリン、オーク、そして――巨大なミノタウロス。

最低でもDランク、いや、Cランクの魔物たちが、カイを取り囲んでいる。


「……マジかよ」


カイの顔が青ざめる。

普通なら、ここで終わりだ。

Eランクの冒険者が、これだけの魔物の群れに囲まれたら、生きて帰れない。


だが、カイは違った。


(……逃げる。絶対に逃げる)


カイは一瞬で周囲を観察した。


崩落しそうな天井のひび割れ。

危険な気流の渦。

わずかな魔力の残滓。


それらを読み取る。

生存ルートを導き出す。

その能力だけは、誰よりも長けていた。


「――ッ!」


カイが地面を蹴る。

だが、まっすぐ走らない。

わざと崩れかけた壁に体当たりし、その反動で横へ飛び移る。

ミノタウロスの巨大な斧が、カイがいた場所を粉砕する。


ガガガガガッ!!


「――ッ!?」


衝撃波が背中を押す。

カイはその勢いを利用して、さらに加速する。

まるで弾丸のように、迷宮の通路を駆け抜ける。


「グルルルル!!」


背後で、魔物たちの怒号が響く。

足音が迫ってくる。

重い、硬い、死の音。


(やばい、やばい、やばい――!)


カイの心臓が破裂しそうだ。

だが、頭は冷えている。

周囲の地形を瞬時に分析し、最適な逃げ道を選び出す。


右の通路――行き止まり。

左の通路――魔物の気配が濃い。

上――崩落の危険があるが、そこにしか道がない。


「――ッ!」


カイは迷わず、崩れかけた階段を駆け上がる。

足元の石が崩れ、カイの体が宙に浮く。

だが、その瞬間にカイは壁に手をかけ、体を回転させて、さらに上の階へと飛び移る。


「グルルルル!!」


ミノタウロスが階段を破壊する。

だが、カイはもう上にいる。

魔物たちは、階段を登れずに下で唸っている。


「はぁ、はぁ、はぁ……!」


カイが一息つく。

だが、油断はできない。

迷宮は、深部へ進むほど危険だ。


「……まずいな。ここまで来ちゃった」


カイは自分の位置を確認する。

迷宮の簡易地図を展開し、現在地を特定する。


(……やばい。ここは、迷宮のかなり深いところだ。

普通の冒険者は、絶対に来ない場所)


逃げ続けて、気づけば数時間が経っていた。迷宮の奥深くまで来てしまった。


カイの背筋が寒くなる。

深部には、より強力な魔物がいる。

そして、何より――。


「……出口が、わからない」


カイが呟く。

逃げ回った結果、迷宮の奥深くまで来てしまった。

戻る道も、進む道も、すべてが危険に満ちている。


「……どうしよう」


カイは肩をすくめ、震える膝を両手で押さえつけた。

『この世界の迷宮は、元々一つの巨大迷宮だった』という噂もあるほど、最深部はどこまでも深く続いている。


「……なんで、俺はこんな危険な荷物持ちなんか、引き受けちまったんだろうな」


薄暗い通路の奥に向かって呟くが、返事はない。

もう、誰もいない。

パーティーメンバーも、魔物も、すべてが遠くに消えている。


Eランク。それが冒険者としての彼の評価だった。

臆病で、剣も振れず、魔法も使えない弱者。誰も期待しない、荷物運び程度の存在。


だが、カイには――他人には見えない《もの》が見えていた。


崩落しそうな天井のひび割れ、危険な気流の渦、わずかな魔力の残滓。

それらを読み取り、生存ルートを導き出す能力だけは、誰よりも長けていた。


「……これを生かして強くなれたら、どれだけ楽だったか」


独り言は、虚しく迷宮の闇に吸い込まれていく。


そのときだった。

足元で、コロン、と硬質な音が響く。


「……ん?」


瓦礫の中に、小さな《黒い球体》が落ちていた。

金属でも石でもない、光を吸い込むような不気味な光沢。

触れてはいけない――冒険者としての直感が、警鐘を鳴らした。

だが同時に、胸の奥で別の感覚がざわつく。


(これは……俺を呼んでいる?)


まるで魅入られたように手を伸ばした瞬間、迷宮全体が地鳴りのように震えた。

黒い球体がふわりと浮かび上がり、その表面に赤い点がひとつ、眼球のように灯る。


『ようやく来たな。ずいぶんと――遅かったじゃないか、人間』


「……っ!?」


脳内に直接響く声。

黒い球体はゆっくり回転し、まるで目を細めて笑っているようだった。


『名を教えろ、弱き冒険者よ』


「カ、カイ……。お前はいったい何なんだ……?」


『我はノクス。古き七王家が遺した、最後の《鍵》だ』


その言葉の意味を理解するには、世界はあまりに広く、そしてカイはあまりに無知だった。

だが次の瞬間。

ノクスの赤い光が強烈に輝き、カイの胸の奥に焼きごてを当てられたような激痛が走った。


「え? あ、熱い……!

痛い、熱い、痛い……!

ぎゃぁぁぁぁぁぁ……!」


『契約は完了した。

逃げるなよ、カイ。

これからお前は――

七つの迷宮都市すべてを敵に回すことになるやもしれぬ』


「はぁ、はぁ、はぁ……

待て……はぁ、はぁ……

そんなの聞いて――」


言い終わる前に、通路の奥から轟音が響いた。

誰かがこちらへ向かってくる足音。

複数。それも、訓練された重装兵のような、硬く重い金属音だ。


ノクスが小さく笑った。


『ふむ……剣の都の兵士か。

ずいぶんと早いな。

我の目覚めを嗅ぎつけたか』


「……え? こんな迷宮の深部に兵士?

……いやいやいや、冗談だろ!?

なんで俺がこんなのに巻き込まれ――」


『巻き込まれたのではない。

お前が《選ばれた》のだよ、カイ』


暗闇の向こうで、松明の光と鎧の影が揺れた。

剣の都――レガルスの精鋭たち。

彼らが探しているのは、間違いなくこの《黒い球体》。

そして、それを拾ってしまったカイだ。


逃げなければ殺されるかもしれない。

だが、重装兵に退路を塞がれたこの状況に、逃げ道などあるはずがない。

選択肢は、なかった。


カイは震える手でノクスを掴んだ。


「……わかったよ。こうなったら、意地でも生き延びてやる……!」


『いい顔だ。

弱者は弱者なりに、しぶとくあがくものだからな』


その瞬間、ノクスがカイの手から滑り出し、滑らかに浮遊した。

黒い球体が、まるで生き物のように空中を舞い、カイの胸元へと近づく。


「……お、おい!? 勝手に動くなよ!?」


『慌れるな。我はお前のペンダントになるだけだ』


ノクスがカイの胸元にくっついた瞬間、その外殻がわずかに変形し、まるで古いペンダントのようになった。

他人から見れば、ただの装飾品にしか見えない。


「……なんで、そんなことするんだ?」


『我は長い眠りから覚めたばかりだ。

エネルギーは枯渇している。

自動浮遊して移動することもできるが、それでは無駄に力を消耗する。

お前の胸元にくっついていれば、最小限のエネルギーで済む。

……目立たない方が、お前も都合がいいだろう?』


カイは納得した。

確かに、浮遊する黒い球体を抱えて走り回るより、ペンダントとして身につけている方が自然だ。


「……なるほど。節約家なんだな」


『当然だ。無駄な消費は愚者の所業だ。

さあ、契約者よ。我の力を使って、この迷宮から脱出せよ』


その瞬間、ノクスの外殻が淡く光り、カイの視界が一変した。


通路の形、崩落のタイミング、敵の動き――すべてが《戦術的なライン》として網膜に浮かび上がる。


「……すごい! 見える……!」


『逃げるための戦術は、お前の得意分野だろう? さあ、行け』


カイは迷宮の影の中へ駆け出した。

胸元のノクスが、まるで心臓のように微かに脈打っているのを感じながら。

その一歩が、七大迷宮都市すべてを巻き込む、裏切りと陰謀の物語の始まりだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


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