【第9話:泥と雨の逃避行】
地下水道を抜けた先は、冷たい雨が降りしきる森の中だった。
剣の都からはだいぶ離れたが、まだ安心はできない。
空にはワイバーンの騎兵が旋回し、街道には検問が敷かれている。
「……寒い」
カイは身震いした。
濡れた服が体温を奪っていく。
Eランク冒険者として野宿には慣れているつもりだったが、装備も食料もない逃避行は過酷すぎた。
「カイ、こっちよ。岩陰がある」
リリアが手招きする。
大きな岩が屋根代わりになっている場所に、二人は身を潜めた。
「火は……ダメだな。煙でバレる」
カイは乾いた枝を集めかけた手を止めた。
暗く、冷たく、腹が減った。
惨めな現実だ。まるで泥まみれのネズミのようだ。
「……こっちに来なさい」
リリアが自身のマントを広げた。
「え?」
「体温を分け合うのよ。凍え死にたいの?」
「い、いや、でも……」
「とっとと来なさい! ……ですわ!」
強引に腕を引かれ、カイはリリアの隣に座らされた。
上質な生地のマントに包まれると、驚くほど温かい。
そして、微かに香る花の匂い。汗と泥にまみれても、彼女はどこか清冽だった。
背中合わせに座り、互いの体温を感じる。
心臓の音が伝わってきそうだ。
「……リリアさんって、意外と体温高いんだな」
「あなたは低すぎよ。……ほんとに生きてるの?」
「ギリギリな」
軽口を叩き合いながら、カイは少しだけ救われた気分になった。
一人じゃない。
背中を預けられる相手がいることが、これほど心強いとは。
『フン。人間とは不便な生き物だな』
懐のノクスが呆れたように振動する。
「うるせぇ、鉄屑。お前は電池切れの心配でもしてろ」
『心外な。我の動力源は大気中のマナだ。半永久的に稼働する』
「便利でいいご身分だな」
その時、森の奥でガサリと枝が折れる音がした。
リリアの体が瞬時に硬直する。
彼女の手が、音もなく剣の柄に掛かる。
「……三人。重装備ね」
リリアが耳元で囁く。
カイには何も聞こえなかったが、彼女の感覚は絶対だ。
「戦うか?」
「いいえ。ここで騒ぎを起こせば包囲される。
……カイ、逃げ道は?」
カイはノクスを起動した。
視界がモノクロに変わり、森の地形がワイヤーフレームのように浮かび上がる。
風の流れ。足場の硬度。敵の気配と死角。
「……右斜め前、45度。
腐った倒木の下に、古獣の獣道がある。あそこなら鎧を着た奴は通れない」
「了解。合図で走るわよ」
敵の兵士が松明を掲げ、こちらに近づいてくる。
その光が岩陰を照らそうとした瞬間。
「今だ!」
カイとリリアは弾かれたように飛び出した。
泥を蹴り、茨を抜け、獣道へと滑り込む。
「いたぞ!! 追え!!」
怒号が響くが、狭い獣道に阻まれて兵士たちは立ち往生している。
「ははっ、ざまあみろ!」
カイは息を切らせながら笑った。
逃げる。隠れる。生き延びる。
それはかつて、弱者としての恥ずべき行為だった。
だが今は、これが俺たちの戦い方だ。
雨はまだ止まない。
けれど、二人の足取りは、昨日よりも少しだけ力強かった。
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