第八十九話 非情なる合理の時代
――「希望」という名の糸が、指の間から滑り落ちる感覚を、貴方は知っていますか?
ある者は、名誉を捨ててでも「明日」という名の果実を掴み取ろうと足掻きました。
戦術的な正解、外交的な打算、そして生き延びることへの執着。ボントゥスが築き上げた防御の円陣は、彼が必死に手繰り寄せた、最後にして唯一の「生存への祈り」であったはずです。
けれど、残酷な現実は、そんなささやかな祈りさえも無慈悲に踏みにじる「合理性」の重圧となって、彼の目の前に現れました。
レイ将軍という名の、静かなる死神が編み上げた包囲網。
それは、綻びを許さぬ鉄の規律。
それは、敵の絶叫さえも数式の一部として処理する、感情なき殲滅の檻。
正面から牙を剥く復讐の炎、側面を切り裂く傲慢な武力、そして背後を断つ冷徹な行政。
完璧に噛み合った「機能」としてのミケ軍の前に、誇りなき防衛など、嵐の前の紙細工にも等しい。
さあ、最期の時間を刻みましょう。
一滴の救いも、一秒の猶予も、一筋の逆転の芽さえも。
全てが「完璧な勝利」という名の冷たい地平に、塗り潰されていくその瞬間を。
――セシェスの風が運ぶのは、タズドットの落日と、血の匂いにまみれた『新時代』の産声なのですから。
レイ将軍とエディ大隊長の一騎討ちの結末は、ボントゥス・エクストランド副将軍にとって、戦略的にも、精神的にも、致命的な一撃となった。
彼は、エディがレイ将軍の『塵忍儀式杖』の炎によって剣を焼かれ、屈辱的に捕虜となる光景を、絶望的な顔で見つめていた。
エディは、ボントゥスが「不要」とした名誉を賭けて飛び出し、そして無様に敗れ去った。
ボントゥスにとって、これは部下の死以上に、自身の外交的・実利的な哲学が、レイ将軍の「泥臭い実利」によって論破され、無力化された瞬間だった。
エディ大隊長が捕虜になったのを確認したボントゥス副将軍の頭の中は、もはや「講和」や「外交」の思考で埋め尽くすことはできなかった。
彼の部隊の最も熱い血潮が、敵の手に落ちたのだ。
彼は、最後の手段として、戦場からの逃亡を再考した。
しかし、既にレイ将軍の包囲網は、彼らが陣取っていた丘の周囲で完璧に完成しており、動けば即座に側面から攻撃されることは火を見るよりも明らかだった。
逃亡が不可能となったボントゥス副将軍は、最悪の結末を避けようと、最後の絶望的な足掻きに出た。
彼は、残された大隊長たちと兵士たちに向け、声にならないような震える声で、防御の号令を出した。
「全軍!大隊長たちよ!防御を強めるように! 円陣を組め!敵の突撃に備えろ!決して隊列を乱すな!」
ボントゥスは、「殲滅」を「防衛」で食い止めようという、戦術的に無意味な命令を下さざるを得なかった。
彼の防御は、ミケ軍の猛攻を防ぐためというよりも、部隊が完全に瓦解するまでの時間を稼ぐための、消極的な抵抗でしかなかった。
兵士たちも、指揮官の逃亡未遂の動揺と、エディ大隊長の敗北という屈辱的な現実を目の当たりにし、士気は地に落ちていた。
しかし、彼らは軍人としての義務に基づき、最後の脆い防御円陣を敷いた。
その脆弱な防御円陣に対し、レイ将軍の布陣は、まるで獲物を食らう猛獣の顎のように、容赦なく閉じられ始めた。
レイ将軍が引いた包囲殲滅の陣形は、戦術的な隙が一つも無い、冷徹な合理性の結晶だった。
ジギフリット副将軍率いる中央軍は、正面から狂気的な復讐心を込めた猛攻を開始。
リーヴェス副将軍の左翼は、タズドット軍の脆弱な側面を突き崩すべく、機動力を活かした波状攻撃をかける。
ビテン副将軍の部隊は、完全に退路を断ち、降伏以外の選択肢を兵士たちから奪い去った。
タズドット軍の防御円陣は、ミケ軍の三方向からの圧力の前に、紙切れのように引き裂かれた。
ボントゥス副将軍の絶望的な命令も、レイ将軍の陣形の力の前には、何の意味も持たなかった。
兵士たちは、次々と包囲網の中で殲滅され、タズドットの最後の抵抗は、無残にも踏みにじられるのだった。
戦闘は、レイ将軍が予期した通り、短時間で決着した。
ボントゥス副将軍の部隊は、降伏する間もなく、完璧な包囲殲滅の陣形の前に、完全に撃破されるのだった。
ボントゥス副将軍は、武器を投げ捨て、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
彼の外交と実利に賭けた思惑は、レイ将軍の圧倒的な知略と武力によって、完膚なきまでに否定されたのである。
そして、レイ将軍は見事に敵に打ち勝ったのだった。
この勝利は、単なる一個部隊の撃破ではなかった。
リガナーヴ砦、ブヌの無血占領、そしてこのボントゥス軍の殲滅をもって、セシェス地域におけるタズドット軍の全軍が完全に駆逐されたことを意味していた。
ミケ軍は、マルク隊長という一人の犠牲と、レイ将軍の卓越した知略、そして指揮官たちの強固な結束をもって、タズドットが植民地に築いた全ての防衛線を突破し、新たな、非情な時代の始まりを確定させたのである。
はい、というわけで! セシェス全域、完全制圧でございます!
いやあ、本当にもう……ボントゥス副将軍、お疲れ様でした!
正直に言いましょう。作者、こういう「理屈で生きようとした男が、それ以上の巨大な理屈にすり潰される瞬間」を書くのが、三度の飯より大好きなんです!
ボントゥス副将軍は間違っていなかったんですよ。
無駄な死を避け、外交で勝負する。それは「平和」という名のぬるま湯に浸かった国においては、最高にスマートで、最高に正しい「大人」のやり方です。
けれど、そんな彼の前に現れたのが、名誉も、伝統も、そして「外交の余地」すらもゴミ箱に捨てて、ただ『勝利』という結果だけを電卓で叩き出すレイ将軍だった……。これが彼の、そしてタズドット軍の運命の分岐点でしたね。
ボントゥスが必死に命じた「防御円陣」。
あれ、見ようによっては、自分たちのプライドと一緒に閉じこもった「棺桶」にしか見えません。
そこを正面からジギフリットの復讐心がブチ抜き、側面からリーヴェスの傲慢な武力が切り裂き、背後をビテンが冷徹に塞ぐ。
……この、一糸乱れぬ「殺戮のハーモニー」!
仲間同士で笑い合っていたあの「仲良し軍団」が、戦場ではこれほどまでに完璧で、容赦のない「一つの生き物」として機能する。この二面性こそが、ミケ軍の推しポイントなんです。
結局、ボントゥス副将軍が守ろうとした「実利」は、レイ将軍の「より合理的で泥臭い実利」の前に、ただの甘えとして断罪されてしまいました。
一人の友を失い、その痛みを共有することで強固な鋼となったミケ軍。
一方で、内側から亀裂が入り、バラバラの信念で立ち尽くしていたタズドット軍。
勝負が決まったのは、戦う前、それこそレイ将軍が静かに包囲網を描き終えた瞬間のことだったのでしょう。
さて、これでセシェスの地からタズドットの旗は消え失せました。
ですが、これはハッピーエンドではありません。
犠牲を積み上げ、感情を捨て、ただ「勝つこと」に特化した異形の軍団が、いよいよ本国へと牙を剥く。その後に残るのは、さらなる血の匂いと、誰も見たことのない絶望の景色だけ。
――次は、もっと大きな絶望が、誰かの喉元を狙っています。
物語の針は、もう止まりません。
それでは、次なる戦場――タズドット本国という名の巨大な処刑場でお会いしましょう!




