第八十三話 臆病という名の敗北
――誇り。それは、守るべき価値がある時にだけ機能する、美しき枷に過ぎません。
リガナーヴという絶対の盾が砕け散ったとき、タズドットの将兵たちが抱いていた「威信」という名の幻想もまた、音を立てて崩壊しました。
彼らに突きつけられたのは、戦う勇気ではなく、生き延びるための無様な逃走という選択肢。
片や、保身と虚栄にまみれた臆病者のアンセルム。
片や、真面目すぎるがゆえに絶望の淵に立たされたトマス。
対照的な二人の指揮官が、同じ「逃亡」という道を選んだとき、ブヌの地に残されていたのは、戦士の意地などではなく、ただの空虚な静寂だけでした。
復讐に燃えるジギフリットの炎は、焼き尽くすべき標的を失い。
冷徹なレイの知略は、戦う前から敵を自滅へと追い込みました。
これは、英雄たちの物語ではありません。
信じていたものが足元から崩れ、泥をすすって逃げ出す敗残者たちの、あまりにも無様で、あまりにも人間臭い喜劇の幕開け。
さあ、見届けなさい。
一滴の血も流されることなく、誇りだけが一方的に蹂躙されていく様を。
――終わりの鐘は、叩かれる前から、既にその音を響かせていたのですから。
リガナーヴ砦が、ミケ軍の冷酷な策略と狂気的な復讐心によって、わずか一日足らずで陥落したという衝撃的な報は、セシェス国境の要衝、ブヌ砦に駐屯するタズドット軍に、致命的な一撃を与えた。
特に、アンセルム・バリエンダール大隊長は、元来の保身的な臆病さと現実逃避の気質が極限まで高まり、完全に戦意を喪失していた。
彼は、執務室の窓から差し込む朝の光が、まるで自分を裁く光のように感じられ、冷や汗を拭う手を止められなかった。
「お、おじさん、聞いただろ!?あのヴァルナルが降参しやがってさー!リガナーヴ砦があんなに簡単に落ちるなんて、まさか、まさかだ!おじさん、これ勝てねえわ……」
アンセルムは、「おじさん」という卑屈な言葉を使いながら、隣に立つトマス・フェグレーン大隊長に助けを求めた。
彼の頭の中は、もはや戦闘の継続ではなく、いかにこの地獄から自分の命と地位を無傷で持ち出すかという一点に集中していた。彼の「優雅なる茶会指揮官」としての虚飾は、血の匂いと敗北の現実の前で、完全に溶け去っていた。
隣に立つトマス・フェグレーン大隊長は、アンセルムとは対照的に、真面目な責任感の強さから、より深い絶望に打ちのめされていた。
トマスは、アンセルムの呑気な無責任さに常に辟易していたが、今回ばかりは、彼の言葉が冷酷な現実を突いていることを否定できなかった。
トマスは、ミケ軍の残虐な三布告と、マルク隊長の壮絶な潜入という情報の全てを吟味した。彼の知力が導き出した結論は、「抵抗は無意味であり、無駄な玉砕を招く」という、苦渋の判断だった。
「ふざけるなよ、アンセルム!貴様のような臆病者の言葉など聞きたくもない!」
トマスは怒鳴ったが、その声には真の怒りではなく、自己の無力さへの絶望が滲んでいた。
「だが、事実だ。我々が守るべき威信は、セシェスで既に崩壊した。リガナーヴ砦の陥落は、ミケ軍の知略と武力が、我々の防御力を完全に上回っていることを証明した。この状態で、勝てるわけないのに挑めるか! 兵士たちを、あの狂気的な復讐心を持つミケ軍の前に、無駄死にさせるわけにはいかない!」
トマスの誠実さと責任感は、彼に「降伏」あるいは「逃亡」という、最も恥ずべき選択を強いた。
タズドットの威信を守るという彼の信条は、兵士の命を守るという責任の前に、ついに屈服した。
「こうなったら、逃亡するしかない……」
トマスは、その言葉を口にするたびに、自身の武人としての名誉が音を立てて崩れ去るのを感じた。
そして、アンセルム大隊長とトマス大隊長は、ブヌ砦の防衛責任者として、戦場からの逃亡という、最も恥ずべき道を選んだ。
アンセルムは、「逃亡するなら、少しでも早い方が有利だ」と、部下の制止を振り切り、真っ先に砦を後にした。
トマスは、最後まで「この判断は正しいのか」という葛藤に苦しみながらも、部隊の瓦解を防ぐため、やむなく後退の指揮を執った。
指揮官たちの逃亡という行動は、タズドットの兵士たちに、致命的な影響を与えた。
リガナーヴの絶望的な敗報に揺れていた兵士たちは、指揮官たちが既に戦意を失っていることを悟ると、もはや「威信」のために戦い続ける理由を失った。
「隊長が逃げたぞ!」「もうだめだ、ミケ軍には勝てない!」「逃げろ、生きて本国へ帰るんだ!」
タズドットの兵士たちは、組織的な統制を失い、負けを認めて敗走を始めるのだった。
彼らの敗走は、まるでダムが決壊した後の濁流のように、止めようのない勢いでセシェス国境から遠ざかっていった。
ブヌ砦は、一発の矢も交わされることなく、無人の城郭と化していった。
その頃、リガナーヴ砦で団結を固めたレイ将軍率いるミケ軍の1500名は、次なる目標であるブヌへと進撃していた。
ジギフリット副将軍の復讐の炎は最高潮に達しており、部隊全体が熱狂的な士気に満ちていた。
しかし、彼らがブヌの地に到達したとき、彼らを待ち受けていたのは、敵兵との激突ではなく、不気味なほどの静寂だった。
レイ将軍の冷静な情報分析が正しかった。アンセルム大隊長の臆病さと、トマス大隊長の絶望が、彼らの戦意を完全に砕き、タズドット軍は既に敗走した後だったのだ。
レイ将軍は、無血でブヌの砦を接収した。彼の冷徹な合理性からすれば、最小限の犠牲で最大の戦略目標を達成した、完璧な勝利だった。
しかし、ジギフリット副将軍の顔には、復讐を果たす場を失った苛立ちと、敵のあまりの無様さへの冷笑が浮かんでいた。
タズドットの威信は、ミケ軍の武力ではなく、自軍の指揮官たちの臆病と絶望によって、一滴の血も流されることなく、完全に崩壊したのである。
はい、というわけでブヌ砦攻略……と言っていいのでしょうか、これ。まさかの「無血開城」でございます。
リガナーヴ砦ではあんなに熱く、あんなに切なく、あんなに血なまぐさい友情と献身のドラマが繰り広げられたというのに、次に待っていたのが「指揮官たちが真っ先に逃げ出す」という、この世の終わりみたいな無様な光景なんですから。……いやぁ、人間って本当に面白いですねえ!
アンセルム大隊長、期待を裏切らないクズっぷりでした。「おじさん」なんて卑屈な言葉を吐きながら逃げ出す姿は、ある意味でこの残酷な世界において最も「人間らしい」生存本能の塊だったのかもしれません。
一方で、真面目すぎるトマス大隊長。
彼のような責任感の強い男が、悩んで、苦しんで、最終的に「逃亡」という武人として一番選んではいけない道を選んでしまう。誇りを守るよりも、兵士の命という現実の重みに押し潰される。その絶望の味は、さぞかし苦かったことでしょう。
けれど、一番可哀想(?)なのは、復讐の炎をメラメラと燃やして突撃したジギフリット副将軍ですよ。
「マルクの仇だ!」と意気込んで扉を蹴り開けたら、中はもぬけの殻。振り上げた拳の行き場がない。殺意をぶつける相手すら残っていない。……復讐者にとって、無視されること以上の屈辱はありませんからね。
レイ将軍にしてみれば「効率的で最高の結果」でしょうが、感情を置き去りにされたミケ軍の精鋭たちにとっては、この静寂はどんな罵倒よりも堪えたはずです。
タズドットの「威信」は、剣で切り裂かれたのではありません。自分たちの内側にある「恐怖」という腐った果実が、勝手に地面に落ちて潰れただけ。
さて、国境の牙城を全て失い、もはや丸裸も同然のタズドット。
逃げ出した臆病者たちと、追いかける復讐の鬼たち。
この追いかけっこの終着点には、一体どんな地獄が待っているのでしょうか?
――次は、もっと派手に壊れてくれることを期待しましょう。
物語のページは、まだ真っ赤に染まり足りないようですから。




