第七十八話 石より脆きもの
――難攻不落。
それは、弱者がすがりつく、最も甘美で、最も脆い幻想の言葉です。
リガナーヴ砦に籠るタズドットの兵たちは信じていました。
積み上げた石壁が、険しい岩盤が、自分たちの命を理不尽な暴力から隔ててくれると。
その「閉じこもる」という行為こそが、唯一の正解であると。
ですが、彼らは見誤っています。
城壁がどれほど高くとも、どれほど堅固であろうとも、それを守るのが「人」である限り、そこには必ず致命的な亀裂が生じるということを。
外に広がるのは、圧倒的な武力を持つミケ軍。
しかし、本当に恐れるべきは、城壁を打ち砕く破城槌の音ではありません。
静寂。
闇夜に紛れ、音もなく忍び寄る「死」の気配。
正攻法などという騎士道精神は、この戦場には存在しません。
あるのは、勝つための最短距離と、相手の希望を根底から裏切る狡猾な罠だけ。
強固な鍵をかけた扉。
もし、その鍵を内側から開ける者がいたとしたら?
――さあ、始めましょう。
鉄壁の要塞が、ただの処刑場へと変わる、最悪の奇術を。
リガナーヴ砦の堅固な石壁は、ミケ軍の精鋭1500名の前に、沈黙の挑戦状のように立ちはだかっていた。
砦は天然の岩盤を利用して築かれており、正面からの強行突破は甚大な犠牲を伴うことは明白だった。
内部には、タズドット軍のヴァルナル・オークランス副将軍と、籠城に徹する500名の兵士が立てこもっている。
レイ将軍、ジギフリット副将軍、そしてリーヴェス副将軍(左翼担当)は、砦が見える丘の中腹に集まり、作戦会議を開いていた。
彼らの間には、籠城戦の難しさという共通認識からくる、重い沈黙が流れていた。
「力攻めは愚策です」とリーヴェス副将軍が口を開いた。
「我々の武力は圧倒的ですが、砦の守りを崩すための攻城兵器が不足しています。無駄に時間を費やせば、タズドット本国からの増援が間に合う恐れがある。『短期間での勝利』という我々の目的に反します。」
レイ将軍は、ただ冷徹に砦を見つめている。
彼の頭脳は、既に通常の攻略法を全て否定していた。必要なのは、力ではなく、敵の計算を狂わせる一撃だった。
その時、ジギフリット副将軍の脳裏に、まるで魔術的な電流が走ったかのような閃きが訪れた。
彼の瞳は、その澄んだ美しさの中に、一瞬にして冷酷な光を宿した。
それは、武力と狡猾な策略が融合した、ミケ軍特有の非情な発想だった。
「そうだ、こうすればいい!」
ジギフリットの声は、周囲の重い空気を打ち破った。
彼の提案は、正面からの攻撃という常識を覆すものだった。
「レイ将軍、力で門を破る必要はありません。門は、内側から開かせればいいのです。砦の守りは、外部の攻撃に対する備えが強固ですが、内部の人間に対する警戒は必ず緩む。我々が使うのは、人間の隙です。」
レイ将軍は、この奇策の意図を瞬時に理解した。彼は、静かにジギフリットを認め、言葉を待った。
ジギフリットが目を付けたのは、彼の直属の配下であり、潜入工作と状況対応力に長けたマルク・バーダー隊長だった。
マルク隊長は、その目立たない容姿と、周囲に溶け込む偽装の技術において、ミケ軍随一だった。
ジギフリットは、その場でマルク・バーダー隊長を呼び出した。
「マルク隊長、貴様には最も重要かつ危険な任務を任せる。それは、敵の砦に単独で潜入し、門を内側から開けてもらうことだ。」
ジギフリットの声は低く、しかし、一言一言に絶対的な命令の重みが宿っていた。
マルク隊長は、その命令の極端な危険性を理解しつつも、一切の動揺を見せなかった。
「わかったずら。 このマルク、敵の目を掻い潜り、必ずや任務を完遂してみせるずら。」
マルク隊長が使う「ずら」という、どこか間抜けな方言のような口調は、彼の目立たなさと潜入者としての資質をかえって引き立てていた。
「よろしい。砦内部の守備兵の配置、動線、そして交代のタイミングを全て把握しろ。我々が攻撃を仕掛けるのは、貴様が内門を完全にこじ開けた瞬間だ。貴様こそが、このリガナーヴ砦陥落の決定的な刃となる。」
こうして、ジギフリット副将軍の電撃的な奇策が決定され、マルク・バーダー隊長に極秘の潜入と内応工作の命令が与えられた。
マルク隊長は、夜の闇に紛れるように砦へと向かい、単独での潜入を開始した。
彼が成功すれば、ミケ軍の1500名の精鋭は、無傷のまま砦内部へと雪崩れ込み、籠城するヴァルナル・オークランス副将軍と500名のタズドット兵は、背後からの致命的な奇襲を受けることになる。
レイ将軍は、この「人間の隙」を突いた作戦の成功を確信していた。
リガナーヴ砦は、その堅固な外壁にもかかわらず、内部の人間という最も脆弱な点を突かれることで、一夜にして墓標へと変わる運命にあった。
ミケ軍の戦争哲学は、常に力と合理性、そして非情な策略の組み合わせによって成り立っていたのだ。
はい、というわけでリガナーヴ砦攻略戦、まさかの搦め手回でございます。
「堅固な城壁」。
響きはいいですよね。絶対の防御、揺るがぬ安心感。
タズドットの兵士たちは、その石壁に背中を預けて、ほんの少しの安眠を貪ろうとしたことでしょう。
ですが、残念。本当に残念です。
彼らが相手にしているのは、騎士道精神などという甘い砂糖菓子をドブに捨てた、ミケ軍の精鋭たちなのですから。
ジギフリット副将軍の閃き、冴え渡っていましたね。
「外が硬いなら、中から開ければいいじゃない」。
マリー・アントワネットもびっくりの発想ですが、戦争においてこれほど残酷で、かつ効果的な真理はありません。
そして選ばれたのは、マルク・バーダー隊長。
「ずら」なんて愛嬌のある語尾で油断させておいて、その実、懐には猛毒を隠し持っているタイプです。
一番敵に回したくないですね。
要塞の強度は、石の厚さではありません。
中にいる人間の「心の隙間」で決まるのです。
強固な壁に守られていると思った瞬間、その安心感こそが、死神を招き入れる裏口になる。
次回、内側から鍵が開かれた時、そこで待っているのは戦いではありません。
密室での一方的な「処理」です。
信じていた扉が、自分たちを殺すために開く絶望。
その瞬間、彼らはどんな顔をするのでしょうか?
――さあ、聞こえてきましたよ。
カチャリ、と。
終わりの音が、錠前を回す音が。




