第七十一話 政権奪取
――世界は、正しさでは動かない。
誰かの涙も、誰かの正義も、この世界では価値を持たないことがある。
レイがその事実を悟ったのは、仲間を失ったあの日だった。
あのときから、彼の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。
空虚を埋めるために手を伸ばしたものが、正しいかどうかなど、もはや問題ではなかった。
代わりに、彼の心を満たしたのは――復讐にも似た、黒い執着。
踏みにじられた時間、奪われた絆、届かなかった願い。
その全てを抱えたまま、レイは軍勢の中で、自分の心がゆっくりと変質していくのを自覚していた。
優しさは無意味だ。
理想は裏切る。
正しさは、守れなかった者の墓標にしかならない。
だからこそレイは、もう迷わない。
心の奥底に焼き付いた痛みのままに、ただ冷たい決断を積み重ねていく。
――その果てに、どんな地獄が待っているかも知らずに。
これは、一度壊れた心が、もう一度間違った方向へと歩き出す物語。
そして世界は、そんな彼を止めてはくれない。
屈辱に打ちひしがれ、涙声で嗚咽を漏らしていたアルフォンス・ホーカンソン地方官は、レイ将軍の冷酷な言葉を聞き、最後の虚勢を振り絞って顔を上げた。
彼は、ミケ軍が今後直面するであろう国際的な圧力を盾に、最後の抵抗を試みた。
「くっ……!良いでしょう、この一時の勝利に酔いしれるがいい!貴様らがこのセシェスを奪ったところで、この後、黄金同盟の圧力をどうするつもりだ!せいぜい、今まで黄金同盟に入らなかったことを後悔することですね! タズドットを敵に回すことが、どれほどの外交的孤立を招くか、思い知るがいい!」
アルフォンスは、ミケ軍が大国の支配する世界秩序の外側にいるという事実こそが、彼らの最大の弱点であると信じていた。
彼の言葉は、秩序の維持こそが、暴力に勝る究極の力であるという、タズドットの根深い信仰の表れだった。
しかし、レイ将軍は、その切羽詰まった警告を、まるで滑稽な冗談のように受け止めた。
彼は、七三分けの黒髪を整える仕草を一つした後、口元に薄く、そして鋭利な嘲笑を浮かべた。
「ほう?後悔、ですか。」
レイ将軍は、アルフォンスの目の前で、冷たい事実を突きつけた。
「残念ながら、ミケ将軍の軍団は、貴殿方が長年作り上げたその『黄金同盟』の支配こそが、時代遅れの腐敗した秩序であると考えている。そして、貴殿の敗北と、ギーラピでのタズドットの陰謀の露呈により、その秩序は既に内部から崩壊し始めているのですよ。」
レイ将軍は、せせら笑うかのように冷酷に伝えるだけだった。
彼にとって、黄金同盟の圧力など、既にゲイブ大臣という優秀な協力者によって外交的な盾を用意され、無力化された取るに足らない脅威でしかなかった。
レイ将軍は、無残に崩れ落ちるアルフォンス地方官を一瞥した後、「もはや用はない」と判断した。
彼は中央軍の兵士に命じ、屈辱に打ちひしがれたアルフォンスを、館から追い払い、実質的なセシェス植民地支配の終焉を宣言した。
そして、レイ将軍はすぐさま、植民地の中枢の制圧という政治的な次の一手を打った。
彼は、捕虜としたアルフォンス地方官の配下の一人であった、バート・ミュルバリ大隊長を、全兵士と官僚の前へと引き立てた。
バート・ミュルバリ大隊長は、アルフォンスのヒステリックな絶叫を間近で見ており、既にミケ軍の暴力と合理性の前に完全に屈服していた。
レイ将軍は、バートに裏切りか、死かという二択を突きつける必要すら感じなかった。
レイ将軍は、全ての指揮官と、捕虜となった植民地官僚を前に、冷徹に宣言した。
「本日をもって、タズドットの植民地支配は終結した。このセシェスは、ミケ将軍の新たな支配領域となる。ここに、バート・ミュルバリ大隊長を、新セシェス政権の地方官に任命する!」
この「地方官の配下」を新地方官に任命するという手は、見事な権謀術数だった。
タズドットの官僚機構を利用しつつ、支配者だけをすげ替えることで、セシェスの行政機能を混乱させることなく、ミケ軍の支配下に組み込むことができる。
こうして、ミケ軍は単に軍事的な勝利を得ただけでなく、植民地の政治システムそのものを乗っ取ることに成功した。
タズドットが長年維持してきた植民地セシェスは、レイ将軍の冷徹な合理性と政治的な手腕によって、一夜にしてミケ軍の支配領域へと変貌したのである。
――勝った。
その事実だけを見れば、称賛されるべき結果なのかもしれない。
だが、人は勝利のたびに清くなるわけじゃない。
むしろ、手にした勝利が大きければ大きいほど、人の心は歪んでいく。
今回のレイの決断は、合理的だった。
軍勢を守り、植民地を制圧し、敵の政治基盤を乗っ取る。
どれ一つとして間違ってはいない。
間違ってはいない――はずなのに。
それでも、胸の奥に引っかかる感情は消えない。
失われた仲間の面影。
癒えきらない怒り。
そして、何よりも“正しさ”を諦めた自分自身。
彼はきっと分かっている。
今日の勝利の裏側で、何か取り返しのつかないものを切り捨てたことを。
それがいつか牙を剥くとき、彼はまた誰かを失うのかもしれない。
けれど、もう立ち止まれない。
後悔しても、苦しんでも、傷ついても――
“前へ進む”以外に、レイの選べる道はない。
誰よりも弱く、誰よりも壊れやすい心を抱えたまま、
それでも歩き続ける彼の姿は、ある意味で誰よりも人間らしいのかもしれない。
これは、勝利を手にした者の物語ではない。
自分の喪失を埋めるために、勝利しか掴めなくなった男の物語だ。
そして、そんな彼を待ち受ける未来が、
救いであると信じたい――そう願わずにはいられない。




