第七十話 虚飾の地方官
かつて、この大陸の片隅に――「絶対」は存在した。
タズドット帝国という名の巨大な影が、他民族を支配し、文明を管理し、秩序を維持する。
それは多くの者にとって、揺るぎなき常識であり、覆りようのない現実だった。
だが、その「絶対」は、ある夜、音も無く崩れ去る。
歴史に刻まれるその変革の中心にいたのは、豪放なる英雄でも、理想に殉じる救世主でもない。
ただ、冷徹なまでに合理を追い求め、勝利のためなら凡俗の倫理を切り捨てる、一人の将――レイ。
この物語は、
伝統も威信も、常識すらも通じない“新しい戦争の時代”に立ち向かう者たちの記録である。
虚飾にすがる者、権威を盾にする者、
努力が報われると信じながら、歴史の流れに呑み込まれていく者。
そして――
合理の刃を携え、旧時代を焼き払い、
「必要な勝利」のために歩み続けるミケ軍の猛者たち。
どちらが正しく、どちらが愚かか。
その答えは、読者であるあなたに委ねられている。
だが一つだけ、確かなことがある。
変革の火はもう、誰にも消せない。
アルフォンス・ホーカンソン地方官の執務室――それはもはや、タズドットの植民地支配の権威の聖域ではなかった。
夜明け前の光が、爆風で砕け散った窓枠から斜めに差し込み、血の痕や破壊魔法の焦げ跡、そして無残に散乱した重要書類を残酷に照らし出していた。
部屋の寒さは、アルフォンスの心臓の凍てつきを反映しているかのようだった。
黒髪を必死に整えたアルフォンスは、屈辱的な寝間着姿の上からローブを羽織っていたが、その見せかけの威厳は、レイ将軍の冷徹な存在感の前で、音を立てて崩れ去っていた。
ジギフリットに捕らえられた彼の肉体は震え、瞳は混乱と憤怒で充血していた。
彼のヒステリックな責任転嫁と、「卑怯だ」という情緒的な非難に対し、レイ将軍は静寂を破り、ただ合理性の宣告を突きつけた。
「残念ですが、アルフォンス地方官。貴殿の『もしも』は、我々の『必然』の前では無意味です。タズドットの偉大な大将軍たちが、このセシェスに万全の体制で駐屯していたとしても、結果は変わりませんでしたよ。」
レイ将軍の言葉は、アルフォンスがこれまで拠り所としてきたタズドットの絶対的権威という幻想を、根こそぎ破壊した。
彼の声には、感情の抑揚は一切なく、まるで鉄を研ぐような冷たい響きがあった。
「貴殿方が頼る数の論理、正々堂々という名の古い慣習は、我々ミケ軍が選択した新しい戦争の形態の前では、時代遅れの遺物でしかない。我々が選んだのは、貴殿方が言うような『騎士道』ではありません。それは、最短距離で、最小限の損害で、最大の戦略目標を達成する、最も合理的で、最も効率的な勝利の設計図です。我々としては、短期間で勝つ方法、すなわち貴殿方の防御の緩みを容赦なく突く電撃的な崩壊を、選んだだけですからね。」
レイ将軍の言葉は、武力と知力の極端な合理性こそが、新しい時代の真実であることを、アルフォンスの耳に刻みつけた。
それは、彼が信じてきた秩序と規範の全てに対する、非情な死刑宣告だった。
レイ将軍の断言――「タズドットがいても勝てなかった」――は、アルフォンスの精神を打ち砕いた。
彼の涙声は、個人的な恐怖を超え、自己の存在意義の喪失から来る悲痛な嗚咽へと変わった。
「そんなバカな……!嘘だ、嘘だといってくれ!頼むよ、レイ将軍!私は、タズドットの威信を、このセシェスで守り抜くために尽力してきた!私の努力は、全て意味がなかったというのか!」
彼は、自らの無能や敗戦そのものよりも、植民地の威信が地に落ちること、そして自己の地位が永遠に失われることへの恐怖に駆られていた。
「そんなんじゃ、セシェスが、そして植民地を管理してきた私が、永遠に笑い者にされちゃうよ!ミケ軍のような、得体の知れない反乱軍に、タズドットの要衝が瞬時に陥落したと知れれば、国際社会での我々の虚飾が、全て剥がされてしまう!私の人生の全てが、この一晩で無意味になる!」
アルフォンスの叫びは、植民地支配の崩壊という歴史的転換点の悲劇を、個人の見苦しいプライドの喪失という形で代弁していた。
彼のきちんとした髪型は、もはや涙と汗で乱れ、その外見への固執は、彼がどれほど虚栄心に支配されていたかを示していた。
レイ将軍は、この哀れな敗北者の姿を、最後まで冷静なデータとして処理した。
アルフォンスの絶望は、ミケ軍がタズドットに与えた戦略的、精神的なダメージの深さを測る、確かな証拠だった。
レイは、最後にとどめの一言を静かに突きつけた。
「貴殿の心配は、ごもっともです。我々の目的は、まさにそれです。貴殿の威信と虚飾が崩壊することで、タズドットの植民地支配全体が、いかに脆く、そして無能であったかという真実が、世界中に知れ渡る。貴殿の存在と、貴殿の敗北は、その真実を証明するために、最大限に活用されます。」
レイ将軍は、アルフォンスの顔をもう一度、冷たい目で一瞥し、「用済みだ」と無言で断罪した。
彼は、屈辱に打ちひしがれて座り込むアルフォンスを残し、ジギフリットに視線で次の命令を与えた。
「地方官の身柄と、館内の全文書を確保しろ。そして、セシェスの全市民に、タズドットの支配は終わったと布告せよ。」
レイ将軍は、執務室の破壊された扉を後にした。彼の背後で、アルフォンス地方官の嗚咽が、敗北した植民地の墓標のように、静かに響き続けていた。
この戦いで勝利を掴んだのは、間違いなくレイ将軍率いるミケ軍だった。
だが――勝利の影に積み上がった犠牲は、誰よりも彼自身が知っている。
失われた仲間の名は、もう戻らない。
屍と化し、敵として牙を剥いたその姿を、戦場の炎は決して忘れない。
合理を選び、最適解を選び、勝利を選んだ。
だが、そこに救いはあったのか。
レイ自身、それを確かめる術は持たない。
タズドットの威信は崩れ、植民地支配は終焉へと転がり落ちた。
アルフォンス地方官が最後に見せたのは、権威が剥がれ落ちた者の生々しい弱さだった。
勝者は前へ進み、敗者は過去に縋りつく。
誰もが、自分の正しさを証明しようともがく。
それこそが、この世界の残酷な法則だ。
――だが、物語はここで終わらない。
レイ将軍の歩みは、まだ始まりにすぎない。
合理の名を掲げながらも、積み上がる喪失の重さは確かに彼の心を蝕んでいく。
彼がこの先、
どれほどの勝利を掴み、
どれほどの犠牲を抱え、
どれほどの「正しさ」を問われるのか。
その答えは、まだ誰にもわからない。
ただ一つ言えるのは――
この物語が描くのは、英雄譚ではなく、“代償”と“選択”の物語だということだ。




