第六十八話 地獄黎明
その日、世界は“静かに終わり”を告げた。
誰もが気づかぬうちに、運命の歯車は軋むように狂い出し、
セシェスの夜は、血と災厄を呼ぶ前兆に満ちていた。
黒い霧のような不吉な気配が街道を這い、
遠く離れた砦の兵でさえ、理由のわからない寒気に背筋を震わせた。
――だがそれは、ただの“前触れ”に過ぎなかった。
ミケ将軍率いる侵攻軍は、誰よりも静かに、誰よりも速く、
そして何よりも確実に“終末”を運んでくる。
夜明けは救いではない。
光は闇を払うものではなく、
《地獄が顔を出す時間帯》に過ぎないからだ。
やがて始まる戦いは、勝者にも敗者にも祝福を与えない。
崩れ落ちる砦、焼ける街、砕け散る悲鳴――
そのすべてを呑み込みながら、物語は加速していく。
絶望は、いつだって唐突で。
救いは、いつだって間に合わない。
それでも誰かは前に進もうとし、誰かは抗おうとし、
誰かはただ泣き叫びながら運命に飲まれる。
これは、そんな“壊れていく世界”のただ中で、
それでも足掻く者たちの記録。
――さあ、惨劇の幕を開けよう。
レイ将軍に率いられたミケ軍の全軍は、夜明け前の深遠な闇の中を、一団となって進んでいた。
冷たい夜の空気が、兵士たちの吐く息を白い霧に変え、それが進軍の軌跡を幽霊のように示していた。
地面は霜を含み、その上を何千もの馬の蹄と、重装歩兵のブーツが規則正しく踏み鳴らす音は、もはや自然の摂理を思わせる、止めようのない地の底の鼓動と化していた。
隊列の先頭、レイ将軍は、馬上で身動き一つしない。
彼の横顔は、夜の冷気の中でも熱を帯びた、冷徹な確信に満ちていた。
彼の隣のレナード大隊長は、静かに魔力弾の銃剣を握りしめ、いつでもその冷徹な決定力を発揮できるよう、精神を集中させていた。
彼らが目指すタズドットの植民地セシェスは、すぐ目の前、夜の闇に沈黙していた。
作戦の最も危険かつ華々しい役割、中枢への奇襲は、中央軍を率いるジギフリット副将軍に託された。
彼の部隊は、レイ将軍の全軍が側面で敵の軍事防衛線を釘付けにしている間に、セシェスの政治的、経済的な心臓部を最短距離で掌握する義務を負っていた。
ジギフリットの馬の鼻息は荒かった。彼は、セシェスの地方官邸に蓄えられた植民地時代の富、そしてこれを制圧することで得られる計り知れない功績に心を奪われていた。
「敵の軍事施設ではない!アルフォンス・ホーカンソン地方官の館へ、最短で突入せよ!タズドットの植民地支配の全ての証拠、そして何十年分もの植民地からの収奪物は、全てあの館にある!これは制圧ではない、強奪だ!我々の手で、勝利の報酬を掴み取れ!」
彼の命令は、兵士たちの間に金色の熱狂を呼び起こした。彼らは恐怖を忘れ、ただ富と名誉という目標へと突き進む、ミケ軍の教義を体現する、最も貪欲な部隊と化していた。
セシェス市街は、タズドットの威信という名の欺瞞的な平和に深く眠っていた。
地方官邸を取り囲む守備隊も、まさか開戦直後に本国から遠く離れたこの地に、ミケ将軍の精鋭が奇襲を仕掛けてくるとは夢にも思っていなかった。
彼らの油断と傲慢さこそが、ミケ軍にとって最大の戦略的な利点だった。
ジギフリットの部隊は、市街地の細い裏道を縫うように進み、地方官邸の厚い石壁と鉄の門扉の真下へと到達した。
門の警備兵は、わずかな物音に気づき、ようやく覚醒した。彼らが驚愕の声を上げようとした、その一瞬。
ドォォォォォン!ドドォォォォォン!
ジギフリットの命令により、最前線に配置された魔術師たちが、最大出力の破壊魔法を門扉へと一点集中して解き放った。
その轟音は、セシェス全域、そして周囲の山々にまで響き渡る雷鳴と化した。
門扉は、内部の蝶番と石壁の構造ごと、悲鳴を上げて砕け散り、爆風と破片が辺りに飛び散った。警備兵は、その衝撃波と熱風によって吹き飛ばされ、たちまち無力化された。
砕け散った門の向こう側、地方官邸の中庭は、瞬く間に混乱と恐怖のるつぼと化した。
寝間着姿で慌てて飛び出す官僚たち、何が起こったのか理解できずに狼狽する守備兵たち。
彼らの叫び声と、瓦礫が崩れる音が入り混じり、夜明け前の静寂は完全に打ち砕かれた。
ジギフリット副将軍は、馬を下りると、砕けた鉄の破片の上を獰猛な笑みと共に踏み越えた。
「怯むな!警備兵の排除は最小限で構わん!地方官アルフォンス・ホーカンソンを探し出せ!奴の首ではない、奴が持つセシェス全権限の文書と、金庫の鍵だ!」
彼の指揮の下、中央軍の精鋭たちは、地方官邸の複雑な構造をものともせず、最も重要な文書、通信設備、そして金庫が保管されているであろう中枢の部屋へと、容赦なく突き進んでいった。
セシェスへの攻撃は、軍事的な衝突であると同時に、タズドットの植民地支配という長年の秩序を、ミケ軍が暴力をもってわずか数時間で破壊しようとする、時代の転換点を象徴する出来事だった。
アルフォンス・ホーカンソン地方官の安穏な支配は、この地獄の夜明けと共に、終焉を迎えるのである。
――惨劇は終わった。
だが、終わったからといって救われた者など、一人としていない。
セシェスに落ちた炎は街だけを焼いたのではなく、
そこで暮らしていた人々の“時間”と“記憶”を灰に変えた。
ミケ軍は勝利を得たのかもしれない。
レイ将軍も、ジギフリットも、レナードも、
それぞれの役目を果たし、前へ進んだ。
だが――その過程で失われたものの重さを、
彼らはまだ知らない。
焼けた石畳は沈黙し、
吹き飛ばされた門の残骸には、まだ触れれば熱が残っている。
叫び声はもう消えたというのに、
耳の奥には、奇妙な残響だけが居座り続けていた。
“正しかったのか?”
“これで終わりなのか?”
“次は何を失う番なのか?”
答えは誰にもわからない。
わかるのは一つだけ――
これはまだ序章に過ぎないという、身の毛がよだつ真実だけだ。
勝者が笑う物語ではない。
敗者が報われる物語でもない。
ただ、壊れていく世界の上で、
それでも今日を生き延びた者たちが、
明日を選ばされ続けるだけ。
そして、ここで一度幕が下りるのは、
本当に“物語が終わったから”ではない。
――この先を読む覚悟が、まだ整っていない読者のためだ。
さあ、深呼吸をしよう。
次の話では、もっと深い闇が待っている。




