第六十四話 影蝕む軍旗
――この戦場では、生き残ることさえ、立派な“罪”になる。
敗北の気配が腐臭のように漂うタズドット王国。
その国境に位置するブヌ駐屯地は、もはや“前線”でも“要塞”でもない。
ただ静かに、そして確実に滅びへと沈みゆく舟だった。
そこで軍旗を守る二人の男――トマスとアンセルムは、
己の選択が、後に取り返しのつかない未来へと繋がることをまだ知らない。
希望はとうに尽き、誇りは風に散り、
残されたのは、戦士としての矜持か、それとも無力な自尊心か。
そして、彼らの知らぬところで“黒き風”がすでに吹き始めていた。
ミケ将軍率いる暴風が、タズドットの命脈を断ち切るために。
――これは、国が滅ぶ瞬間に立ち会った者たちの物語。
誰が抗い、誰が膝を折り、そして誰が地に伏したのか。
正義も悪も、理由も謝罪も、すべて炎の中で等しく焼け落ちていく。
逃げられない。
選べない。
それでも、踏み出すしかない。
なぜなら。
運命はいつだって、最悪の形で牙を剥くものだから。
タズドットのブヌ駐屯地の隅。
増援の到着と、ギーラピでの不穏な噂が交錯する緊張した空気の中、対照的な二人の大隊長が顔を合わせていた。
一人は、真面目一徹で黒髪のトマス・フェグレーン大隊長。
彼の瞳には、この戦乱期におけるタズドット軍の責任と、自らが負うべき防衛の義務が、重々しく宿っている。
もう一人は、豪華な軍服を優雅に着こなし、金髪を軽くかき上げたアンセルム・バリエンダール大隊長。
彼は、まるで戦場とは無縁の社交界のサロンにいるかのように、周囲の緊張感を完全に無視していた。
アンセルムの「今回はどうなってしまうのかなー」という呑気な独り言に対し、トマスは黒髪を振り、不快感を隠しながらも、タズドットの威信という名の「絶対の安全」を強調して答えた。
「何も起こるはずないだろ、アンセルム。何を不安がっているんだ」
トマスは、タズドットという大国の権威を疑うことを拒否していた。
それは彼にとって、この重圧に耐えるための唯一の精神的な拠り所だった。
「俺たちが任されたセシェスは、あのミケ軍のようなならず者どもの手に落ちるはずがない。このタズドットが万全の体制で守っているんだぞ。何も起こるわけがない!」
彼の言葉には、自らを鼓舞するような強い責任感が漲っていた。
しかし、アンセルム大隊長にとって、トマスの真面目な説教や責任感は、ただの退屈な騒音でしかなかった。
彼は、まるで上等な紅茶の味見をするかのように、喉の奥から含み笑いを漏らした。
「そうかー、おじさん、暇で暇で仕方ない」
金髪で、いかにもという感じで呑気そうで、やる気のなさそうな男。
アンセルムは、この戦乱の時代を、いかに楽に、いかに優雅にやり過ごすか、という点に知恵を絞っていた。
彼の「暇」という感覚は、戦争がもたらす全ての現実、危険、そして責任から目を逸らすための、彼独自の「現実逃避の盾」だった。
トマスは、その能天気すぎる発言に、堪えきれないほどの不快感を覚えた。
彼の脳裏には、連日報告されるミケ軍の精鋭たちの練度、そしてギーラピでの不穏な報告が渦巻いている。
この緊迫した局面で「暇」などという言葉は、軍人として、そして人間として、理解不能だった。
トマスは、アンセルムの優雅すぎる呑気さに、もはや説教や議論は無意味だと判断した。この男は、タズドットの威信や責任感といった高尚な概念では動かない。
「そうか。暇なら暇でいいんじゃないのか。私には、貴様の言う『暇』を享受するほどの余裕はない」
トマス大隊長は、アンセルム大隊長にうんざりするのだった。
彼の返答は、アンセルムという「不協和音」を、自分の視野から遮断するための、静かな決別だった。
ここにいるのは、「責任感と危機感」を共有する真面目な軍人と、「自己保身と現実逃避」を旨とする腐敗した貴族軍人という、タズドット軍の光と影そのものだった。
そして、ミケ軍の狂気が迫る中で、この「影」こそが、ブヌの防衛において、致命的な弱点となるだろう。
ここまで読んでくれて、ありがとう。
ブヌ駐屯地に漂う不穏の気配は、まだ“序章”にすぎない。
トマスの真面目さも、アンセルムの呑気さも、
どちらも、これから訪れる現実の重さを前にすれば滑稽ですらある。
――絶望は、いつも最初は静かにやってくる。
誰もが「大丈夫だ」と信じていた。
国が強いから。
味方が多いから。
歴史が証明してきたから。
そんな理由で、現実から目を逸らしていた。
でも、真実は残酷だ。
希望を信じるのは悪いことじゃない。
ただ、それが“逃避”に変わった瞬間、命取りになる。
トマスは責任に縛られ、
アンセルムは退屈に逃げ、
そしてミケ将軍の影は、誰も気づかぬまま近づいている。
次の一歩が、彼らを救うか、奈落へ突き落とすか。
それは、もう誰にも分からない。
――運命はいつだって残酷だ。
そして、残酷だからこそ目が離せない。
そんな世界を一緒に見届けてくれたら嬉しい。
また次の話で会おう。




