第六十三話 優雅なる無能
戦場というものは、往々にして理不尽で、残酷で、そして容赦がない。
だが――時に、本当に恐ろしいのは“剣”でも“炎”でもなく、
ただ一人の無自覚な人間がもたらす“ほころび”である。
この章で現れるアンセルム・バリエンダール大隊長は、
まさにその典型だ。
彼は剣を振るわずして戦場を壊し、
誰一人殺さなくても戦局を傾ける。
なぜなら彼は、
自分が破滅の引き金になっていることすら理解していないからだ。
リムリアの将たちが血を流し、
ミケ将軍が狂気の剣を掲げ、
ゲイブ大臣が冷徹に未来を読み、
レイ将軍が己の使命を燃やす中――
この男だけが、
まるで“戦争”そのものを、
自分とは無関係の物語のように眺めていた。
どうか、この章を読みながら忘れないでほしい。
戦場で最も恐ろしいのは、剣でも魔法でも怪物でもない。
──現実を見ない者だ。
タズドットの防衛線の中でも重要な拠点、ブヌ。
ミケ軍の急進により緊張が高まるこの地に、増援のアンセルム・バリエンダール大隊長が50名の兵を伴い到着した。
土埃を上げ、周囲の兵士たちが慌ただしく荷解きを始める中、アンセルムだけは、まるで避暑地の邸宅に到着したかのように優雅に馬を降りた。
彼は、ブヌの守備隊長が差し出した戦況報告書を一瞥することなく、むしろ自分の軍服の袖に付いたわずかな砂塵を払うことに集中した。
彼の身につける豪華な真紅の軍装は、戦場における機能性よりも、階級と身分を誇示するために仕立てられている。
「やれやれ、このブヌの守備隊は、私の到着を待ち望んでいたんだろうが、どうも空気が重いねぇ」
彼の口調は、まるで劇場で上演される戯曲の筋書きが気に入らないかのように、軽い不満を含んでいた。周囲の兵士が顔を引きつらせるほどの緊迫感を、彼は「不快な湿気」程度のものとして処理していた。
アンセルムの呑気さは、彼の現実認識の歪みから来ている。
彼は、ミケ将軍の狂気や、ギーラピでのフィリップ副将軍の悲劇的な敗北といった最悪の事態を、自分の社交界での地位を揺るがすことのない、遠い世界で起こっている「物語の展開」として捉えていた。
彼は、自分の高位な地位と階級が、戦場の不確実性から自分を永遠に守ってくれると、本気で信じていた。
彼は、駐屯地の指揮官に対し、戦術的な指示よりも、個人的な要求を優先した。
「ああ、まずは一杯上等な紅茶を用意してくれ。ここ最近は、行軍続きで上等な茶葉にありつけていない。それと、私のテントは、陽当たりと風通しの最も良い場所を確保してほしい。ブヌの湿気は、私の肌には合わないものでね」
彼の脳裏にあるのは、いかに快適な環境でこの戦争という「面倒事」をやり過ごすか、という点のみである。
彼は、兵士の配置図よりも、茶葉の産地に詳しい。
タズドット軍内の実力者、例えばヨアキム大将軍らがミケの武力に対抗するための知恵を絞っている最中に、彼は「優雅な逃避」という独自の哲学を実践していた。
そして、周囲の兵士たちの不安をよそに、アンセルムはまるで今日の天気を尋ねるかのような、軽い無責任さで、戦況の行方を口にした。
「今回はどうなってしまうのかなー」
この一言が持つ意味は重い。
それは、「この事態がどうなろうと、私自身が責任を負うつもりはない」という、彼の自己保身の決意の表れであった。
彼は、戦いが有利に進めば自分の手柄とし、不利になれば、すぐに逃走ルートを確保し、すべての責任を放棄したか、あるいはその場に残された他の指揮官に押し付けるだろう。
アンセルム大隊長のこの呑気な態度は、ミケ軍のレナード大隊長が持つ冷徹な合理性と非情な覚悟とは、まさに対極にある。
レナードが「勝利の最短距離」を追求する現代の軍人なら、アンセルムは、「不都合な現実から目を逸らす」という、平和な時代が生んだ腐敗した軍人の典型だった。
彼の到着は、ブヌの防衛力が単に50名増えたという事実以上に、その指揮系統に「決断力の欠如」という致命的な弱点が加わったことを意味していた。
ブヌという要衝は、アンセルム大隊長の「今回の結末はどうなるかな」という呑気な独り言の通り、すでに運命の賽子を振られていたのである。
最後まで読んでくれてありがとう。
アンセルム・バリエンダールという男が、
戦場にとってどれほど“静かな毒”であるか、
少しでも伝わったなら嬉しい。
ミケ将軍の狂気は理解できる。
ゲイブ大臣の冷徹さも、レイ将軍の覚悟も、
誰もが極限を生きる中で生まれた必然だ。
だがアンセルムだけは違う。
彼は“戦う気がない”のに戦場に立ち、
“責任を取る気がない”のに隊を率いる。
その無自覚さは、刃より鋭く、炎より危険だ。
彼の存在は、戦場の均衡をただ乱すだけでなく、
味方の心を静かに腐らせていく。
それは、派手な悲劇よりもタチが悪い、
じわり、じわりと侵食する絶望だ。
ただし、彼は勘違いしている。
戦場は、そんな甘えを優しく許す場所ではない。
彼の呑気な「今回はどうなるかなぁ」という独り言は、
やがて“本人の思いもしない形”で答えを返されるだろう。
それが救いになるのか、破滅になるのかは……
読んでくれたあなた自身の想像に任せたい。
戦場は、無知と傲慢に甘くはない。
ただ、それを悟る時はいつだって――
取り返しがつかない後だ。




