第五十四話 届かぬ騎士道
タズドットの領内からブヌへと向かう隠密の馬車隊。
その最後尾に近い一台の幌馬車の中は、太陽の光も届かぬ暗闇と、絶え間ない激しい揺れに支配されていた。
馬車の床には秘密の物資が積載され、その上には数名のタズドット兵が隠れて乗り込んでいた。彼らは、正規の護衛とは別の、侵攻作戦のための特殊任務を帯びた者たちだ。
緊張と、何より極度の乗り心地の悪さに、兵士の一人が我慢の限界を迎えた。
彼は、馬車の壁を叩き、外の御者に向かって苛立ちをぶつけた。
「我々タズドット兵が入っているのに、何でこんなに馬車の中が揺れるんだ!貴様、本当にわかってやっているんだろうな!」
声には、自分が秘密作戦の重要な一員であるという傲慢な自負と、不慣れな輸送任務への不満がにじんでいた。
もしこれが一般の荷馬車であれば、この揺れで積荷は破損していたかもしれない。
外の御者は、砂利道と泥濘の多い悪路を、何とか速度を落とさずに進もうと必死だった。
御者台の彼には、隠された荷の重さと、馬車の中に潜む兵士たちの神経質な空気が重くのしかかっていた。
「わかってやってますよ。ただ、馬車の操縦がそれぐらい難しいってことぐらいわかって欲しいものだが、世の中どうもそうはいかないらしい!」
御者は喉の奥で悪態を吐いた。彼にとって、これは金を稼ぐための危険な仕事に過ぎない。
しかし、この馬車が運んでいるのが、単なるガプペ連合の物資ではなく、実質ミケの領土であるバツネを攻撃するための大量の武器であるという事実は、彼を常に冷たい恐怖で支配していた。
馬車の中の苛立ちが頂点に達した、ちょうどその時。
露払い役として先行していたタズドットのフィリップ・フリーデン副将軍の部隊が、ギーラピの平野でミケ軍の斥候隊と遭遇した。
暗闇の中での遭遇は、一瞬で緊迫した戦場へと状況を転換させた。
レナード大隊長が率いるのは、ミケが鍛え上げた精鋭中の精鋭50名。
対するタズドット軍は、フィリップ副将軍の指揮下にある500名。
50対500。
この十倍もの圧倒的な兵力差は、通常の戦争であれば、ミケ軍の絶望的な敗北を意味する。
タズドット兵たちはその数の優位に安堵したが、ミケ軍の兵士たちは、その絶望的な状況を前に、むしろその瞳に狂気の炎を燃え上がらせた。
彼らは、恐怖ではなく、勝利がもたらすであろう莫大な褒賞しか見えていない。
そして、この血なまぐさい対峙こそが、ヨン・ビュールマン宰相の沈黙の後に、法的に成立した戦争状態を、生々しい現実の戦いへと引きずり下ろす、最初の、そして決定的な舞台となったのである。
平野に満ちる緊張感が、夜空の冷気をさらに鋭く研ぎ澄ませていった。
レナード大隊長が率いる50名の精鋭部隊は、敵による水の魔法の先制攻撃を受けながらも、一切の動揺を見せなかった。
彼らはミケ将軍の旗の下、非情な実戦主義を叩き込まれてきたが、レナード自身の中には、かつてリムリアに存在した古き騎士道精神の残滓が、奇妙な形で残っていた。
彼は、流血の前に交わすべき礼儀を忘れていなかった。
彼は剣を鞘に収めたまま、静かに部隊の魔術師に指示を出した。その声は低く、しかし夜の平野に響き渡った。
「いくら戦の前とは言えだ、まずは古式に則ってだ、魔法を放たなくちゃな。戦場での礼儀を、この軟弱なタズドットの連中に教えてやらねばなるまい」
レナードが指示したのは、数百年前に貴族同士の決闘や大会戦の開始時に行われた「開戦の狼煙」の儀礼だった。
これは、互いの武を認め、世界に対してこの地で公式に戦闘が始まったことを示す、名誉の合図である。
敵を直接狙うことはせず、ただ空に向けて派手な魔法を放つ。ミケ軍のテロリスト軍団の中にあって、この古い習慣は一種の異彩を放っていたが、それはレナードの譲れない武士の誇りだった。
彼の魔術師が、レナードの意図を正確に理解し、魔力を集中させた。地面の小石が浮き上がり、彼の周囲の空気が急速に加熱されていく。
そして、エネルギーが凝縮された炎の一撃が、夜空の頂点を目指して、轟音と共に放たれた。
ヒュンッ――ゴオォォッ!
上空遥か彼方で弾けた炎は、巨大な花火のような壮麗な光の華を咲かせ、漆黒の闇を一瞬にして鮮やかな朱色と金色に染め上げた。
炎の残光は長く尾を引き、ギーラピの平野全体を、まるで舞台照明のように幻想的に照らし出した。
その光が照らしたのは、レナード隊の小さな隊列と、対するタズドット軍500名の、緊張に引き攣った顔つきだった。
それは、血を流す前に交わされた、最初で最後の、そして一方的な「開戦の礼」だった。
しかし、タズドットのフィリップ・フリーデン副将軍にとって、その光は美しさどころか、ただの侮辱にしか映らなかった。
彼は平和な時代を過ごし、貴族的な儀礼よりも実利と保身を優先する現代的な軍人だった。
加えて、彼の心は、馬車の中に隠されたバツネ侵攻用の大量の武器が露呈するかもしれないという、極度の焦燥と恐怖に支配されていた。
「バカなのか、あのテロリストどもは!」
フィリップは絶叫した。彼は、この儀礼をミケ軍が数の劣勢を覆すための、稚拙な心理戦か、あるいは単なる計算ミスだと断定した。
古代の騎士道など、彼には理解不能だった。
「この僕たちを狙ってきているなら、あんなに大きく外している!あんな無駄な魔法を放つとは、我々500名を侮っている証拠だ!つまり、戦う気は満々ということか!我々をなめるな!」
フィリップの脳裏には、一刻も早くこの場を片付け、秘密の馬車隊を安全圏に運び去るという焦りしかなかった。
彼の激しい思い込みと、文化的な断絶が、事態を最悪の方向へ決定づけた。
「なら、ますますやってやろうじゃないか!奴らが後悔するほど、徹底的に叩き潰すぞ!この圧倒的な数の差を、その身に刻み込ませてやれ!」
フィリップの怒号は、タズドット兵たちを奮い立たせた。
彼らは、敵将が外した(と見える)魔法を野卑な嘲笑で迎え、自らの数の優位に酔いしれた。
「オオオォッ!殺せ!殲滅だ!」
地の底から響くような雄叫びを上げ、フィリップ副将軍は、500名の軍勢をまるで怒濤のように率いて突進を開始した。
レナード大隊長が開戦の礼を尽くした瞬間、タズドット軍はその礼を侮蔑と断じ、リムリアとタズドットの間の戦争は、誤認と激情という名の燃料を得て、本格的な血戦へと突き進んだのである。
夜明け前の闇が、彼らの狂気を深く飲み込んでいった。
50対500。絶望的な戦力差を前に、精鋭たちが狂喜する。
お話が溜まったので、明日からしばらくの間毎日13:00に投稿しようと思います。




