第九十八話 誇りを捧げて
――「誇り」を捨てて手に入れた命に、一体どれほどの価値があるのでしょうか。
「死んで名を残す」ことよりも、「無様に生きて国を繋ぐ」ことを選ばされる。
それは、真っ直ぐに剣を振るうことだけを信じてきた若き武人にとって、どんな拷問よりも残酷な、「心の去勢」に他なりませんでした。
ヨン宰相が差し出したのは、救いという名の毒杯です。
「国のために自分を殺せ」という、抗いようのない正論。
その言葉は、グルナル・ノイマンという一人の男を、輝かしい英雄候補から、ただの「動かない盾」へと作り変えてしまいました。
――熱き血潮は、凍りつき。
――武人の矜持は、沈黙の中に葬られる。
目の前に迫るのは、圧倒的な実利と合理を背負った、レイ将軍率いるリムリアの精鋭軍。
そして、その背後には、夜の闇で吸血鬼を狩り、昼は冷徹に国を動かすサバス大臣のような、底知れない怪物たちが控える大国。
五百の「誇りを捨てた軍勢」が、千五百の「情け容赦ない略奪者」を迎え撃つ。
勝つことは許されない。華々しく散ることも許されない。
ただ、泥を啜り、時間を稼ぎ、屈辱の雨に打たれ続けるだけの、あまりにも孤独な防衛戦。
さあ、始めましょうか。
「英雄」としての自分を自ら絞め殺した少年が、硝煙の巻く最前線で何を見るのか。
名誉なき戦いの火蓋が、今、最悪の形で切って落とされます。
ヨン宰相の「全てをタズドットのために投げ出す気はありませんか」という、優しげで、しかし冷酷な問いかけは、グルナル・ノイマン副将軍の魂を、極限の葛藤の深淵に突き落とした。
彼の周囲の空気は、彼の内面で渦巻く「名誉」と「国家」の衝突によって、張り詰めていた。
しばらく考え込んだ後に、グルナル副将軍は、深く、深く、息を吐いた。
それは、武人としての自己の全てを、胸の奥底に封じ込めるための、諦念と覚悟が混ざり合った吐息だった。
彼の黒髪の下の瞳は、もはや熱狂的な情熱の色ではなく、苦痛と、冷たい責任感の色を宿していた。
彼は、ゆっくりと顔を上げ、その場の全員が聞き取れる、しかし感情の抜けた声で、武人にとって最も重い言葉を口にするのだった。
「わかりました、ヨン宰相。」
彼の声は、「任務の遂行」という、鋼鉄のような決意を示していた。
「私は、タズドットのために、誇りを投げ出しましょう。」
この一言は、グルナルにとって、自分の過去の全てを否定し、武人としての魂を封印することを意味した。
彼は、レイ将軍の炎を恐れたのではなく、自分の個人的な感情が、国家の存続という絶対的な大義を破綻させることを恐れたのだ。
彼は、生きたまま、自らの名誉を国家に献上するという、最も苦渋に満ちた選択をしたのである。
グルナル副将軍の苦渋に満ちた承諾は、ヨン宰相にとって、外交戦略の実現に向けた最大の障害が取り除かれたことを意味した。
宰相は、グルナルが武人としての矜持を犠牲にして、国家の大義を選んだことに、心底から満足した。
ヨン宰相の顔には、優しげな瞳が浮かび、安堵の感情が滲み出ていた。
「わかってくれて何よりです、グルナル君。 貴殿の決断は、タズドットの未来を救う道を開いたのだ。」
宰相は、グルナルの肩に置いた手を強く握り、その自己犠牲を、最大限の言葉で称賛した。
「実に素晴らしい。 貴殿こそ、名誉ある死よりも、国家存続のための屈辱的な生を選んだ、真の英雄です。この偉業は、歴史の裏側で、永遠に語り継がれるだろう。」
ヨン宰相の称賛は、グルナルの捨て去った誇りに対する、せめてもの慰めであり、同時に、この非情な任務を遂行させるための、精神的な担保でもあった。
グルナルは、誇りを失った代わりに、「国家を救う」という、より大きな意味を、ヨン宰相から与えられたのだった。
グルナルの苦渋の決断により、タズドットの対ミケ軍戦略は、「武力による威信の回復」から、「持久戦による外交的解決」へと、完全に舵を切った。
そして、戦いの火蓋はこうして切られるのだった。
レイ将軍率いる「殲滅と制地権掌握」を至上とする1500名の冷酷な精鋭軍と、グルナル副将軍率いる「防御と戦力温存」を至上とする500名の、誇りを封印したタズドット軍。
これは、「泥臭い実利」と「名誉なき持久」という、二つの異質な合理性の衝突であり、武力による速攻と外交による遅延の、非情なる戦略戦の始まりだった。
グルナル副将軍は、自己の屈辱を胸に、タズドットの存続という、あまりにも重い使命を背負い、レイ将軍の炎が迫る最前線へと向かうのだった。
はい、というわけで!
皆さん、今回のグルナル君の決断……見ていて胸が締め付けられませんでしたか!?
「誇りを捨てて、国を救え」――。
これ、例えて言うなら、「自分の存在価値をゴミ捨て場に放り投げて、空っぽの器になれ」って言われているようなものですよ!
今回のエグいポイントは、何と言ってもヨン宰相の「慈愛の仮面を被った毒」です!
「わかってくれて何よりです」
「貴殿こそ、真の英雄だ」
いやあ、もう最高に悪趣味!(笑)
グルナル君の心をバキバキに叩き折った張本人が、最後に彼を「英雄」と呼んで肯定する。これって、グルナル君に「もう後戻りはさせないぞ」という呪いの言葉をかけているのと同じなんですよね。
誇りを失った代わりに、彼は「国家の存続」という、自分一人では抱えきれないほど重い鎖を首に巻かれてしまったわけです。
そして、物語はいよいよ次話へ!
ここからの対比がまた、残酷なまでに美しいんです。
レイ将軍の1500人の精鋭。「殲滅」という一点にのみ特化した、熱狂的な暴力の嵐。
タズドット軍の500人の敗残兵。「防御」という曖昧な目的。誇りを奪われ、死を待つような恐怖に震える羊の群れ。
戦う前から、もう勝負はついている。
でも、そんな絶望的な状況で、心を殺したグルナル君がどう立ち振る舞うのか。
「勝てばいい、でも負けてはいけない」という、挑戦に、彼はたった一人で挑もうとしています。
――誇りを捨てた者に、奇跡は微笑むのか。
――それとも、レイ将軍の炎が、その未練さえも焼き尽くすのか。
さて、次回。
ジギフリットの猛攻が、震えるタズドット軍を蹂躙します。
地鳴りのような進撃を前に、グルナル君が下す「最初の命令」とは……?
それでは、次話。
「勇気なき盾、あるいは絶望の産声」でお会いしましょう!




