第九十七話 沈黙の決断
――その掌の温もりは、どんな刃よりも冷たく、鋭く、少年の心を切り裂きました。
「英雄」なんて、聞こえのいい言葉に騙されてはいけません。
それは時として、誰かにとって都合のいい「生け贄」に付けられる、残酷な別名に過ぎないのですから。
目の前に提示されたのは、あまりにも不釣り合いな天秤。
片方には、若き武人がこれまで積み上げてきた「誇り」の全て。
もう片方には、見も知らぬ数百万の「民の命」という、拒絶することの許されない重すぎる大義。
老いた宰相は、優しく微笑みながら、その逃げ場のない檻の鍵を静かに閉ざします。
「君ならできるよね」――。
そんな慈愛に満ちた期待という名の呪いが、どんな罵倒よりも深く、グルナル・ノイマンという一人の人間を追い詰めていく。
「あんまりです」
その震える唇から漏れた悲鳴は、一体誰に向けられたものだったのでしょうか。
自分の無力さか。冷徹な世界か。それとも、正しさを武器に自分を壊しに来る、目の前の老人か。
誇りを捨てて、盾になれ。
心を殺して、国を救え。
これは、名誉ある死すら奪われた若者が、生きたまま「誇りの死体」へと変わり果てる、魂の処刑記録。
さあ、始めましょうか。
一人の人間が、その最も尊いものを「正義」という名の祭壇に捧げる、残酷で、あまりにも静かな崩壊の物語を。
「誇りが守られませぬ」というグルナル・ノイマンの悲痛な叫びに対し、ヨン宰相は、もはや峻烈な理を説くことはしなかった。代わって彼が用いたのは、慈愛の衣をまとった、人生で最も重き「問い」であった。
宰相は、グルナルの武人としての純潔なる精神を尊びつつ、それを国家という名の重き枷に変えんとしたのである。
ヨンは静かに歩み寄り、グルナルの肩にそっと掌を置いた。その眼差しは、あたかも若き将の五臓六腑を分かつ苦悶を、すべて自らのこととして受け止めるかのように穏やかであった。
「グルナル君。貴殿の誇りが、いかに清冽で、尊いものであるか、このヨンが知らぬはずもありません。……しかし、貴殿の一身の名誉と、数百万におよぶタズドットの民の命を、あえて同じ秤に載せねばならぬ。この国の息吹きを繋ぐため、黄金同盟という未来を掴むため。貴殿個人の武勲、名誉、その一切を、タズドットという器のために投げ出す。それほどの度量は、ありませぬか」
それは命令ですらなかった。国家への殉難を、一人の人間の精神に問うたのである。ヨンは「屈辱」という言葉を、「英雄的な自己犠牲」という大義へ昇華させることで、グルナルに最後の決断を迫った。
「タズドットのため」という一言は、グルナルの胸中にある祖国への至誠を直撃した。彼は、己の情念と国家の安危という、相容れぬ二律背反の狭間に立ち、全身を激しく震わせた。
「タズドットの、ために……」
その声は、かすかな呻きとなって漏れた。内面では、二つの魂が火花を散らしている。
武の本能が、耳元で毒を吐く。目前の敵を逃し、背を丸めて時を稼ぐは、武夫にとって死よりも重い卑怯ではないか、と。この任務に従えば、己の魂は不名誉という泥に沈み、永遠に死ぬことになろう。
一方で、民への忠が囁く。一時の情動に駆られて玉砕すれば、それは英雄の死ではなく、国を滅ぼす大罪である、と。己の死は、国家の最後の希望を摘み取る愚行に他ならない。
グルナルは冷汗を流し、拳を白くなるまで握りしめた。宰相の穏やかな問いは、今や冷徹な鎖となって彼の四肢を縛りつけている。
「しかし……あんまりです」
その言葉には、一人の人間が背負うにはあまりに重すぎる、運命への慟哭が込められていた。
それは、誇りを捨てねばならぬ非情さへの抗議であり、国家を救う代償として自らの魂を差し出さねばならぬ、残酷な神事への悲鳴でもあった。
グルナルは頭を垂れ、深く俯いた。
若き黒髪が、国家の重みに耐えかねるかのように揺れている。
名誉を選べば、炎の中に英雄として散るだろうが、国もまた潰える。
大義を選べば、不名誉な敗北者として歴史の闇に沈むだろうが、国はあるいは救われる。
広間の静寂の中で、列席した者たちは、一人の若者の魂が磨り潰される様を息を殺して見守った。ヨン宰相もまた、もはや言葉を重ねなかった。国家の興亡が、今や一人の武人の「忍」の一字に委ねられていることを、誰よりも深く理解していたからである。
この沈黙の重さこそが、タズドットという国の命脈そのものであった。
はい、というわけで!
皆さん、今回のヨン宰相の「追い込み」……いえ、「慈愛」に満ちた説得、見ていて背筋が凍りませんでしたか!?
これぞ「最も逃げ場のない地獄」の作り方ですよ!
もし宰相が「黙って命令に従え!」と怒鳴りつけていたら、グルナル君も反発できたはずなんです。でも、宰相が選んだのは、そっと肩に手を置いて「君の誇りは尊い。でも、国民の命とどっちが大事かな?」と微笑みかけること。
これ、善意を武器にした「精神的な絞首刑」に他なりません。
今回の最大の悲鳴ポイントは、やっぱりここですよね。
「あんまりです。」
この一言に、彼の武人としての人生、信じてきた価値観、そして「自分という人間」が崩壊していく音が全部詰まっていました。
自分の誇りを守れば国が滅びる。国を救えば自分(魂)が死ぬ。
どちらを選んでも地獄の二択。
そしてグルナル君は、自分の心を殺して「国を救うための泥」を啜る道を選びました。
ここで面白いのが、彼を追い詰めた宰相が、最後に彼を「真の英雄」と称賛すること。
自分の魂を殺した張本人に「素晴らしい」と褒められる。これほど皮肉で、これほど乾いた称賛があるでしょうか。
――誇りを捨てて、盾になる。
――英雄と呼ばれながら、心は死体になる。
そんな「魂の抜け殻」のようになったグルナル君が、いよいよあの「合理性の塊」であるレイ将軍と対峙します。
1500人の冷酷な精鋭 vs 誇りを封印した500人の盾。
もはやこれは戦いではなく、「どちらが先に心を壊すか」のチキンレースなのかもしれません!
さて、次回。
ついに決断が迫られる次話。
名誉なき防衛戦か名誉ある突撃の二択を決める時。
皆さんも、グルナル君の折れた心と一緒に、会議へ向かいましょう!
それでは、次話。
「ヨン宰相の合理性」が熱烈する会議でお会いしましょう!




