第九十四話 戦わずして終わらせる戦
――「正しさ」とは、時として、毒よりも深く心を蝕むものです。
目の前に突きつけられた、残酷なまでの『生存戦略』。
それは、武人としての誇りを泥に塗れさせ、魂の輝きを効率という名の闇で塗り潰す、冷徹な理性の産物でした。
ヨン宰相が提示した『黄金同盟』という名の希望。
それは自国の剣を捨て、他者の慈悲を――否、他者の『打算』を買い叩くための、究極の他力本願。
勝たなくていい。戦わなくていい。ただ、無様に耐え、時を稼ぎ、他人が血を流すのを待てばいい。
若き副将軍グルナル・ノイマンにとって、その言葉はどんな罵倒よりも鋭く、彼の心臓を抉りました。
熱い血潮が「否」と叫び、武人の矜持が「戦え」と命じる。
けれど、彼の優れた知性は分かってしまったのです。老いた狸の描くその絵図こそが、滅びへと向かうこの国に残された、唯一の細い蜘蛛の糸であることを。
プライドを殺して、国を生かすか。
国を殺して、誇り高く散るか。
選べるはずのない二択を前に、若き将が下した、あまりにも苦い『決断』。
さあ、始めましょうか。
熱い魂が冷たい理性によって窒息させられ、戦場が『外交』という名の醜い取引場へと変わっていく、その幕開けを。
グルナル・ノイマンの胸中に渦巻くのは、武人としての烈火のごとき情熱と、目前の危急に対する峻烈な疑念であった。
「黄金同盟という名の実なき虚像に、何が期待できようか」
若き副将軍のその問いを、ヨン宰相は静かに受け止めた。彼は慌てず、また声を荒らげることもなく、自らが練り上げた「非戦闘による国家存続」という、氷のごとく冷徹な経綸を説き始めた。
ヨンにとって、この戦略は単なる逃避ではない。ミケ軍が振るう非情な合理の刃から、タズドットという器を守り抜くための、最も洗練された防御の形であった。
「グルナル君。同盟が動かぬことを危惧するのは、理である。しかし、動かぬ同盟を動かすことこそが、我らの戦なのだ。武をもって勝とうとすれば、それこそレイ将軍が敷いた土俵に、自ら飛び込むに等しい」
ヨンは、卓上の地図の一点を見据えた。
「我らが採るべきは、持久という名の戦いである」
その持久戦は、単なる消耗を意味しない。戦力を一滴たりとも無駄にせず、その芯を温存することを至上命題とする、戦略的な受動であった。
「敵の攻勢に対し、盾を掲げるに留めよ。全力を出さず、さりとて崩れず。ミケ軍に『容易には落ちぬが、決定的な勝機も掴めぬ』という、最も忌まわしき停滞を強いるのだ。その停滞こそが、隣国を動かす火種となる」
ヨンの眼光は、はるか国境を越え、サイカルネ、シール、キマイラといった大国たちの思惑を射抜いていた。介入を「乞う」のではない。介入せねばならぬ「必然」を、彼らの懐に放り込むのである。
「リムリアという野獣がタズドットの資源を食らい、その牙を研ぎ終えれば、次なる獲物は彼ら自身だ。我らが持ちこたえるほどに、彼らの恐怖は膨らみ、自国の利を守るために軍を動かさざるを得なくなる。我が兵が血を流す代わりに、同盟の武威をミケ軍にぶつけるのだ」
そして、ヨンは最後の一手を口にした。
「同盟の圧力が極限に達した時、我らは講和の席に着く。レイとて、大陸全土を敵に回す愚は犯さぬ。戦わずに、戦を終わらせるのだ」
その言葉は、グルナルの武人としての矜持を激しく削り取った。「戦わずして終わる」道は、彼が尊ぶべき名誉の対極にある。
だが、彼の若き血潮の奥にある冷静な知性は、この老宰相の論理が持つ圧倒的な正しさを拒みきれなかった。
――武の本能が、叫ぶ。敵を前に剣を振るわぬは、士道を捨てるに等しき名折れである、と。
――知の分析が、囁く。正面から挑めば必ずや潰える。国を存えさせる唯一の理は、この老いた狸が描く絵図の中にしかない、と。
グルナルの額を、一筋の冷汗が伝った。
彼は深く、長く目を閉じ、自らの誇りを国家の実存という大義の供物とした。それは、武人として死ぬことよりも、ある意味で過酷な決断であった。
「……なるほど。それならば、勝たずとも良いのかもしれません」
その声に、もはや迷いはない。あったのは、自らの感情を理性の枷で繋ぎ止めた、苦渋に満ちた受容であった。
こうして、タズドットの運命は、一人の若武者の屈辱的な納得を経て、ヨン宰相が描く巨大な外交の渦中へと身を投じていくのであった。
はい、というわけで!
皆さん、今回のグルナル君の表情、見ましたか!? あの、一筋の冷や汗を流しながら、自分の魂とも言える「誇り」をゴミ箱に捨てる決断をした瞬間の顔!
いやあ、もう最高ですね! 「正しいけれど、死ぬほどやりたくない選択」を突きつけられて、それでも知性が「それしか道はない」と囁いてくる。これこそがこの作品の逃げ場のない絶望の味ですよ!
今回の見どころは、なんといってもヨン宰相の「大人の汚さ」です。
「勝たなくていい」――。
武人にとって、これほど残酷な言葉があるでしょうか? 今まで積み上げてきた修練も、部下たちとの絆も、全部「他国を動かすための時間稼ぎのチップ」として扱われる。ヨン宰相は、グルナル君を将軍としてではなく、「高性能な防波堤」としてしか見ていないわけです。
グルナル君も、馬鹿なら「うるせえ! 俺は戦うぞ!」で済んだのに、下手に頭が良いから分かっちゃうんですよね。ヨン宰相の描く「黄金同盟」という名の蜘蛛の糸が、どれほど細く、そしてどれほど唯一無二の希望であるかを。
誇り高く死ぬ美学を捨てて、泥水をすする生存を選んだグルナル君。
でもね、皆さん。この作品を読んでる皆さんなら分かりますよね?
「心を殺して選んだ道」が、そう簡単に報われるはずがないってことに!(笑)
ヨン宰相の完璧な計算式。
グルナル君の血を吐くような納得。
この二つが合わさった時、タズドットという国は「戦う意志を持たない、ただの巨大な肉塊」へと変貌してしまいました。そんな隙だらけの獲物を、あのレイ将軍が見逃してくれるでしょうか?
――理性が勝って、心が死んだ。
その後に残るのは、さらなる「地獄の二択」だけなんです。
さて、次回。
「守るだけで戦うな」という、武人への死刑宣告とも言える命令。
誇りをボロボロにされたグルナル君が、戦場で自分の存在意義を完全に見失う次話。
皆さんも、胃薬を片手にお待ちください!
それでは、次話。
「誇りが守られない」地獄の始まりでお会いしましょう!




