第九十三話 黄金の名を持つ逃避
――「希望」という名の毒杯を、人はこれほどまでに甘美に飲み干せるものなのでしょうか。
迫りくる破滅。背後に迫る死神の足音。
それらを一瞬で忘れさせてくれる魔法の言葉。それが、タズドットの命運を握る老人、ヨン宰相が提示した『黄金同盟』という名の甘い幻想でした。
強大な隣国たちが、自分たちのために血を流してくれる。
自分たちは傷つかず、ただ時を稼ぎさえすれば、他人の武力が窮地を救ってくれる。
それは、死地を這いずる者にとって、あまりにも都合が良く、あまりにも残酷な救済。
ですが、戦場の土の匂いを知る若き将、グルナル・ノイマンだけは、その「黄金」の輝きの裏に隠された、真っ黒な『打算』の正体に気づいていました。
差し伸べられた手は、助けるための手なのか。それとも、沈みゆく船から積荷を奪うための手なのか。
戦意を失い、誇りを捨て、ただ他人の情けを乞うだけの国に、一体誰が命を懸けるというのか。
「外交」という名の盤面の上で踊る宰相と、現実という名の泥沼で藻掻く将。
二人の間に生じた亀裂は、もはやレイ将軍の知略を待たずとも、この国を内側から崩壊させるに十分な深さに達していました。
さあ、始めましょうか。
「救い」と信じたものが、最悪の形で裏切られるまでのカウントダウンを。
――黄金の夢が、赤黒い現実に塗り潰される、その前奏曲を。
ミケ軍の冷酷な殲滅戦略と、それに伴うタズドット軍の崩壊という厳しい現実を前に、ヨン宰相は、若きグルナル・ノイマン副将軍の熱情的な反発(「勝たなくてどうするんですか!」)に対し、最後の、そして最大の切り札を提示した。
ヨン宰相は、グルナルの焦燥と怒りを静かに見つめながら、口元に冷徹な自信を滲ませた微笑みを浮かべた。
彼の自信は、戦場の武力ではなく、政治と外交という、彼が得意とする分野に基づいていた。彼は、机上の世界地図に視線を送り、静かに語りかけた。
「グルナル君。貴殿の焦りは理解できる。戦場で血を流すことこそが武人の誉れだ。しかし、この戦いは、もはや局地的な武力戦ではない。これは、国家の存続を賭けた、資源と外交の総力戦なのだ。」
そして、彼は、まるで手の内の石を見せるかのように、静かに、そして高らかに、その切り札を宣言した。
「ふっふっふ、グルナル君。大丈夫です。 私がなぜ、貴殿に『今、勝つ必要はない』と断言するのか。」
「黄金同盟があります。」
彼の声は、敗北主義の空気に満ちていた執務室の中で、一瞬にして希望の光を灯すかのように響き渡った。
ヨン宰相にとって、「黄金同盟」とは、タズドットの命運を武人の血に委ねるのではなく、より強大な国際的な力によってミケ軍の侵略を押し止めるための、最も合理的で安全な保険だった。
彼は、タズドットの兵士を無駄死にさせることを、国家資源の浪費と見なしていた。
ヨン宰相は、焦るグルナルに対し、「黄金同盟」が果たすべき役割を、さらに具体的に説明した。彼の論理は、徹底した実利主義に基づいていた。
「グルナル君。黄金同盟は、サイカルネ、シール、キマイラといった主要な大国を含む、大陸の軍事バランスを維持するための条約です。この同盟の存在意義は、特定の一国が、あまりにも強大になりすぎることを防ぐことにあります。」
「我々が今、ミケ軍と正面衝突し、ボントゥス軍のように無駄に玉砕すれば、同盟諸国は『タズドットは自滅した』と判断し、『介入の利益がない』として、援助を諦めてしまうでしょう。なぜなら、自己の利益を優先するのが、国際社会の鉄則だからだ。」
ヨン宰相は、机を軽く叩いた。
「しかし、我々が徹底的に消耗を避け、時間を稼げば、どうなるか。彼らは、ミケ軍がタズドット全土、そしてその資源を掌握するという最悪のシナリオを恐れ、必ずや軍事的な介入を決断するでしょう。彼らはリムリアの勢力拡大を絶対に許さない。 我々は、自国の兵の命を懸ける必要はない。敵を撃破しなくても、同盟がミケ軍を撃破してくれるのです。」
ヨン宰相の戦略は、タズドットの国土を「時間稼ぎのための盾」とし、外交圧力という名の他国の武力を利用するという、徹底した実利主義と他国依存に基づいていた。
しかし、ヨン宰相の「黄金同盟万能論」は、前線の現実を知るグルナル副将軍の武人の感覚とは、激しく衝突した。
彼は、政治家特有の楽観論が、戦場を支配する「勢い」という現実を無視しているように感じた。
「黄金同盟だって?黄金同盟があるからどうなんだっていうんだ!」
グルナルの声は、怒りというよりも、切迫した現実への焦燥からくる悲痛な叫びに近かった。彼の黒髪は、その激情のあまり揺れていた。
「宰相!同盟が動くのを待っている間に、ミケ軍はセシェスで既に制地権の掌握を始めています!彼らは、資源と奴隷を奪い、国力を増している! 我々が戦意を失い、逃亡する姿を見せ続ければ、同盟は、『この国は助ける価値がない、ミケ軍が勝つのは時間の問題だ』と判断するに決まっています!」
グルナルは、外交というものが持つ冷酷な現実を指摘した。
「武力で威信を示さなければ、外交など、何の効力も持たないでしょう! 助けを請うだけの国に、誰も命を懸けて援軍を送ったりはしない!その『時間稼ぎ』の間に、レイ将軍は首都への道を固め、我々は包囲されてしまう! 宰相の戦略は、侵略の完成のための猶予を与えているに過ぎません!」
グルナルの瞳には、「外交」という名の幻想にすがるヨン宰相への深い不信感と、祖国の滅亡への現実的な危機感が入り混じっていた。
タズドットの運命は、戦場で流される血ではなく、首都の会議室での「現実逃避」によって、より一層危険な方向へと傾き始めていたのである。
はい、というわけで!
皆さん、今回のタズドット本陣でのやり取り、見ていて胃がキリキリしませんでしたか? 作者は書いていて最高に楽しかったです(笑)。
今回の注目ポイントは、なんといっても「相容れない二つの正論」です。
まずは我らが狸親父、ヨン宰相!
出ましたね、「黄金同盟」という名のマジックワード。
「自分たちは戦わなくていい、他人が助けてくれるから」……。これ、一見すると最高に甘い誘惑ですが、メタ的な視点で見ると「最も生存率が低い、破滅への特急券」にしか見えないのが恐ろしいところです。
彼は「実利」の化身です。兵士の命を「資源」と呼び、誇りを「浪費」と切り捨てる。冷徹なリアリストとしての彼の顔、ゾクゾクしませんか?
対するは、黒髪の熱血漢、グルナル・ノイマン君!
彼の叫びは、まさに「現場の悲鳴」そのもの。
「助けを請うだけの国に、誰も命を懸けたりしない!」――。
これ、本当にもう、ぐうの音も出ない正論なんですよ。外交なんていうのは、自分の手に武器を持って、初めて成立する対等な対話。武器を捨てて「助けて」と言うのは、それは外交じゃなくて「物乞い」ですからね。
「希望を語る冷徹な老人」と、「現実を語る熱い若者」。
この二人の対立って、実はどっちも「国を救いたい」という一点では同じなんですよ。
同じゴールを目指しているのに、見ている景色が違いすぎて、言葉を交わすほどに心の距離が離れていく。……あぁ、なんて残酷な「すれ違い」の美学!
ヨン宰相が信じる「黄金の盾」は、本当にミケ軍の猛攻を止めてくれるのか。
それとも、グルナル君が危惧するように、同盟が来る前にタズドットという国が「美味しく調理」されて終わってしまうのか。
――「大丈夫です」と微笑む宰相の瞳が、一番大丈夫そうに見えない。
そんな不穏な空気の中、いよいよ物語は「戦わないための戦い」という、矛盾に満ちた泥沼へと突き進んでいきます。
皆さんも、グルナル君と一緒に「本当にこれでいいのか……?」と頭を抱えながら、次なる絶望をお待ちください!
それでは、次話。
「理性に殺されるプライド」の回でお会いしましょう!




