第九十二話 勝たねばならぬ者と、勝ってはならぬ者
――『救国』という美名の下で、人はかくも容易くすれ違うものです。
セシェスの地で吹き荒れた暴力の嵐。その余波は、物理的な距離を超え、タズドットの心臓たる王都にも、冷たく重い影を落としていました。
敗北の報せとは、往々にして毒よりも速く回り、病魔よりも深く人の心を蝕む劇薬です。
宰相ヨンが飲み干そうとしたのは、生き残るための「屈辱」という名の苦い薬。
対して、若き副将軍グルナルが求めたのは、命を燃やして暗闇を照らす「名誉」という名の烈火。
どちらも国を想い、どちらも民を憂いている。
だというのに、彼らの言葉は決して交わらず、噛み合わない歯車のように、ただ耳障りな軋みを上げて火花を散らすだけ。
外には、感情を持たぬ怪物のようなミケ軍が、虎視眈々と次の喉笛を狙っているというのに。
内側では、守るべき者同士が互いの信念を刃として突きつけ合う。
ああ、なんと嘆かわしく、なんと滑稽な喜劇でしょうか。
最強の敵を前にして、最も警戒すべき亀裂が、自らの足元からピキリと音を立てて広がり始めたのですから。
――破滅への秒読みは、敵の軍靴の音ではなく、味方の怒号と共に刻まれ始めます。
それでは、タズドット崩壊の第二幕。
まずは、決して交わることのない「正義」の衝突から、始めていくとしましょうか。
ミケの軍がセシェスの土を蹂躙し、その地より滴る富を貪欲に啜り始めた頃。遥か後方に位置するタズドットの王都では、重苦しい静寂が城壁の奥深くまで浸透していた。
宰相ヨンの執務室に漂うのは、敗戦の報がもたらした暗澹たる死気である。窓外の陽光さえも、この部屋の影を払うには至らぬ。
ヨンという男は、タズドットにあって、外交と実利という天秤を最も高く掲げてきた指導者であった。
それゆえ、彼と同じく外交の理を説いたボントゥスの潰走は、単なる一軍の喪失に留まらぬ。
それは、彼が築き上げてきた「条理ある世界」が、ミケ軍の「非情なる合理」によって根底から覆されたことを意味していた。
敵は、旧来の名誉という名の殻を脱ぎ捨て、勝利という名の実を喰らう怪物である。ヨンはその事実を、誰よりも速やかに、そして苦渋を伴って覚悟した。
彼は、集った将校たちの顔ぶれを静かに検分した。そのなかに、一人の若武者の姿があった。副将軍グルナル・ノイマンである。その黒髪は夜の闇のように深く、瞳には若き才覚特有の火が宿っていた。
ヨンは、その情熱という名の「毒」を、自らの言葉をもって鎮めんと試みた。
「グルナル副将軍。現状を直視していただきたい。ミケ軍の真意は、短期の決戦による勇名の轟きにはない。彼らが求めているのは『制地権の掌握』――すなわち、我が国の資源と民を余すところなく簒奪し、タズドットの国脈を根絶やしにすることだ」
ヨンの眼光は、はるか戦野の彼方を見据えていた。彼は、国家の威信という飾りのために、国家の実存という器を壊すことを何より忌んだ。
「よいか、グルナル君。此度の戦、我々は、そこまでして勝つ必要はないのだ」
その言葉は、武人の矜持を重んじるタズドットの伝統にあっては、耳を疑うべき異端の説であった。玉砕の美学に殉じ、死して名を残すことを尊しとする者たちにとって、それは魂への侮辱にも等しい。
「正面から激突すれば、いたずらに精鋭を失うのみだ。敵はマルクという将の死すら、士気を高めるための乾いた薪としてくべる冷酷な徒よ。我らが成すべきは流血を厭い、時を稼ぎ、外交の糸を紡ぎ直すことにある。『不戦』という名の盾こそが、今や最大の防御となり得るのだ」
だが、老練な宰相の説く「勝たぬ戦略」は、若きグルナルの熱き血潮を、氷を注ぐが如くに逆撫でした。
グルナルにとって、セシェスの惨敗は雪ぐべき汚名であり、自らが前線に立って敵の首を挙げることこそが、天から授かった武人の天命に他ならなかった。
グルナルは、会議室を満たす冷たい沈黙を、自らの叫びによって引き裂いた。その瞳には、情熱という名の火炎が燃え盛っていた。
「宰相! そのようなこと、誰が判ずるというのですか! 我らが一歩も引かぬ剛毅を示してこそ、ミケ軍も交渉の席に着くというもの。勝たずして、何をもって国を守るというのか。武人が戦場へ向かうは、ただ勝利の一点のためではありませんか!」
その声には、純粋な闘志と、安易に妥協を求める策謀への激しい嫌悪が混じっていた。
「宰相は、あの大戦で無様に散ったボントゥス副将軍の轍を踏まれるおつもりか。逃亡を良しとしたからこそ、彼はすべてを失うた。我らが弱きを見せれば、ミケ軍の驕りは止まらず、ついにはこの王都までもが炎に包まれましょう!」
グルナルの焦燥は、戦場を支配する「勢」という、理屈では捉えきれぬ魔物の正体を本能的に悟っていたからこそのものであった。
ヨンとグルナル。一方は「実利」と「外交」の糸を操り、時を味方につけようとする静かなる長期の計。他方は「名誉」と「矜持」を盾に、敵の勢いを正面から押し留めんとする烈々たる武人哲学。
ヨンは若き情熱を国家を損なう浪費と見なし、グルナルは老いた知略を国を売る敗北主義と蔑んだ。
ミケ軍という外憂は、図らずもタズドットの内に、修復しがたき裂け目を作ったのである。
国家の命運は、外敵の武威のみならず、この内なる思想の相克によって、いっそう昏い霧の中へと迷い込んでいくのであった。
はい、というわけで!
皆さん、大好物ですよね? 「迫りくる最強の敵を前に、味方同士が決定的な亀裂を生む瞬間」ってやつが!
いやあ、書いている作者としてはもう、ニヤニヤが止まりません。
外にはレイ将軍という「話の通じない合理性の化け物」がいる。それだけで詰んでいるのに、中で舵取りをする人間たちが、右と左で全く逆の方向を指差して叫び合っているんですから。
今回の主役は、ヨン宰相とグルナル副将軍の二人です。
ヨン宰相の言い分、痛いほど分かりますよね。「勝たなくていい、生き残ればいい」。
これは大人の理屈です。
プライドなんて犬に食わせて、泥水をすすってでも国という形を残そうとする。ある意味、彼もまた必死に戦っているんです。
ですが! それを許さないのが若さの特権、グルナル・ノイマン君ですよ!
「勝たなくて、どうするんですか! 武人が戦場に出るのは、勝つためでしょう!」
ああ、なんて眩しく、なんて「死亡フラグ」に満ちた正論なんでしょうか!
彼は間違っていないんです。少年漫画なら彼が主人公で、その熱い魂で奇跡を起こして逆転勝利する流れです。
……でも残念、相手はミケ軍でした!
この物語において「情熱」や「勢い」といった不確定要素は、レイ将軍の計算機の前ではただの「ノイズ」として処理されてしまうのです。
「実利」を取るか、「名誉」を取るか。
本来なら時間をかけて議論すべきテーマですが、悲しいことに彼らにはもう時間がありません。
ヨン宰相の冷徹なブレーキと、グルナル君の踏み込んだアクセル。同時に作動したタズドットという車は、一体どこへ向かってスピンしていくのか。
答えは一つ。「自滅」という名の崖下ですね(笑)。
さて、次回。
上司の命令に納得できないグルナル君が、その有り余る「若さ」と「正義感」をどこへぶつけるのか。
そして、そんな彼らの内輪揉めなど知らぬ存ぜぬで、レイ将軍がどのような「無慈悲な行政」を押し付けてくるのか。
――すれ違いの果てに待つのは、涙か血か。
タズドットの終わりの始まりを、皆さんもハンカチ(あるいは遺書)を用意してお待ちください!
それでは、次話。
「無駄死に」という言葉が一番似合う戦場でお会いしましょう!




