7.ミヤコワスレ
ナタリーが冥府へ行ってから、十年の月日が流れた。娘たちはすくすく育ち、三歳だったクリスタは十三になった。本が大好きな美人で賢い子だ。母のナタリーと同じ文官になるのが夢らしい。
一歳だったフランカは十一になって、父について店を手伝うようになった。可愛らしくてお姉ちゃんが大好きな甘えたがり。でも実は姉のクリスタより肝が据わっているかもしれない。愛嬌があってしたたかな、店の看板娘である。
アンリは今日も朝早く起き、花の世話をして店の準備をし、朝ご飯の支度を始めた。
今日のメニューは朝からガッツリ生姜焼きだ。シャキシャキのキャベツを千切りにして、どどんと生姜焼きをのせる。湯気を立てている野菜たっぷりのスープは丸い器に、炊きたてつやつやのご飯はお茶碗によそる。クリスタとフランカも大好物なアンリの生姜焼き。一番多いお皿はナタリーの写真の前に供えた。
水を入れた花瓶には、今朝咲いていたミヤコワスレ。花言葉は……
「お父さんおはよう。これ、ありがとう。お母さんにお供えできたの?」
クリスタだ。昨夜アンリが差し入れたホットミルクのカップを流しにおいて、手早く洗っている。
ナタリー譲りの蜂蜜色の髪を背に流し、眠たそうにあくびをする。ナタリーが使っていたピアスが、今はクリスタの耳に光っている。来春、学園の入試試験を控えている目下受験生。勉強中だ。昨日も遅くまで部屋の電気がついていた。
五年前に戴冠式を済ませた王は今日もまた安定した治世を敷いている。王女も顔役として無事に成長し、先日大国への輿入れが決まった。女官の試験は滞りなく行われそうである。
「ああ、一等多いやつをね。母さんは食いしん坊だからなあ」
「それ、お母さん絶対『心外よ』って顔してると思う」
「あー……。かもねぇ」
「フランカは?」
「まだ寝てるんじゃない? あとで起こしてきてあげて」
「ほーい」
アンリが切ったトマトを一つつまみ食いして、クリスタは三人分の生姜焼きの皿を食卓に運んでいく。
「おはよぉ~」
今度はフランカが来た。長い黒髪を一つにくくり、ナタリーが着ていたエプロンを着て園芸用の鋏を握っている。
「ああ、おはようフランカ。ん? 花の水切り、やってくれてたの? ありがとう」
「あ、うん。今終わったとこ。手洗うね」
じゃぶじゃぶと手に付いた泥を丁寧に落としたフランカは、水切り籠に置かれたマグカップを見つけたらしい。
「あれ、お姉ちゃん起きてたんだ。昨日ずいぶん遅くまで勉強してたのに」
「さっき生姜焼きの皿を運んで行ったよ。フランカ起こしてって言っちゃったから今フランカの部屋かも」
「はいはーい」
フランカも、やっぱりアンリが切ったトマトをつまみ食いしてお茶碗を運んでいく。
「さて、僕はスープを運ぼうかな」
写真の中のナタリーに微笑んで、よっこらせとアンリは立ち上がる。最近仕草がおっさんくさいと娘二人に言われているのだが、なかなか治らないものらしい。
『おはよう。アンリくん』
「……――っ!」
そのとき背後から声が聞こえて、アンリは振り向いた。
(今のは……!)
『なあに、アンリくん。おばけでも見たような顔して。あ、おばけだったわ私。忘れてた忘れてた』
ふよふよと宙に浮かんでいたのは、大切で、ずっとずっと逢いたかった人。
「ナタリー! ……いってぇ!」
『十年ぶりねぇ。すっかりイケオジね、あなた』
立ち上がるところだったアンリは驚きのあまり箪笥の角に小指をぶつけた。
ナタリーは、あらあら、と笑っている。
「ナタリー、どうして……」
まだ自分は寝ぼけていて、都合の良い夢でも見ているんじゃないかと疑いながらアンリは尋ねる。すると、ナタリーはふっふーんと得意げに人差し指を立てて、説明しよう! と笑った。
『そもそも、なんで私がアンリくんのもとに一瞬帰れたかっていうと、冥府の神ハーデル様の奥さんのペルセフォリア様がご病気だったのを少しだけ治せたからなのよ。ピアノを弾いて差し上げたら、たまたま、ちょっとだけ容体が回復なされて』
「なるほど……?」
『で、アンリくんにお別れを言って、冥府にまた行ったら、やっぱりペルセフォリア様の容体は悪化してらしてね。どうやら悪い咳のようで。シオンの花があれば治せるらしいんだけど、冥府に花は咲かないでしょう? なかなか手に入らなかったそうなの』
「……ほう?」
『それで、アンリくんが最後にくれた、シオンのお花。あれで薬を作ったの。そしたらペルセフォリア様が回復なさって、お礼に生き返る以外で願いをかなえてあげようって』
「……つまり?」
『帰ってきた! アンリくんの寿命まで、家族を傍で見守ってていいって!』
それを聞いて、アンリは思わずナタリーを抱きしめた。触れようとするとすり抜けるのに、そこにはたしかにナタリーの気配があった。
浮いていてもなお少し低いナタリーの肩に顔をうずめる。隠したつもりの涙は彼女の体をすり抜けて地面に落ちて跳ねる。バレバレだった。
『もーう。感動の再会! これから先死ぬまで一緒なんだからほら、笑った笑った!』
「ほんと~~~~に一緒だね? ウソじゃないね?」
『一生かけて、証明するよ。あ、一生じゃないか。いっ……死?』
「はぁ~、僕の妻、イケメン…………」
『こっちのセリフなのよ……』
久しぶりに味わったナタリーの唇は、なんだか少し甘酸っぱい気がする。
『触るとすり抜ける霊体なのに、どうして目をつむって私の唇の位置がこんなに手に取るようにわかるのかしら……』
「あのね、君が生きてる間どんだけしたと思ってるの? いまさら間違えないよ。ていうか、君も僕が切ったトマト食べたでしょ」
『ふふふ、バレた?』
「おとーさーん、誰と話してるのー? 幻覚見てるのー?」
「ついに壊れたー?」
娘二人の容赦ないコメントが食卓の方から聞こえて来る。特にフランカ、結構刺さったぞ隠れ毒舌さんめ。
「いやー、母さんがいるんだよ」
「「はあ!?」」
ほんとだよ、と言って二人を部屋に入れるとナタリーの姿はない。
「あれ!? ナタリー!? おーい! ナタリー!!」
『ばあ』
「わぁぁぁぁ!」
「なにあれ、コント? ガチで母さん居るんだけど」
「いいんじゃない? 幸せそうだし」
やれやれとため息をつく娘たちを尻目に、二人は仲良くじゃれている。
場面は変わって地の底へ。
楽しそうにふよふよ跳ねるナタリーの様子を見て笑う、一組の夫婦がここにいる。
冥府の王ハーデル様と、その奥様の、咳が治ったペルセフォリア様でございます。
『本当にようございましたわ。無事落としどころが見つかって。寿命前の若い女性が手違いで来てしまうなんて申し訳なさすぎますもの。愛しい人もいますのに』
『本当は生き返らせて上げられたらよかったが、それは理違反だからなあ。けど、あの女子が影響すら与えられんとなると、この国の行く末も変わってしまうでなあ』
『何と言っても、気立ての良い娘でしたもの。よかった。幸せになれそうで』
『まあ、この姉妹の嫁入り前にもひと悶着あるんだけどなあ』
『あなた、それはまた別のおはなしというやつですわ』
だそうでございます。さてさてそれではこの辺で。
……ああ、ひとつ忘れていました。アンリが今朝生けた花、ミヤコワスレ。
その花言葉が何だったのか。
別に聞かなくてもいいって? たしかに蛇足かもしれませんね。だって再会は果たされたのですから。
そんなことよりお前は誰だ? それこそ蛇足でございます。この物語のただのわき役ですからね。
二人の恋路を見守った、ただの楽器でございますれば。
そうだ、それでは私から、あなた方に贈ることといたしましょう。
シオンの花の花言葉を。
それでは皆様ごきげんよう。
いつか『また逢う日まで』