6.シオン
アンリが妻と出会ったのは、19歳の5月だった。
城に花を届ける父についていって、場内で暇を持て余しているときにピアノの音が聞こえたのだ。
耳馴染みのあるメロディが、軽やかにあたたかにアンリの耳に届いて、気づいたらあの場所の前に立っていた。依然として聞こえるピアノの音をもっと近くで聞きたくて、はやる気持ちをおさえて、何度も深呼吸してから扉を開けた。
ピアノに座っていたのは、ひとりの女性だった。
淡いはちみつ色のやわらかそうな髪と、リンゴの花びらみたいな薄紅色の甘い瞳。伏し目がちなその目は楽しげに輝いて、長いまつ毛が白い頬に影を落としていた。
やがてアンリの存在に気付いた彼女は、びっくりしたように手を止めてあわてた。
こんなに美しい人のその表情を引き出したのが自分であることが嬉しくて、誇らしくて、たまらない気持ちになった。
ナタリー=シェレルと名乗った彼女は、学園を首席で卒業した才媛で、城で医務官補佐の文官をしていた。女性らしい濃やかさと聡明さを持った彼女はとても優秀で、すぐに王女様付きの女官になると目されていたほどだ。
男性人気も著しく、官吏同士の恋愛が許されている城内では彼女のあずかり知らぬところで騒動があったりなかったりしていた。
そんなナタリーはアンリの一つ年上で、話すととても気さくな人だった。そして、見ず知らずの年下の男が自分から弁当を持ってくる理由に気付かないほど、恋愛においてはとことん鈍かった。
生姜焼きが大好きで、いつも『アンリくんの生姜焼きは毎日でも絶対に飽きない自信がある』と言って笑っていた。
それがどれだけ嬉しかったかなんて、ナタリーは知らなかったに違いない。
アンリがナタリーと出会った年に、国では王子の立太子の儀式があって、それに伴って記念祭が開かれることになっていた。城内の若い男たちがこぞってナタリーを誘おうとしたが、休み時間になるとふっとどこかに消えてしまう彼女に誰も話しかけることはできなかった。
祭りの前日、ナタリーは妙にそわそわして、何度も口ごもった。
アンリが明日の夜もここに来ていいか、と問うと、ひどくうれしそうな顔で笑って頷いた。
二人で並んで花火を見て、アンリがもってきたりんご飴を食べた。
飴で艶めくナタリーの唇に、気づいたらキスをしてしまっていて、必死の思いで好きだと伝えた。私も! と抱きついてきたナタリーを、夢中で抱きしめ返した。
アンリが店を継ぎ、ナタリーが王女付きの女官になったころ、アンリからプロポーズした。
ナタリーは頷きながら、何度も『好き』と言ってアンリの腕の中でわんわん泣いた。その姿が愛しくて、離したくなくて、その日はずいぶん長くそうしていた。
ベッドの中でのナタリーは美しかった。雪のように真っ白い肌に、金色の髪が散らばって、リンゴみたいに真っ赤になって恥じらう姿はたとえ神様にだって見せたくないほどだった。抱きしめたら折れてしまいそうなほど華奢で頼りない体。やわらかくて、甘くて、全身に自分のものだという証を刻みたくなる。潤んだ瞳であんな風に見つめられたら、とろけるような声で己の名を呼ばれたら、自制の利く男はいない。
結婚して二年目に長女が生まれた。髪はナタリーと同じ蜂蜜色で、瞳はアンリと同じ紫。クリスタと名付けられた彼女はしっかり者で賢く育った。
次に生まれたのも女の子だった。フランカという名前のその子は、黒髪にナタリーと同じ薄紅色の瞳。甘えたでお姉ちゃん大好き。二人ともナタリーに似て美人で、幼くして町の男の子たちの初恋を容赦なく盗んだ。
妻も娘たちも、ずっと守り抜こうと誓った。喧嘩をして、仲直りして、時につまづいても互いに支え合って。これから先もずっと幸せな日々が続いていくのだと、そう信じて疑わなかった。
妻が死んだのは、突然だった。
店じまいをする頃に知らせが届いた。落ちてくるシャンデリアから王女を守ろうとしたらしい。シャンデリアの重みで首の骨が折れ、即死だったのだろうと言われた。ぐちゃぐちゃになってもおかしくなかったのに、ナタリーの体はほとんどきれいなままだった。
そこからしばらく、どうやって生きていたのか覚えていない。
いつも通りに過ごしていたとは思う。店を開けて、花を売って、娘たちの世話をして。けれど、何もかもすべて、どうでもよかった。
黒い闇がすぐ背後まで迫って来ていた。このまま飲みこまれるのもいいかと、空元気の笑顔の裏でそう思っていた。
そんな日々の中、久々に城に花を届けることになった。王太子殿下が気をつかってくれたのだろう。幼い頃から顔見知りだった平民のアンリを親友だと言ってくれる奇特な人だ。しばらく会っていなかったのもあって、王太子殿下の好きな花を持っていくことにした。
献上する花を見繕っているところに娘のクリスタがニワゼキショウの花を何本か持ってきた。アンリが好んで使っていた蜂蜜色のリボンをかけて。
王太子に花を献上した後、しばらく行っていなかった礼拝堂に寄ろうと奥の塔に向かう。クリスタが渡してきたニワゼキショウを供えようと思ったのだ。
ピアノの音がした。
耳馴染みのある、軽やかであたたかなメロディ。初めてナタリーに出会った時と同じ曲。
聞き違えたかと思って、真偽を知りたくて、ピアノの音に導かれるようにアンリは走った。
息が整うまで待つのすらもどかしく、アンリは扉を開ける。
こちらを向いたのは、いつかの日と同じ、楽しそうにピアノを弾くナタリー。
気がふれたのだと思った。そうでなければ、自分は今夢を見ているのだと。
だってナタリーは死んだのだ。間違いなくあの日、棺の中で眠るナタリーをアンリは見た。
なんであなたがここに、と聞くと「どちら様ですの!?」と驚かれた。
今ここにいるナタリーは、アンリのことを知らないようだった。
(ナタリーの、幽霊…………? でも、記憶がない……?)
今すぐ名前を読んで、抱きしめたいという衝動を抑え、アンリは俯く。
(記憶を思い出さなければ、ナタリーはずっと、ここに居る……?)
目の前のナタリーが幽霊かどうかなど、アンリにとってはもはやどうでもよかった。幽霊だってかまわない。一緒にいるためならなんだってする。
こっそり指輪を外した。手に持っていたニワゼキショウを、ナタリーに渡す。
うれしそうにはにかんだナタリーは初めて会った日と同じ顔で笑った。
結婚する前の日々をなぞるようにして、毎日を過ごした。女々しくも、彼女にもっていく花は六年前とおんなじ順番。忘れるわけなかった。正確に覚えていたから。
ずっとこのまま、なにも明かさずに、一緒にいたい。
そんな、淡い夢を見た。
「おかえりなさい。あなた」
ぱさりと持っていたシオンの花が床に落ちる。無意識にアンリの足は動いていた。
腕を広げて待つナタリーを無我夢中で抱きしめる。
「ナタリー、なたりー、ナタリー!!」
「ここに居るわ」
「…………逢いたかった」
「何回呼ぶの……」
「君が、勝手に、いなくなるから……!」
「……ごめんね」
腕の中でナタリーが謝った。アンリのシャツに水滴が落ちる。
「あなたの様子を見るためにここにとどまったはずなのに、なんだか色々忘れてたみたい」
「…………」
「クリスタとフランカは元気?」
「うん」
「そう……。あなたのおかげね」
「今日は……」
「わかってるわ。クリスタの誕生日でしょう? 王太子様の立太子の日とおんなじ。いつもお昼にしか来ないのは、フランカのお昼寝の時間だから」
アンリは頷いた。
「クリスタは、大好きなイチゴのケーキを食べてた。君がよくつくったやつ。今年は僕が……。すごく、不格好になったけど」
「うん」
「フランカは、君の使ってたクッションを隣に置くと寝ることが多い。今日は、なんでかすんなり、眠ってくれて、君のところに行けるんじゃないかって、思って」
「うん」
「クリスタの髪は、僕が結ってる……。君みたいに、うまくできないけど、最近は両サイドで編みこむのがお姉さんぽいって気に入ってる」
「そっか」
「お母さんと同じって、喜ぶんだ」
ナタリーの姿は、最後に会った時のものに戻っていた。長い髪は編み込まれ、ワンピースではなくアンリの花屋に立っているときの、エプロンをして。アンリが贈ったピアスと指輪をつけている。
アンリはシオンの花を拾ってナタリーの髪に挿した。七年前のこの日も、この花を贈ったことを思い出して泣きそうになる。
ありがとう、とナタリーがアンリを抱きしめた。アンリと同じ石鹸と、洗剤のにおい。そのはずなのに、ナタリーの香りはアンリと全然違う。優しくて、ほっとする香り。
「アンリくんの香りは、私と全然違うね。おんなじ洗剤なんだけどなあ。なんだか、ほっとする」
「同じこと、思ってた」
似たもの夫婦ねとナタリーが笑う。
「ずうっと、引き留めてくれていたのね」
「ぼくが、そうしたかっただけだ」
「私が追いかけてるつもりだったんだけどな」
「無理だよ。とっくにつかまってるのに」
「そっか」
うれしそうに笑うナタリーの体が、淡く輪郭をぼかしてアンリの瞳に映る。
アンリは悟った。これが、最後なのだと。
「そろそろ行かなくちゃ。クリスタとフランカを頼むね、おとーさん」
「……ナタリーも一緒じゃなきゃ、いやだ」
駄々をこねる子供みたいに、アンリは少し低いナタリーの肩に顔をうずめた。
「ごめんね。冥府の神様との、約束なの……」
アンリは咄嗟にナタリーの腕をつかもうとした。けれど既にナタリーの実体はなく、先ほどまで抱きしめていたはずのナタリーの体を、アンリの手はすり抜けてしまう。
「なんで……。逝くな……逝くなよ、ナタリー」
じりじりと、ナタリーを壁際まで追い詰めた。追い詰めて、閉じ込めてしまえば……
(そうすれば、ナタリーは……)
「……まったく、仕方のない人」
チュッと唇にあたたかいものが触れた。顔を上げるとナタリーが困ったように笑って、こちらを見ていた。
「せっかくあなたと話すチャンスを貰えたのに、最後は結局涙だなんていやよ」
「だって、君がいなくなるのに……」
「だーかーらー! 私もあなたに会えなくなるのだけど! 大好きなあなたに! クリスタとフランカにも! 二度とよ!? 写真も絵もないのよ!?」
少しキレ気味に頬を膨らませるナタリーに、アンリはまばたく。
「だいすきって……」
「なによ! ほんとのことじゃない!!」
真っ赤になってそっぽを向くナタリーに、アンリは笑ってしまった。
「うん。そうだね。君は僕を大好きで、僕も君が大好きだ」
「……わかっているなら、いいのよ」
アンリが笑ったからか、ナタリーはこっちを見、満足げに頷く。
「…………」
どちらからともなく、キスをした。
まるで、そうするとあらかじめ決まっていたみたいに。
「あのね、私、アンリくんに言おう言おうと思ってたことがあるの。でも、それを思うのはいつも、何かあるわけでもない時で。突然すぎるかなあって、結局いつも言えなかったんだけど」
「……なに?」
「…………。どうしよっかな。アンリくんが、私がいった後もずうっと長生きして、おじいさんになって幸せな寿命を迎えるって約束してくれたら、言う」
「……わかった」
「次のかわいい奥さんも、もらってね」
「それはヤダ」
「……もう。しょうがないなあ」
そういう割に、ナタリーは嬉しそうな顔をする。
「じゃあ、代わりに、たまには生姜焼きをお供えしてね」
「うん。供える」
「……どうしよう、飽きない自信があるわ……」
アンリの顔に安心したのか、ナタリーはふふっと笑った。
笑って、泣く。
ナタリーは目をつむって涙を流しきると、アンリの耳元で囁いた。
「ありがとう、アンリくん。ずっと、『あいしてる』」
そう言って、彼女は消えた。