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1.ニワゼキショウ


「恐れ入りますーー!! どうか、どうか通してくださーーい!」


 ナタリー=シェレル。20歳。

 城のあらゆる場所を走り回り、仕事に日々忙殺されるごく普通の文女官。

 彼女は今日も、せわしなく階段を駆け下りていた。

王都の学校出身で、在学中、他の追随を決して許さず、最初から最後まで主席のまま卒業した秀才の彼女は、現在城勤め三年目。史上二人目の女性官吏である。


「うわ! 誰か通ったか!? ったく、誰もいねーじゃん……」


 通りすがりの若い男性が何事かと振り向いたのも構わず、ナタリーは落とさぬように書類を抱きしめ、目にも止まらぬ速さで廊下を走り抜けていく。


(急がなくちゃぁぁぁ。お昼休憩が終わってしまう……)


 ナタリーが今こんなに急いでいるのには理由があった。


 城に勤めてすぐのころ、もう使われていない礼拝堂の祭壇にぽつんと置かれた古いピアノを見つけたのである。

 幼少期以来忙しくてまともに触ることすらなかったその楽器を久しぶりに弾いてみたら、仕事の忙しさも疲れも何もかも、すべてが音に溶けていくような心地がした。

 そのことがあってから毎日、唯一腰を落ち着けられる昼休憩の時間に、そのピアノで一、二曲弾くのがナタリーの日課になったのだ。

 ひとつ難点があるとすれば、食堂カフェテリアから礼拝堂まで、少し距離があることだろうか。今日みたいに仕事が立て込んだ日は、行けないことも多いのである。

 その代わり滅多に人が来ないので、気分転換にはもってこいだ。

 今日もナタリーは食堂に寄らずにまっすぐ礼拝堂に向かい、少し重たい扉を開けた。

中は、白で統一された祝福で満たされたような空間。その真ん中にある祭壇の上にぽつりと置かれた、こっくりとなめらかな黒。

 ナタリーはピアノの椅子に腰を下ろし、軽く指慣らしをした。幼い頃からの習慣みたいなものだ。


「さて、今日は何を弾こうかしら」


 ポーン ポーンと無心で鍵盤を鳴らしながら、ナタリーは考えた。


(王都で流行りのオペラにしましょうか……でも、暗譜できてる曲は二曲くらいしか……。今日は天気もいいし、『碧空』なんていいかも。そうしたら、合わせて『花色の香の乙女』も……いえ、ここはあえて『エレーナのために』にするべきかな……)


 散々迷って、結局、今日は『碧空』と『花色の香の乙女』に決めた。『エレーナのために』はまた今度だ。

 早速、『碧空』から弾き始める。

 これは英雄、アレクセイ=ザカーエフが敵国から国を護ったとき、王が音楽家に作らせた曲だ。誰もが一度は聞いたことがある、有名で馴染み深い曲。

 勇ましく大胆なメロディを、今は少しキャッチーに。明るく、楽しげにアレンジを加えながら、国の平和を寿ぐように。

 自然とナタリーの体はリズムを刻み、口角が上がり、頬が上気する。


 その軽やかなリズムのままで、曲は『花色の香の乙女』に移っていた。

 今度は花びらが舞うようにやわらかく。風になびく乙女の髪のように甘やかに。

 優しく、けれどほんの少しの切なさを音の端にそっと忍ばせて、エレーナを愛した音楽家・イアンの思いを追いかけるように奏でる。


 そんな風にして目の前の美しい楽器にすっかり夢中になっていたところに、走る靴音が響いてナタリーは顔をあげた。

 それはどんどん近づいて礼拝堂の前で止まる。

ナタリーが首を傾げていると、突如バンッと大きな音を立てて重たい扉が開かれた。


「ナタリー!?」

「!?」


 呼ばれてナタリーは両目を見開く。

息を切らして立っていたのは、まったく知らない男の人だった。でも、ものすごくかっこいい。

 さらさらの黒髪は前が少し長くて、そこから見え隠れする紫水晶アメシストの瞳は見惚れそうなほど綺麗だ。服装がなぜかエプロンなのは不思議だが、それを差し引いてもモテモテ間違いなしのカッコ良さである。


「なんで君が、ここに……?」

「いやどちら様ですの!?」


 全く面識のない男性から怪訝な顔を向けられ、ナタリーはさらに困惑した。

 そもそも恋愛経験に乏しいナタリーにとって、異性に下の名前ファーストネームを呼ばれるというのは結構な事件である。記憶をさかのぼってみても、父親以外にそうされた記憶は持ち合わせていない。


(な、ななな、なんでこんなイケメンさんが私の名前を? 待って。もしかしてこれが白昼夢? こ、声も素敵……いえ、そんなことより……)


 首を左右に振って雑念を飛ばし、なんとか落ち着きを取り戻したナタリーは、努めて冷静に目の前の青年と認識のすり合わせをしようと試みた。


「も、申し訳ありません。初対面だと思うのですが、どなたかとお間違えではありませんこと……?」

「…………」

「あ、あの……?」

「……これは、大変、失礼しました。あなたの弾くピアノの音が、僕の、知り合いの弾くピアノの音に、とても、よく似ていた、ものですから……」


 男性はどうしてか俯いて、途切れ途切れにそう言った。

 先ほどの大きな声はどこえやら。あまりの落差にナタリーは心配になる。事情は分からないが、なにか悲しいことでもあったのだろうか。それとも、もとからぶっきらぼうな人なのか。

なんとかこの場を収めようと必死で考えを巡らせていたナタリーは、ふとあることに思い当り、ぽんと拳を打った。


「もしや、その方もナタリーというお名前でいらっしゃるのですか?」

「そう、です。よくわかりましたね」

「誰だって気づくと思いますわ」


 男性は驚いたように顔をあげ、ナタリーの顔をじっと見つめた。

 ナタリーは異性に長く見つめられることになれていない。気恥ずかしくなってつい視線を逸らす。


(……あら?)


 逸らした先に見覚えのある花を見つけて、ナタリーはまばたいた。

 星のように可憐な花で、ナタリーが見たことがあるのは白と紫の二色。それがいくつか丁寧に処置され、はちみつ色のリボンがかけられて男性の手の中に納まっていた。

 ナタリーは薬師に付いて働く医療事務担当の文官だ。薬に使った植物の記録なども行っているため、薬効のある植物に関しては人より少し詳しかった。もともと植物が好きだったこともあり、道端で知らない花を見かけては、記憶にメモするクセがある。


「その花……」

「知ってるんですか?」

「へ? あ、いいえ? ええと、いえ、はい?」

「どっちなんです……?」

「その……。道端で群がって咲いているのはよく見かけるのです。可愛らしくて、好きですの。でも、名前は知らないものですから……」


 ナタリーのややこしい返事に男性は頭にハテナを浮かべたが、ナタリーがワケを話すと、ふっと笑った。


(わ……)


 ナタリーはその笑顔に思わず息をのんだ。切れ長の目が優しく細められて、なぜだかとても嬉しそうで、その顔に、ナタリーの胸の奥がぎゅーっと引っ張られるような感覚がする。


「この花はニワゼキショウって言って、よく見るのは紫と白の二色ですけど、たまに青紫の花を咲かせるやつもいます。かたまって咲くけど、二色ばらばらに咲くのは珍しくて、大抵おんなじ色同士で一緒になってます」


 楽しそうに話す男性の声に頷きながら、ナタリーは騒がしい心を落ち着けた。

 なんでかこの人は初対面にしては親しげなのだ。多分口数は少ないほうだろう彼がそうな風に話すのは、きっとナタリーの名前が知り合いと一緒だから。


(それから、その人がきっと、大切な人だから……)


 通り抜けるもやっとした思いには、気がつかないふりをした。

 どうせ、初めて下の名前を異性に呼ばれて、柄にもなく浮足立っただけだと、わかっている。この年になるまで大した恋愛もしてこなかったせいで、滅多にない展開に錯覚しているのだとナタリーは己の熱を持った心に冷や水をかけた。


「へえ。この子たち、そんなお名前でしたのね。……ニワゼキショウ、ニワゼキショウ……」


 語感が心地よくて、ナタリーはその名前を何度も口の中で転がした。なんだか、その名前を知っていることがダイヤモンドを見分けるよりも価値のあることに思えた。


「あ、名前といえば! 改めまして、私はナタリーですわ。姓はバ――……え?」


 瞬間、ツキンと鋭い痛みがナタリーの頭を通り抜けた。

 思わずぎゅっと耳を塞ぐ。


「……あの。大丈夫ですか?」

「へ? う、あ、はい。姓は、シェレルでございます」

「名乗りもしないですみません。僕はアンリと申します。アンリ=バサラン」

「い、いえ。お気になさらないでくださいませ」


 そのときナタリーの頭を一瞬よぎったのは、自分の記憶にある名字とは違うものだった。自分の名前を間違えるなんてどうかしているが、それが一体どんなものだったのかも、すでにわからなくなっている。


(私、寝起きみたいな鈍くささですこと……。最近仕事が忙しいし、疲れているのかしら)


 それを肯定するみたいにナタリーのお腹がぐぅぅとなった。アンリと名乗った男性は、きょとんとした顔をする。


「なっ、こ、これは、そのぅ……」

「お腹、すいてるんですか?」

「う……はい。お昼がまだですの」


(は、恥ずかしい……! よりによって、なんで今!?)


羞恥と空腹とがいっぺんにナタリーを襲い、顔はもう真っ赤だ。


「実は、お弁当があるんです。半分、いかがですか?」

「え!? そ、それは何と魅力的な……い、いえ! 人様のお弁当をいただくわけには……」


 しかしナタリーの抵抗むなしく、お腹は本日二度目の空腹を告げるを音を鳴らした。


「今日のお弁当は、おにぎりとからあげとたまごやきです」

「いただきます」


 日頃の激務で疲れ果てランチを抜いたナタリーの胃は、おいしそうな香りを容赦なく放つ目の前のお弁当箱に、ものの三十秒で白旗をあげたのだった。





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