雨の猫、もしくは雪の中の
記者の前での発表は三日後。それまでにできることはできるだけ揃えておく必要はあるが、それはそれとして観光なのだ、楽しむに越したことはない。
前にここに来た時との変化を見たり、どうでもいい路地を入ってみたり、屋台だのパブだのを好き勝手に入ったり。こんなに遊んでもいいのか?と思われるだろうが、その中でもアルゴが気を休められる時間は、割合に少なかった。
歩き回るのはどこから情報を渡されたのか分からなくするためでもあったし、その中で誰かからポケットにメモを入れられることがあり得ないわけではない。
それ以上にスリにあって秘密が露見することがもっと問題なのだが、いつもの自分だけの取材旅行ではなく、ド素人だろうエルが隣にいるせいで、移動の間はすぐにマギア・リボルバーを抜けるほどに張り詰めていた。
「建物は変わっても、人の方はあまり変わらないんですね」
当の本人はあまり気にしていないようだった。
「そらそうだ。人が場所で賢くなったりバカになったりするんだったら、バカになる土地が滅ぼされていくだろう」
また一人スリがエルを『通り抜け』ようとするのを見て、アルゴはギロリと睨んだ。真剣な殺しの眼光を浴びせられた彼か彼女かは、低い体をさらに潰して走って行く。
「貧困だの犯罪だのがあるのが証拠だ。感情なんてのがあるのが証拠だ」
「……なら、私たちのお仕事は何の為に?」
「さあな。結局全員がバカなのかもしれないな」
彼女は指でLを作って逃げ去ったのを指し、反動をつけて上に向けた。
「あの子で何人目だったんです?」
「多分7人目だ。そういうのには?」
「軽く護身術で揉まれました。気を張らなくても」
「そういう慢心はいつか身を滅ぼすぞ」
マルシェをゆっくりと歩く二人は、寒さゆえにポケットからは手を出さない。
寒空の果実と満ちる活気に、難し声は隠れていた。
「昨日は宿、今日は買い物、明後日は取材をして、そのまま蒸気で帰る。なら明日は何をする予定なんです?」
「何をするでもない。しいて言うなら」
アルゴはコートの上から手帳を示す。
「『お仕事』ですか。私にはまだ教えてもらえないようなやつですか」
彼女の推測を、アルゴは肯定した。
「少し面倒な予定が入った」
「明後日のには後を引かないんですよね?」
後を引いたら帰られなくなるから、そちらの方を心配するのは正しいのだが、少しは俺の心配もしてほしいものだ。夢を半分ほど壊しかけた人間を心配するというのも、人としては正しいのかわからないが。
「安心しろ、人とちょっと歩いてくるだけだ」
地雷原に絡めたウィットをエルは吐いた。ジョークにジョークで答えるのは筋というものだが、それに返事できるうまい言葉を彼は見つけることができず、しょうがなく肩をすくめる。
無言の肯定と受け取って、彼女は何を言うこともしなかった。
————
もたらされた指令は、帰国希望者の受け入れであった。
そんなことは入国審査がやる仕事だろうと言いかけたが、呼んだ時に続いた文章曰く、それは帰国希望『犬』というのが正しいらしかった。
だったらもっと随伴つけて普通に帰れと吐きたくなるのだが、しかし彼の特徴とその説明を読んだときに、彼は上がスパイ合戦で狂ったかと思った。
体内に魔導式の録音機、機械魔導融合式の制御演算装置、空腹を魔力で置換する融合臓器など、ありとあらゆる技術を持って作られた魔導犬だというのだ。
しかもそれが何を間違ったのか、人間レベルの意思をもって、なぜか亡命をしたいと言い張る。好きに勝手に帰ればいいじゃないかと思ったのだが、しかし何かがおかしい話だと、アルゴの中のアルゴは警鐘をわずかに鳴らしていた。
犬が人間と同じになるなど、なんてのはこの際考えないようにする。
同じように、改造された魔導犬ということも、魔導力学ならアリだと考えることにする。
では何が引っ掛かったのだ?彼はもう一度それを読み返した。
今回のアルゴに求められるのは、エージェントとしての働きだ。どうにか希望者の存在を隠ぺいして、取材にかこつけて帰るというものだ。それをするために細かい警備をごまかす必要はなく、ただペットですと言えばいいだけの行動だ。
やるべきこと自体に引っ掛かりはないのだ。
なら前提条件なのか?
それも違う。
そこに至る前の話だ。人間とコミュニケートできる犬が存在するのなら、記者周りで話になっていなければおかしいのだ、どこかで記事ができていないと話が合わないのだ。
良くも悪くも列車があれば、早く遠くに伝達ができる。上が細かいのを取り寄せていないわけがない。
ならどこから、どうやってこの犬は連絡を取った?
犬の手ではまともに文章を書くことはできまい。発声器官の都合で、声にすることもできないだろう。ならそれらに依存しない方法で情報を送ったことになるが、それは何だ?
一つだけあるとするなら魔信だが、それを一般でやるには金がかかるし、送信先はどこなのだという話でもある。
一体誰が裏にいる?一体何のために指令がある?
シュビール・ガネットとタイプ・キル・マシーンでも持ってきておけばよかったと考えたが、前者は暖房後者はボディチェックで使い物にならないなと、どうしようもないのだなと考える。
事実は小説より奇であるというが、それをもたらすのは結局のところ事実だ。
ありうる方法を重ねていくしかない。
アルゴは宿の机に置いてある魔導タイプライターに紙を差し込み、ギリギリと回してレバーを右に。タブを押してインデントを付け、シフトをロック。
これなら犬でも使えるだろうが、これはこれで入手に困るんだよな…………何がありうるのだろうか。
彼はたっぷりと考え込んでから、Cの字からタイプを始めた。
夕食に出ていたエルが、ほとんど同時に帰ってきた。
————
エルに指令を話すと、何バカなことを言っているんですかと一笑された。しかし複写し展開した文章を見せると、なんてバカなことを送ってきたんですかと呆れられる。
同じ気分だ、アヘンでも飲んで眠りたいと、彼は返事した。
私はあなたが最初からトリップしているんじゃないか疑いかけているんですがねと、彼女は冷たく冗談めいた。
「この朝にガーラッド大橋で待っている、合言葉は『ジャック・ジャックとビーンズカンパニー』だとさ」
「本当にいると思うんですか?そんな賢すぎる犬が、魔導で改造された犬が?」
「いると考えるしかないだろう。じゃなきゃこんなクソみたいな朝に起きる気はないよ」
暖房のある宿で平穏に外を眺めたり思索に耽ったりして、優雅な朝を過ごす予定ではあったのだ、二人とも指令がなければ。
彼らが進むのは南の方角。エルが東でアルゴが西。
「2時間ですよ?2時間もかかるようなところに、なんで日が昇る前から歩いていかなきゃならないんです?本当にそれは指令に必要なことなんですか?」
そして寒い方にいる彼女は、どうしてこんなことをとやはり冷たかった。
「仕方ないだろう、予約した時点ではそうなるとは知らなかったんだから」
行きつけの宿をひいきして何が悪い。ちょっとだけ割引してもらってその分を懐に入れられるのだ、何が悪い。それに本当に予約時点では何があるかわからなかったのだ、そうなるのは仕方ない。
誰もいない道に、二人の足音だけが響いている。漏れ出でる朝日の影も、当然人二人分。濃い朝霧でぼんやりとしか見えないのに、なぜ外に用事があるのだ。
エルは川からの風を防ぐために、コートの襟を高く立てた。口からの息が勢い関係なく真っ白く、余計に視界を悪くする。
「何もなければ楽なんだがなぁ…………」
アルゴは呟いた。雪があれば鼻水でつららを作れるだろう。
「こういう日は、籠っていたいですからね……」
エルが答えた。彼女はマナ式懐炉を取り出して起動し、懐にしまう。
アルゴの給料二カ月分を注がないと運用できないガジェットに羨望のまなざしを向けかけるけれど、しかし先輩と憧れの記者という砂上の楼閣を崩さないためにと、彼はハードボイルドを無理やりに気取っていた。
この後は絶対に山猫亭で朝食にしよう。身体を芯から温めてもらおう。
彼がそう考えて左を見ると、見えない地平線の際に太陽があるとわかった。隣からマナの粒子が空に上がり、小さく細かく消えていく。熱の魔導だから炎の色、だったな。彼は少女の方を見る。
薄っすらと眼の先には、蒼が輝いているように思える。
星がそろそろ見えなくなるか。黒が抜けていく大空を思って、彼はそう言いかけた。
「誰だ」
かわりにアルゴはマギア・リボルバーを抜いた。星は最初から霧で見えないだろう、夜空は霧で街灯と太陽を吸った色だろう。魔導の色も赤、青が生み出されるわけがない。
「うたないでくれたまえ」
声の代わりに、文字がそう彼らの前に浮かんだ。
誰が発したのだ?そう思って見まわしてみると、真っ白い犬がいつの間にかそこに歩いていた。
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