良い朝をあなたに
教科書的な勉強の呑み込みが早いのは、若くして出国試験を通っていることからも明らかで、エルはまるでスポンジのように理論を吸い込んでいった。冗談でかつて受けた試験の問題を出してみると覚えていたので、スポンジというよりは吸着剤と呼ぶのが正しいだろうが、しかし今はそういうことを考えることとは関係がないのだからと、彼は思考を放り捨てた。
ガリオン行き寝台特急『朝焼け号』は朝日が昇る前に、ガリオンの首都カラクスへと到着した。今日は寝る前に時計のネジを巻いてから寝たので、間違いなく動き続けている。時間は午前の7時。
不健康な生活をしている彼には、早すぎる朝だ。
「おはようございます」
まだ街は死んでいる。ところどころで人が一日の準備をしている香りが漂って来るが、それらはほとんどがパン焼き窯と煮込んでいたシチューの残りに思われる。そりゃあ誰も、こんな寒い朝には出たくないもんな。
「おはよう。外は寒いから、キッチリ着込んでいけよ」
昨日の朝脱いだコートを引っ張り出し、彼はどこで暖を取ろうかなと考える。まだ店はどこも開いていないだろう、想定よりは魔導蒸気が早くついてしまった。前のはもう数時間かかっていたから、今回も同じと思っていたのに。
「もうちょっと停車しないんですか?」
「するかもしれないが、どうせそこまでは長くあるまい。だが困ったな…………」
「時間、余ったんですか?」
「ああ。これ以上ないくらいに。おかげで朝食をどこでとかそういう予定が消え去ってな、行こうと思ってた雑貨屋はまだ営業前だよ」
深夜営業をやっている店などあっただろうか。ないならパブしか入る場所がないが、酒というものはどうも性に合わないし、女連れはそう見られるのがな。
「……宿はあるんですよね?」
エルはほかの乗客のように、行き先があるのかと問いかける。
「速達でも間に合わないから、一人用だけどな」
君という想定外さえなければ、ちゃんと入れたはずなんだけどなぁと、彼は口元を雲に隠した。
「じゃあ待合室か駅で暇つぶしですか?」
「そうなるな。開放的に風の入り込む場所で、嬉しくないことに」
「ならせめて、宿にでも入らないと…………」
こんな列車を使う客は、基本的に別荘やら使用人やら、そういう物を使えるくらいには金がある。もしくは帰りのことを何も考えていない酔狂な人間、または細かいことを考えていないただのアホ。
そしてアルゴはそのアホである————ただし思考だけは無駄に回るタイプの。
「その発想だけはいいが、しかし宿に誰がいる?」
やはりどうしようもないので、彼はゴースト・スモークをかじかんだ手で引っ張り出した。東方では酒を飲むと聞くが、赦されるなら泥酔したい。
「薪の配達受け取りくらいはいるのでは?」
「受取人が文字読めるか?」
文筆業で飯を食える時代とはいえ、まだ読み書きがままならない人種は意外に多い。教会の神父になるには聖書を読めるようにならねばならないという基本すら、見たせない神父がわずかにいるのだ————彼らは数字だけを覚えて暗唱しているのだと誇らしげだった。
そんなのがいるのに、一般市民なら。
「それでも記者見習いかい?世間は広いぜ?」
「覚えておきます…………」
昔名前のことでラルゴラルゴと言われたことがある。アルゴは速いを意味するが、ラルゴでは真逆にのろま。自分の名のスペルを理解した時に、文字を知るというのは大切なのだなと思わされたのだ。彼は続ける。
「しかしまあ、配達人というアイデアは認めよう……いい手段がある」
行き先は決まった。とても雑なアイデアだが、しないよりはいいかもしれない。
おそらくしない方がよいのだろうけれど。
————
主要都市の郵便は、列車によっても行われている。郵便ポストによる集配はもう少し後だが、それに対応するために局じたいは既に開いている————そして結露防止のために暖房が焚かれ、魔信を受け付ける窓口も、もちろん。
制服を着た郵便馬車を追いかけて、二人は魔信窓口へと入った。官報が立て込むときなどは深夜に作業されることもあって、割増料金を支払うことで魔信を使うことができる。そして魔信は基本的に、郵便局で専用のフォームに書き込んだものを送る形で成される。
「なるほど、内容をでっちあげて、その場で暖まろうというわけですか」
「ああ。どうせ到着連絡は後で入れる予定だった、先回しになっただけだ」
そして文字を扱うことに関しては、彼らはプロフェッショナルなのだ。それらしい内容をたっぷりと考え込むさまをすることなど造作もない。そうやって少しばかり残業代を稼いで絞られたくらいだ。
「えーと、たしかスペルは…………」
不慣れなふりをして、一文字一文字ゆっくりと。間違えたふりをしてパンを貰って、書いて消してを繰り返す。ついでに腹の足しにパクリと、十分に時間を費やす。そうしておおよそ一時間半を経過させれば、彼らの目的は達成されるのだった。
————
少しずつ街が目を覚ましていくのを感じる。人々が各々の店を働かせにかかり、そのなかでアルゴが行かなければならなかった地図の店も、動き始める。看板にいはナイフとフォークが並んでおり、下に書かれた文字は『リンクス』、意味は山猫だから、山猫亭。
見た目にはただの食堂。しかし郵便局員より集まるヒューミントと、来客によってもたらされるものの集荷点。もちろん店主はアルゴの顔見知り。
ベルを鳴らして『閉店』から『準備中』になった中に入ると、ジョシュア・エドワーズが出迎えてくれた。
「やあ!久しぶりだねぇ!おや、今日は彼女連れかい?」
彼もまた、何度となく耳にした問いをする。いい加減やめてくれないかなと彼は辟易する。白くなくなった息を吐き出す。
「助手見習いだよ。厳密に言えば試用期間中だがね。そしてそれを言われるのはローランに続いて君で7人目だ」
ジョシュアはサービスでホットコーヒーを淹れて出し、「いつもので大丈夫だよね?」と問いかける。
「問題ない」と答えれば、彼はマギア・ライターで火をつけて薪を焚く。
「人数からして、おそらく雑貨をそろえて銃を買って、新型蒸気魔導のために気をせって、ここに朝いちばんといったところだね」
そしてジョシュアは完璧にアルゴの行動を解説して、「違うかい?」と吐く。
「そのとおりだが、間に原稿でカンヅメが入る」とアルゴは付け加え、彼の元にエルが歩いた。
「エル・シュテリニと言います。これからどうなるかはわかりませんが、よろしくお願いします…………」
彼女は手袋を脱いで手を差し出す。火がひと段落した彼は、握り返して食材と向き合う。
「君のことは聞いているよ。お父上のことも、何を間違えてムシモールにやってきてしまったこともね。でもまあ心配しなくていい。先輩は優しい」
「それは……まあ、はい」
「それに僕の店は君たちならタダだ。気になることがあったら————まあそんなに気軽に来れる場所じゃないけど、でも来れば歓迎するよ」
ザワークラウトを前菜に出して、ナプキンを並べ、トマトとオートミールを鍋に放り、軽く煮立たせて皿に並べる。いくらか胡椒とチーズを沿えると、彼は次の調理に入った。
「メインまではちょっと待ってね。まだ干し肉が戻ってないから」
シンプルに塩といくらかの調味料で構成されたリゾットは、二色の赤と一色の黄色をもって甘く香る。水分を吸い込ませつつ、熱でふっくらと炊き上がっていて、トマトの身とエンバクで感触も楽しいだろう。
楽しみにアルゴがナプキンを取ると、その中に丸め込まれた紙がある。それをエルにもわからないようにパームし、首に巻き付けるときに襟のポケットに隠して、それより今はとスプーンを握る。
口に運べば見た目の通りだが、しかし中に隠されたトウガラシの辛さが、チーズによるリセットを求めさせるのである。その上で動物質の名残りが、植物質の単調さを取り除き、まろやかに深める。
先にコーヒーとザワークラウトで酸味を味わい、次に脂分を味わったからか、その次にはパンが欲しいなと思わされた————もちろん期待の通りに、彼は干し肉とグレービーにレタスのサンドを並べてくれた。
隣には再度コーヒー。今度はローストがさらに浅く、さっぱりさせるもの。
「またいくらか腕を上げたか?」
「久しぶりに来る人みんなそういうよ。僕はずっと変わってないんだけどね」
「嘘をつけ、リゾットに胡椒が見えたぞ」
「ありゃ、ばれた…………でも、おいしかったでしょ?」
嬉しそうに彼はエルの顔に質問した。まだ意思を隠すことになれない彼女からは、彼が満足する答えがあった。
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