8、雷丸(いかずちまる)
木製の厚い玄関扉を開いた途端、耳をつんざくような雷鳴が襲ってきた。
稲光が夜空を縦横に切り裂いている。勉は酸っぱいものでも食べたように顔をシワシワにした。
「家の中では、地響きしか感じなかったのに」
「建物をおおう蔦のおかげよ。蔦は精霊を招きやすいけど、同時に精霊が引き起こす災いからのバリアの役目も果たしているの」
光一の疑問を聞きつけた先生が、耳元で教えてくれた。
「クウォーン、精霊が喜んでいる。なんとも見事だ」
清水探偵が花火見物でもしているように叫んだ。
「さあ、光一君、左手を大きく開いて!」
「えっ、うん」
わけが分からなかったが、光一は左手を開いた。掌にできた窪みが、稲光のような線を描いて眩しく光っていた。驚いて思わず握ってしまった。
「やはりの。坊や、怖がる必要はない。その手の窪みは、雷丸の雷光の瞳を納めるためのもの。ただの窪みなら、そんなに光ったりはせん。わしの予想ではな」
空を見上げながら清水探偵がいった。
「予想だなんて、そんな無責任な」
「大丈夫よ。あなたが雷光の瞳を手に入れたのは偶然ではないわ。きっと何かの導きがあったのよ」
・・自信をもて、我は君とあり・・
先生の声に混じって、どこからか低い声が聞こえたようだった。
辺りを見回したが、それらしい人はいない。先生には何も聞こえないようだった。
光一は頭を振りながら、思い切って左手を開き、空に突き出した。
「瞳を閉じよ。雷丸!」
誰に聞いたわけでもないのに、喉の奥から声が飛び出した。
途端、掌の窪みから青黒い竜巻が生まれた。それはあっという間に巨大化し、雷光がまたたく夜空に伸びていった。
手から伸びた竜巻は、獲物を飲み込む蛇のように稲光を吸収していった。その度に光一の体に激しい電撃が走った。でも不思議なことに、それほど痛くはなく、内側から力が湧いてくるようだった。
やがて竜巻は、とびきり大きな稲光に食らいついた。どうやら、光の根っこを捕まえたらしい。そのまま竜巻は、先を明るく輝かせがら小さくなっていき、見る間にも消えてしまった。
「!」
いつの間にか、目の前の空中に、あの虎目模様の玉が浮かんでいた。
光一はそれを右手で掴んだ。左手の窪みにはまってしまうと、取り返しのつかないことが起こりそうな気がしたからだ。
「ふー、大丈夫?」
地面に膝をついていた先生が立ち上がった。勉は凍りついたように立ち、鼻をひくつかせている。清水探偵は長い舌を出してポーチに伸びている。どうやら皆、雷のショックを受けたらしい。
先生が悪戯っぽく微笑んだ。
「お調子者の父さん、たまにはこんなショックもいいかも」
空を見上げると、ほんの数十秒前の天気が嘘だったかのように、静かに星が瞬いていた。
「さあ来たわよ」
先生が空の一角を指さした。
大きく旋回しながら、輝く鳥がゆっくりと降りてきていた。時折、鋭い羽音が聞こえる。白い体だが、サギのように首は長くない。トビかタカのようだ。
「巨大なハヤブサだ」
勉がつぶやいた。その目はまだぼうっとしている。しかし、白いハヤブサなどいるのだろうか。あれこそが雷丸か・・
優雅に空を滑ってきた鳥は、地面を掠めるように接近し、四人の前に降りたった。が、次の瞬間、鳥は光一らと同じ年ぐらいの少女に変身した。
「き、君、あの」
光一は慌てて片手で目を塞いだ。少女は全くの裸だったのだ。
「人間とは心が狭い。千年以上も我慢し、やっと自由になったと思うたら、すぐに瞳を奪ってしまうなぞ」
鈴のように可愛らしい声だった。指の隙間からのぞくと、その娘の両目と額の間に、小さな切れ目があった。
「あなたは・・はるか以前、いずこにてお会いしたような・・」
指のスリット越しの光一の目をのぞき込んだ少女が、妙なことを口走った。が、すぐに首を振った。
「あいや、思い違いじゃ。さあ、瞳を返しなされ!」
少女は光一の右手を取り、無理に開かせようとした。全裸の女子にいきなり手を捕まれるなど・・光一はどうしようもなく、ぎゅっと玉を握り込んだ。
「痛い!ごめんなされ。もう無理はいいませぬ、わが主人よ」
少女が叫んだ。額に手を当て、苦しそうに息をしている。
「光一君、手の力を抜いてみて」
いいながら先生は、羽折っていたカーディガンを少女にかけた。手を緩めると少女はほっと息をついて俯いた。
「ほんの、悪戯心というに」
光一の口はあんぐりと開いてしまった。
『この娘が、さっきまで雷をまき散らしていた雷丸?それに・・僕を主人と・・』
「雷丸、あなたの霊力は、この光一君が握っています。あなたが大人しくしていると約束するなら、瞳を返しましょう。ただ、今のように、いつでも取り去ることができることを忘れてはならない」
先生が表情を変えずに低い声でいった。このような先生は初めてだった。学校で叱る時は眉をつり上げたり、声のテンションを上げるが、それよりずっと怖い。
少女は、先生を睨みつけた。
光一は少女の前に左手を開き、中の窪みを見せつけてみた。
「ああ、それは!」
少女の目が見開いた。恐怖、そして憧れが混じっているようだ。
「光一殿といわれたか。我が雷光の瞳、その手に納めれば、私そのものが、あなたの中に溶け入りまする」
「へっ」
光一は慌てて左手を握った。こんな娘が体に入ってくるなんて・・とんでもない。
「雷丸よ、今一度、聞きます。大人しくしていると約束できますか」
「是非もないこと。約束いたします」
「じゃあ、光一君、雷丸に瞳を返してあげましょうか」
先生の顔には、優しい微笑みが戻っていた。
「いいの?」
「精霊は人間と違って必ず約束を守るの。だから大丈夫」
光一が右手を開くと、雷光の瞳が宙に浮かび上がった。
窪みのある左手にゆっくりと近づいていく。開いていた左手を握り直すと、方向を変えて少女の額に吸いこまれるようにはまった。
それと連動するように、左手に電気が走った。そっと開いてみたが、何も起こらなかった。
「ありがとうございまする」
少女は大きな黒目で光一を見つめ、掠れた小声でいった。胸がどきどきしてしまった。真っ直ぐな黒髪の少女は、これまで見たこともないくらいに可愛いかったのだ。
「ど、どういたしまして」
もごもごとしゃべっていると、先生が拳骨を頭に落とした。
「こら!雷の精霊に心を奪われてどうするの」
「それで、この女の子はだれ?雷丸はどこ?」
今まで、ぼうっとしていた勉がまばたきをしながら話した。
その後、鼾をかき始めた清水探偵を玄関の中に移動させ、光一と勉は先生の運転する車で家に送ってもらった。
雷丸は、ハンドルを握る先生の隣に大人しく座っていた。
「・・はて、木々の精霊、地の精霊、全ての精霊の力が弱まっている」
時折、窓の外に顔をつき出しては、小さくつぶやいていた。
勉と自転車を先に降ろし、そのあと光一の家に回ったが、光一が降りようとすると、雷丸も立ち上がろうとした。
「私の霊力は光一殿と共にある。私があなたに連れ添うのは、当然の定め」
そういって光一の顔をのぞきこんだが、先生がきっぱりといった。
「あなたは私と一緒にいるのよ。この世界に出現したあなたは、学ばないといけないことがたくさんあるわ」
「そう、この人は僕の先生。だから、言うことを聞かなければいけない」
この言葉に、雷丸は小さく肩を落としシートに座った。
先生は、車を降りて、光一を玄関まで送ってくれた。
呼び鈴を聞いてドアを開けたのは父さんだった。いつも家にいる時の服装、白い股引とTシャツ姿。人前に出るには恥ずかしい格好だ。
「やや、先生。今ちょうど風呂から出た所で、こんな格好で失礼します」
言い訳がましく説明した。
「すみません、息子さん、遅くまで引きとめてしまって」
丁寧にお辞儀をした先生は「じゃあ、また明日」といい、車に乗り込んでいった。
「清水先生って、いい香りがするなあ。おまえにも移っているぞ」
父さんは光一の周囲をくんくんと嗅ぎながらつぶやいた。先生に憧れるのは分かるが、母さんが聞いたら何というだろう。それにこの香りは、地底霊に飲み込まれないためのラベンダーの香り。
『手が届かない花の香りを楽しむ父さん、明日も仕事、頑張ってね』
光一は小さくつぶやいた。
その夜、光一はなかなか眠れなかった。
ベッド横の青白く光る時計の針は、すでに0時を過ぎている。チッチと時間を刻む音が、静まり返った部屋に大きく響いている。
隣の部屋の父さんと母さんは、もう寝たのだろう、壁の向こうからは何も聞こえない。予想と違い、母さんはえらくご機嫌だった。勉強を聞きに行ったという先生の電話を信じていて、
「光一も、やっとやる気になったのね」と臨時の小遣いまでくれた。あまり誤解されては困るが、悪い気はしなかった。
父さんは「今度、先生の家にお礼に伺わなければな」などと余計なことを考え始めていた。とにかく家の中は明るくて平和だった。
「けど、」
光一の心はざわめいていた。
様々な出来事が嵐の時の高波のように押し寄せて、ぜんぜんまとまらない。誰かに話せたら、すっきりするのだろうけど、そうはいかない。左手の窪みの辺りが、時折ビリビリと痺れた。
・・・ありがとうございまする・・・
ぼうっとすると可愛らしい少女の顔が浮かんだ。
『だめだ。他のことを考えなくては、考えなくては・・ ・・ ・・』