14、信二の病室
三階ロビーでは、先程と同じく看護師がソファーに座り、時計を見つめていた。
あと三十分で一時。その時には催眠が解けて、足元を埋めつくす鼠の大群に気づいてしまう。もし、パニックでも起こして暴れたら、鼠たちは鋭い歯を看護師の体に突き立てるだろう。
「急ごう」
光一とひかりは灰色の流れに沿って廊下を進んだ。
一つの病室のドアの前で、鼠たちが小山のように盛り上がっていた。壁のプレートには、信二の名前が書かれている。この病室にいるのは信二ひとりだった。
カリカリカリ・・ ・・
ドアを噛む音が不気味に響いている。幸い、病室のドアは金属の鉄板でできているらしく、表面の白い塗装が剥げたぐらいで穴は空いてなかった。
でも、このままではいけない。信二は、それにこの階にいる患者は、病室から出ることができないのだ。
「これじゃ、信二と会うことさえできない」
「光一殿、これを入り口付近にまきましょう。さすれば、鼠たちが病室に入ることを食い止めることができます」
ひかりは病室前の洗面器の中の液体を床に流した。消毒剤の臭いが鼻につく。折り重なっていた鼠たちは、引き潮のようにドアから離れた。足元の小さな水溜まり、そこには電気が流れているので、鼠たちは近づけないのだ。
光一はそっとドアを引いた、が、
息が止まるほどに驚いた。全身に包帯を巻かれた信二が目の前に立っていたのだ。
「どうしてここに?」
光一が口を開く前に、信二が掠れ声で聞いた。ドアの前には、波のように盛り上がる鼠がいる。なのに驚く様子はなかった。
「おまえを助けに来たんだ。ここにいたら、鼠に噛み殺されてしまう」
光一は信二に手を伸ばした。
ひかりの電気を帯びながら信二を背負い、別の場所に避難させるつもりだった。電気ショックで気を失ってしまうかも知れないが、死には至らないだろう。
しかし、信二は身を引いてうつむいた。
「どんなに逃げても無駄さ。それにこれは俺が始めたこと。自業自得なんだ」
「自業自得?」
「そう・・英才ゼミナールって知ってるだろう。俺、あそこに通っているんだ」
信二はうつむいたままだった。
「二ヶ月前に、塾は今の場所に引っ越したんだけど、俺は古い塾に忍び込んで、家捜しをしたんだ」
「なんで、そんなことを」
「いい点を取るためさ。これからする試験の問題が残っていないか探したんだ。でも見つからなかった。そしたら地下にパソコンが残っていた。捨て去られた古いパソコンさ。俺はそいつに何かを感じたんだ。それで、そこに通って祈ったんだ。
俺の試験の点が平均点未満だったら、インターネットから侵入して、皆のデータを消して下さいって。さもなければ電力をストップしますよって。
それが逆に作用してしまった・・元に戻したかったけど、塾の入り口の鍵が掛け替えられて、だめだった」
信二の話は、光一には理解しがたいことだった。
『何でパソコンなんだ。鼠に襲われることに、どう関係する?』
「もし今夜が無事に済んでも、試験があれば、また鼠はやってくる。もういい。勉強にもうんざりした」
信二は灰色の群れに足を踏み出した。が、水溜まりに触れた途端、身体を引きつらせて、その場に倒れた。かなりの電圧が流れたらしい。
水の縁の鼠たちは、崩れかかる大波のように膨れ上がっていた。信二の謎めいた言葉を考えている余裕はなかった。
「ひかりちゃん。僕、信二を背負うから、ずっと体に触っていてね」
光一は信二に手をかけたが、ひかりが首を振った。
「いけませぬ。これ以上の電撃は、彼には負担が過ぎます」
「でも、このままでは、どうにもならないよ」
「群れに混じっている首領格の鼠の食欲を満足させさえすれば、問題は片付くはずです」
ひかりがいった。
「ここには食べ物もお菓子もないんだよ」
光一は途方に暮れた。
ひかりが激しい稲妻を放てば、すぐにも鼠たちを退治できるだろう。
しかし、ここは病院、例え、床に帯電防止処理がされていようと、上の階や下の階の医療機器に影響し、患者を死の危険に晒してしまうもしれない。もとより、ひかりがそのような事をするはずがないのだ。
【よくかんで食べましょう】
全く皮肉なことに、部屋の壁に、鼠が体より大きなステーキに噛みついているポスターが張ってあった。
【よくかむと・・】
説明がイラストとともに書かれている。
「まてよ!」
光一の目は、小さなイラストに釘付けになった。
それは脳の絵だった。脳の中央より少し前、視床下部という所に電気が光り、「お腹いっぱい!」とセリフがついている。よく噛めば、脳の満腹中枢が刺激され、余計なものを食べなくなり、ダイエットにも役立つことを教えていた。
「ひかりちゃん、あれだ。あの絵みたいに、鼠の脳に電気を流せばいいんだ。そうすれば、体を傷つけることなく、エサを食べたと思わせることができる」
光一はポスターを指さした。ひかりの顔が曇った。
「それは大変むずかしい。さらに鼠への電気刺激はごく微細なもの。上手くいかなければ、鼠たちは信二君を、それに光一殿まで襲う」
「とにかく、その方法しかないよ」
「・・承知しました。しばしお待ちを」
ひかりは鼠の群れをじっと見据えた。信二の顔や、ここまでの地図が心に刻まれている首領格の鼠を探しているのだ。
光一はその間に、信二をベッドに寝かせて毛布を被せた。ベッドの足の高さは四十センチ程ある。折り重なった鼠たちが襲いかかってくるまで、少しは時間がかせげる。
「では、いきますぞ。光一殿もベッドの上に」
光一がベッドに飛び乗るのと同時に、廊下に立ち上がっていた灰色の波が、部屋になだれ込んできた。ひかりの姿は鼠の群れの中に消えた。
「忘れていた」
光一は、先生から渡された発信器の粘着テープを剥がし、群れに飛び込んだ。
目の前に、白い手が一匹の鼠を押さえているのが見えた。その体毛に粘つく発信器を張り付けると、息も絶え絶えにベッドの上に戻った。
「ひかりちゃん・・」
光一は、自分がひかりに要求したことの過酷さを思い知った。
『いや、彼女は人間じゃない。大丈夫だ・・」
実際、余計なことを心配している暇はなかった。予想より遥かに早く、鼠の洪水はカサを増していったのだ。
最初の一匹がベッドの上に飛び乗ってくるまで、ものの一分とかからなかった。光一は信二を覆った毛布を大の字になって押さえた。
体はあっという間に、生きている毛皮に包まれてしまった。俯せになった顔の周囲に、無数の息遣いが、沸騰したヤカンの湯気のようにかかってくる。
「痛い!」
一匹が毛布を押さえる指を噛んだ。と思いきや皮ふが出ている所を全て噛まれ始めた。手足はなんとか我慢できるが・・
『耳は勘弁して!』
痛みに意識が遠くなりかけた所で、急に体が軽くなった。頭を起こせば、灰色の群れは廊下に流れ出ていくところだった。
「まさか」
光一は息を飲んだ。
ひかりが床に倒れていたのだ。ベッドから飛び降りて、細い体を抱き上げた。幸い、息はしているが、顔も手も、無惨な噛み傷だらけだった。
『ああっ』
光一は大きな勘違いをしていたのだ。精霊とはいえ、体をもっていれば怪我をするし、血も流すのだ。
「光一殿」
ひかりが薄く目を開けた。
「しっかりして。君はやったんだ。鼠たちは引き上げていった」
「そのように優しくして下さるな」
掠れ声で発したひかりは、再び目を閉じてしまった。何処かに消えてしまいそうに、存在感というものが乏しくなっている。
「ひかりちゃん、死んじゃだめだ!」
光一は叫んだ。