記憶と、想い出 1
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自室から何気なく外を眺めていたルエは、風に乗って聞こえてくる声に顔をぴくりと上げた。夕食の準備をしているマーシアに、少し外へ行くと伝え、足早に水路の橋へと向かう。マーシアが何か言っていた気がしなくもないが、後できちんと謝っておこう。
橋を渡り、茨の閉ざす先を見ようと目を凝らしていると。
「だーかーらー、少しくらい待てって……」
茨が左右に開かれると、飽々している様子のハヤトと、右腕を固定された姿のゼロが。歩きづらそうにしている辺り、ゼロは足も怪我しているのだろうか。
立ち竦むルエに気づいたハヤトが何か言いかけるが、これといった言葉が思い付かず、とりあえず適当に片手を上げて挨拶をする。ルエも反射で片手を上げるが、端から見ると可笑しな光景ではある。
「……ん?あー、ルーちゃん、ただいまー」
ゼロも同じように片手を上げ挨拶すると、はっと我に返ったルエが慌てて「お帰りなさい」と返す。
「ゼロ、その怪我は……」
「あー、これ?ちょっと転んだ」
な?とハヤトに視線を送ると、彼は少しばつが悪そうに顔を歪めながらも、こくりと頷いてくれた。その優しさに感謝しつつ「先行くぜー」とひょこひょこ橋を渡った。
塔の中に消えていったのを確認すると、ルエは不安げにハヤトを見上げ、
「本当は違うのでしょう?」
「それは……」
こうなることは予測できた。ゼロとしては、別に話されても構わないのだろうし、ハヤトとしても、ルエに町の出来事を話しても何も……いや。自分の弟が原因ですとは話せない、話したくない。
少し躊躇い、ハヤトは渋々と一言。
「梯子から、おちたんだ……あいつ……」
なんとも酷い言い訳とは思う。これではルエも納得はしてくれないだろう。
「……わかり、ました」
疑いの目を向けられてはいるが、これ以上の詮索はしてこないだろう。見上げてくる視線に耐えきれず、ハヤトも足早に塔へ向かおうとする。
「……?」
服を引っ張られる感覚に足を止め、反射的に振り返る。俯くルエからは、全く表情が読めない。
「前も……」
ぽつりと溢された呟きは、今にも泣きだしそうで。
「前もあったんです。腕から血を出してて……。帰ってきてすぐ倒れて……」
服を握る手が微かに震えている。
「ゼロは私には何も教えてくれません。最近は特に町に行っているようですし……。本当に、大丈夫なんでしょうか……」
ぽたぽた。
地面に落ちていくそれを見て、ハヤトは優しくルエの手をほどいてやると、代わりに両手で包んだ。驚いたように顔を上げるルエと視線が交じりあう。瞳から流れるそれは、少しだけ止まったように見えた。
「大丈夫、だと思う」
「思うって……」
少しルエの顔が綻んだ。
「大丈夫!ではなく、思うって……ふふふ」
そのまま笑うルエを見つめ、安堵し、そういえば……と。
昔、同じように、笑っていた少女がいた気がする。自分はその笑顔を隣で眺め、向けられる度に守りたいと、そう感じていたはずだ。
「……ルエ」
「は、はい……」
聞きたいことが、と切り出そうとすると。
「そこの手ぇ握り合ってるお2人さーん。早く中来いよー!」
塔から聞こえてきた野次に、思わず強く手を離してしまう。ルエは気にしてないかと横目で見ると、微かに染まった頬が見えた。
「あ、あの、ではお先ですっ」
ぱたぱたと駆けていく背中を見送り、ふと水面を覗き混むと、負けじと微かに頬を染めた自分がいた。
※
夕食と風呂を済ませるとーールエが浴びている間はゼロが小屋の前にいたーー後は各自の時間だ。マーシアは後始末と明日の準備、グレイは何やら話があると言って、ゼロを連れて行ってしまった。
すれ違いざま、手出すなよと言わんばかりの剣幕を向けられた。間違っても王女に出すわけがない、多分。
「あ、ハヤトくん」
自分も寝ようかと、4階まで上がる途中で、降りてきたルエに声をかけられた。無視するわけにもいかず、適当に「あ、あぁ」と短く返した。
「ちょうどよかったです、これからお散歩に行きませんか?」
先程ゼロに睨まれたところだというのに。しかし、自分を見つめる無垢な瞳の前では、頷く以外の選択肢などなく。
「せめてマーシアには声をかけてからにしてくれ……」
ふわりと笑い「はい」と降りていく足取りが軽そうだ。自分は明日を考えると、いや今日の夜中かもしれないが、とても重いのだが。
マーシアに散歩へ出ると伝えると、少し大きめの薄い毛布と、小ぶりの篭を渡された。中には、紅茶の入ったボトル、小さめのカップが2つ、心ばかりのマカロン。敷物もあるのを見つけ、さすがに準備よすぎないかと思ったが、たまにルエはゼロと散歩していることを聞いて納得した。
つまり、今日はゼロの代わりなのかと感じる自分に、ハヤトは少し驚いた。別に誰と行こうが関係ないどころか、ゼロのほうがルエとは付き合いが長いというのに。
小屋のさらに裏手を進んでいくと、湖のある開けた場所へと出た。湖面に映る月がやけに綺麗だ。
ルエは適当な木の下に敷物を広げると、ボトルとカップ、マカロンを手際よく用意していく。ハヤトもおずおずと隣へ座ると、何をするでもなく、静かに湖面を見つめていた。
「……私がここに来たのは、3歳の時らしいです」
ルエの声で彼女に視線をやるが、その瞳は真っ直ぐ湖面を見つめていた。
「正直、3歳と言われてもよく覚えていませんし、ここ以外の世界を、私はよくわかりません」
手が冷えてきたのか、息をほぅと両手にかけ暖めている。
「でも、なんとなく覚えていることがあって。いつも優しい兄と、兄と一緒にいた人が私の側にいてくれて」
「それ、は……」
自分にも、それはなんとなく覚えがある。ただ、それを思い出そうとすると、そこだけなぜか真っ黒に塗り潰されたかのように、何も無いのだ。
「可笑しいですよね。こんなこと、ハヤトくんに言っても困るだけなのに」
自嘲気味の笑いが、やけに虚しい。
ふわりと吹く風がルエの髪を掬うと、その合間からは淋しげな、何かを探すような横顔が見えた。
「ハヤトくんの髪が、ほとんど思い出せないあの人と……空色の騎士様と同じだったから。だから、こんなこと、話しちゃったんだと思うんです」
そう、困ったように笑うルエは、小さく「すみません」と呟き、冷えてしまったであろう紅茶に口をつける。それ以上話す気はないのか、足を抱え込み、その中に顔を埋めてしまった。
ハヤトも紅茶に口をつける。もうすぐ木々が芽吹く季節になるとはいえ、やはり夜は冷える。紅茶は冷たいまま喉を通っていった。
「……寒くないか?」
「え?あ、は、はい、大丈夫です」
いきなりで驚いたのか、びくりとハヤトを見返すその顔は、鼻が少し赤く染まっていた。それに苦笑すると、ルエは不思議そうに首を傾げる。
「あぁ、すまない。ほら……マーシアが用意してくれたんだ。風邪でも引いたらどうする」
優しく毛布をかけてやる。ルエは端をきゅっと掴み、二人の間に置いていたマカロンとボトルをどけると、
「ハヤトくんも風邪引いちゃいます」
と隣へ詰め、毛布の端を渡してきた。少し躊躇いつつも自分の肩に回すと、すぐに暖かくなってくる。毛布が暖かいのか、それとも隣の彼女なのか。
風に乗って柑橘系の香りが鼻をくすぐる。彼女からかと認識すると、自然に腰に手を回し抱き寄せていた。
一瞬その瞳が揺れるが、それは本当に一瞬で。肩に感じる重みに心地よさを感じながら、きっと、想い出の少女は、彼女なのだろうと感じていたーー。