青の少年、黒の少女 3
暖かい紅茶が注がれたカップをぼんやり眺めながら、西に早く帰りたい、とハヤトは心の中で呟いた。いや、もう戻ることは無理なのだが。
テーブルの反対側に座る少女に目をやると、彼女は後ろに立つゼロに、何やら不服そうな声をあげていた。ゼロは慣れているようで「だって」だの「でも」だのと反論しようとしている。少女自身にも問題がある気がするが、それを言ったら自分にだって問題はある。
少女は見られていることに気づいたらしく、ハヤトのカップをそっと勧めながら
「よかったらどうぞ、飲んでください。初めて淹れてみたんです」
と、ふわりと笑った。綺麗よりも可愛さがまだ残る少女は、自分のカップを手に持つと一口。少し固まった後、今度はぎこちない笑みを浮かべながら
「やっぱり飲まないほうがいいかもです」
「……いや、頂かせてもらう」
ハヤトも一口。
「げほっ」
渋い。あまりにも渋すぎる。
ハヤトは一口しか飲んでいないそれをことりと置く。これ以上は限界であった。少女もあまり口をつけずに戻すと、ふぅと一息吐き出した後、ハヤトを真っ直ぐ見つめ切り出した。
「初めまして。私はルエディア・サガレリエットです。貴方はどうやってここに来たんですか?」
黒い瞳が不思議そうにハヤトを見つめている。
どうやって、とは茨の抜け方か、それとも石壁のことか。ケディラのことかもしれない。どう答えようかと暫く考えた後、ハヤトはルエディアを真正面から見つめ返した。
「ルエディア、王女は、なぜこの塔に?」
王女、だと断言はできないが、黒髪のこの少女は、少なくとも王族であることは確かである。ならば王女と呼ぶのは間違いではないはず。なぜ、王女がこんな塔にいるのか。質問されているのはこちらだが、あんな目にあったばかりなのだから、これくらいは許されてもいいだろう。
控えているゼロが睨んできたが、それを気にしていては話も進まない。ハヤトは渋みのある紅茶を一口含むと、ルエディアからの言葉を待った。
「私、ですか?私は……わからないのです。あまり覚えていないのですが、気づいた時から私はここで暮らしていました。知っているのは、私は王族らしいということと、誰も私がここにいることを知らないことくらい……」
色々とおかしな点がある。実際ルエディアは、自分のことをサガレリエットだと名乗った。サガレリエット家が、黒髪をもつ王族ということくらい、中央の民なら誰もが知っていることだ。それを、らしいで済ませるのは無理がある。さらにその王族が塔に住んでいることを、民だけならまだしも、同じ王族が知らないとはどういうことなのか。
ならばなぜジェッタは知っていたのか、そして自分にそれを教え、一体何をしようとしているのか。ハヤトは口元に手をやり考え込むが、ジェッタの考えなど知るよしもない。
「あの」
「ん?あ、あぁ、俺……いや私がここにどうやって来たか、だったか……」
ルエディアはふふふと笑い、ハヤトに優しく首を振ってみせた。
「貴方の話しやすいようにしてくださって構いませんよ。それから私のことは、ルエで大丈夫です。なんだか実感ないですし……」
そういうわけにもいかないとは思ったが、ずっと西で王族とは無縁の生活をしてきた自分には、正直その申し出は有り難かった。ハヤトは「そうさせてもらう」と断りを入れると、面白くなさげな表情をしているゼロをちらりと見てから、紅茶を飲み干し話し始めた。
「俺は王宮騎士団団長から、ここへ配属を決められてきた、ハヤト・エイピア・ウィンチェスターだ。入口にいた神霊は誰のものだ?」
ルエディアーールエは目を丸くした後、ゼロに目をやるが、ゼロもわからないと両手を上げている。この様子だと、あの神霊は2人が造ったものではないらしい。いや、ゼロには造れないのだろうから、正確にはルエが造ったわけではないらしい。
だとしたら、さらにわからない。
誰がルエを塔に閉じ込めたのか、なぜジェッタは知っているのか、ここでの生活は?なぜ出ようとしない?疑問がいくつも浮かぶ中、ルエが何かを思い出したように手をぽんと叩いた。
「ハヤトくんには、4階のゼロの部屋で一緒に寝てもらいましょう!」
「は!?いやいやルーちゃん、ベッドひとつしかないし」
「でもゼロはハヤトくんとお知り合いなんですよね?嫌なら5階の私と一緒に……」
ルエの言葉を待たずして、ゼロは勢いよくハヤトに歩み寄ると、嫌そうな笑みを張りつけて
「今から木切りに行くぞ」
と、ハヤトの返事を待たずして腕を引っ張っていった。残されたルエは、暫くきょとんと座っていたが、思い出したようにカップを片付け始める。ハヤトのカップに何も残っていないのを見ると、少し泣きそうな、それでいて嬉しげな笑みを浮かべたのだった。
腕を引っ張られていたハヤトは、いい加減にしろと言わんばかりに、橋の上についたところで振り払った。
「なぜ木を切る必要がある」
「いや、ただの口実?」
少し高い位置にある瞳を睨むと、やはりゼロは特に何も感じていないようで、少し背伸びをした後、しかしどこか悲しげに微笑んだ。それに気まずさを感じつつ、耐えられなくなったハヤトは、自分の足元に視線を落とす。
別に、ゼロが、悪いわけではない。
自分があの場所から、立ち位置に堪えられなくなって、少しでも遠くに逃げたくて。西に行ってからゼロがどうなったのかも知らないし、知ろうともしなかった。
少しでも知ろうとしていたら。そこまで考え、ハヤトはどうしようもないと首を振った。かつての親友は、もう、恐らく、自分をそう思ってはいないのだから。
「……あのさ」
ゼロの言葉で我に返る。続く言葉を待ちながら、それでもハヤトは視線を上げはしない。
「ここに来たんならさ、ハヤトも茨に所属したってことだろ?つまりそれって、目的は同じなわけだし……」
「まぁ、そうなるな……」
正直納得はしていないが。それを口にしないのは、この先の言葉で、昔に、親友と呼んでいたあの日に戻れそうだったから。
「ルーちゃん守るためなら、オレはハヤトに突っかかるのもやめるわ。もう、どうでもいいからさ」
何かで叩かれたかと思うくらい、それはハヤトにとって衝撃だった。昔には戻れない、そう言われたのだと。ハヤトは「そうだな」と枯れた声を絞りだし、ゼロの先を歩き出した。
自分はここに、何をしに来たんだろうか。配属とは聞いたが、実際何から守るんだろうか。違う、きっと自分は。
塔へ追いやられたんだと、ハヤトはそっと森へと入っていった。
※
ーー記憶の中に、黒髪の、怯えた女の子がいた。
座り込んで泣いているその子は、あぁそうか。
自分を見て、泣いているのだ。
泣かないでと言いたくて息を吐くと、口からゴホゴホと血が溢れてきた。
さらに強く泣く女の子と、息を切らしながら走り寄ってくる黒髪の男の子。
この兄妹はいつも一緒だ。
そして優しい。
視界がぼやけていてよく見えないが、きっと兄のほうも心配しているに違いない。
その口が、何かを言っている気がする。
自分の名前を呼んでいるのかと耳に神経を集中すると、聞こえたのは、神女しか紡ぐことが許されない詞。
……神の……、……の章。想いある……咲き誇れ……新緑の葉……芽生え……。
途切れ途切れの中聞こえる兄の声は。
いつしかそれは、記憶のどこか遠くへと、消えていったーー