第八話
とある放課後。
美南先輩と鈴鹿がいつもの如く稽古している。
よく飽きもせず毎日毎日清廉な気持ちで稽古に励めるもんだな。
そんなことを思いつつ、俺も飽きもせず読書に没頭する。
さくらさんはいつかの長机を出してきて勉学に勤しんでいた。
ほとんど図書館だなここは。
なにげなく彼女の学生鞄に目がいった。
そこには厳つい髑髏のキーホルダーがぶら下がっていた。
やっぱりこの娘は常に謎を与えてくれる。
どこの田舎の不良だよ。
けれども、俺も人のセンスをとやかく言える人間じゃない。
「へー、素敵なキーホルダーだね」
と当たり障りなく誉めてみた。
「えっ、もしかしてこの髑髏のこと?」
「うん。俺は……好きだよ」
「そうなんだー。変わってるね。さくらはそうは思わないけど……」
そう言って彼女はノートに目を落とし勉強に戻った。
俺のごきげん伺いは不発に終わった。
物言えば唇寒し秋の風とはさすが芭蕉。
もう秋は近いのだろうか。
俺はうら淋しい気持ちで本の世界に逃避した。
「ねえ、一色君、さくらちゃん。お客さんに入ってくれないかしら?」美南先輩がこちらの事情などお構いなしに声を掛けてきた。
「はーい」
とさくらさんが気の抜けた返事をする。
俺も本を閉じた。
「あれ、何やってるんですか? いつもと違いますね?」
「今日は濃茶よ」
「こいちゃ? ってなんすか?」
「濃茶っていうのは、いつも飲んでる薄茶と違って泡立てないで、ドロドロに練るようにして点てたものよ」
「美南先輩―、こんな感じでいいんですか?」
鈴鹿がお茶碗の中を先輩に見せる。
「上手じゃない。じゃあみんなで飲んでみましょうか」
「みんなでってどういうことですか?」
「あのね、濃茶は一杯を三人で回し飲みする作法なのよ。昔は毒見の意味もあったなんて一説では言うけどね。じゃあ私が飲んだら一色君、さくらちゃん真似して飲んでみて」
えっ!?
それじゃ間接キスじゃないか。
だが、美南先輩は慣れているのかあまり気にしている様子もなかった。
懐紙で茶碗口をぬぐって俺に回す。
美南先輩のことを意識せざるを得なかったが……作法ならば仕方がない、飲むとしよう。
味は濃厚でかなり苦い。
むせそうだった。
ふと顔を上げると、鈴鹿がこっちを気にする素振りを見せた。
……別にお前の点て方が悪いわけじゃないと思うぞ。
単純にお茶の割合に対し、水分が少ないんだ。
続いてさくらさんが飲む。
俺の後で嫌がってないかと、申し訳ない気持ちだったが、さくらさんは意に介することもなく、興味深げに濃茶を飲み始めた。
「うわっ苦い。お茶の塊そのまま」
と渋い顔だった。
漫画なら口がバツになっているだろう。
「ええ、あまり得意な人も少ないかもね。でも慣れるとなかなか癖になるのよ」
そのとき、俺はふと妙案を思いついた。
「そうだ、これに牛乳と砂糖を入れてみたらちょうどいいんじゃないか? 抹茶ミルク」
「牛乳も砂糖もないわよ。……ミルクアイスならなぜか冷蔵庫にあるけれども……」
と鈴鹿はお茶碗を下げた。
「おっ。まあそれでいいや」
俺は冷蔵庫からアイスを取り出し、器に盛り付けた。
そこに新たに点てた濃茶をかける。
抹茶アイスの完成だ。
「本当はお茶にミルクを入れたかったんだけどなー」
「どっちでも同じことでしょ?」
「それが違うんだなー」
「やっぱりあなたは偏屈の変態人間ね」
鈴鹿はあきれたようにそう言って、水屋に下がってしまった。
本来マナーが悪いとされていることをするから余計おいしいのだという、俺の高邁な真意は、残念ながら伝わらなかったようだ。
俺達の会話を聞いていた美南先輩は、懐紙で口を拭いながら、思い出したように、
「ああ、そういえばみんなにお願いがあるの。旭先生からなんだけど、今度先生が小学校に茶道を教えに行くらしいの。それで私達にお手伝して欲しいんだって」
「私は構わないですよ」
鈴鹿が真っ先に手を上げた。
「真夏ちゃんが行くならさくらも。子ども大好きだし」
「一色君もお願いできる?」
「でも俺なんかじゃ足手まといじゃ……」
実際茶道を教えられる身分じゃない。そもそも子どもは大の苦手だ。
自分がませガキだったからよく分かるが、あんな生意気なやつらのお守なんてまっぴらだ。
そんな俺の心中を察したか、先輩が、
「みなみ先輩からの、お・ね・が・い」
と小首を傾げ、目をウルウルと潤ませてきた。
しかもウインクのおまけつき。
グラグラと俺の心は震度7を記録し大きく揺れる。
こんな反則技を隠し持ってたんですかー。
「茶道といっても、ただお茶を点てて、お菓子を食べるだけみたいよ。それに小学校に行ってる時間は授業を休んでいいらしいから」
「えっ? ちょっとその話kwsk」
「だ・か・ら-」
と人差し指を立てた。
「午後の授業、途中で抜け出していいって許可出てるの」
授業をさぼれるのなら断る理由は無い。
態度を急変させる。
「わかりました。美南先輩がそこまで言うなら仕方ありません。わたくしめにおまかせあれ」
後日。
授業を途中で抜け出した俺達四人は、高校から小学校までの道を歩いていた。
ゆっくり歩いても一五分程で到着する。
途中近道として亀池公園を通り抜けて行った。
心地いいそよ風が、空と雲とが重なり合った穏やかな水面をそっと揺らす。
「何か悪いことしてるみたいね。平日の昼間から公園を歩いているなんて」
美南先輩が天を仰いで言った。
「うん。みんなで遠足に来たみたいだね」
さくらさんも楽しそうだ。
まるでサウンドオブミュージックのオープニングさながら、手を伸ばしクルクル回っている。
日光に反射した生糸のような光沢のある髪に、天使の輪が架かる。
もしも実際に天使がいるならばそれはさくらさんみたいな女の子のことであろう……。
制服のスカートが空気に持ち上げられふわっと浮いた。
……いくらなんでも無防備すぎる。
空気を含んだスカートは僅かな微風でさえもめくれそうだった。
しかし幸か不幸か風は吹かず、スカートの奥の秘密は死守された。
俺は照れを隠し会話を続ける。
「何とも言えない背徳感がたまらないよな。ほらあそこの車で営業さぼって昼寝しているサラリーマンいるだろ。同じ気持ちなのかな」
「未来のあなたを見ているようね」
と、酷烈な皮肉は鈴鹿流のあいづちなのだろう。
「うっうるさいなあ」
「でもあなたじゃサラリーマンも勤まりそうにないわね」
「ちっちっち。それが一概にそうも言えないんだな」
と俺は大袈裟に指を振る。
「俺はこう見えて昔から要領はいい方なんだ。面倒くさがり屋で自分本位の奴っていうのは、常に仕事をいかに迅速に処理し、定時で帰るかを考えてるから、かえって優秀だったりするんだぞ。かといって出世もせず、ぎりぎりクビにもならない程度に適当にやって、窓際でひっそり一日の大半を新聞読みに費やす、そんな明るく積極的に窓際族の一員として過ごすのが俺の将来の目標だ。昇進もせず、迷惑も掛けず、ソウイウモノニワタシハナリタイ」
「はーー」
と鈴鹿が厄介者を押しつけられたかのような溜息をした。
「あなたは高校生だからまだいいけど、もう少ししたら国家を揺るがしかねない奸邪な思想の持ち主ね。あなたみたいな人がいることを残念に思うべきか、はたまた一人しかいなくて幸いと思うべきか、悩むべき永遠の課題ね」
さすが鈴鹿……瞬時に俺を貶す言葉がこうも的確に出てくるとは。逆にあっぱれと感心さえしてしまった。
「英語のことわざに、Strike while the iron is hotというのがあるんだけれど……まあ知らないわよね?」
得意の英語を繰り出してきた。
澱みないネイティブ仕込みの発音が、妙に鼻に突いた。
「さっさあ……?」
「鉄は熱いうちに打て。あなたを矯正するなら今しかない……いや、もはや手遅れかしら?」
と言ってわざとらしく頭を抱え首を振った。
「おっ大きなお世話だ」
「今日だって手伝いにかこつけて、幼女目的で参加してるんじゃないでしょうね?」
「けだものみたいに……人聞きの悪いことを言わないでくれー」
「女子小学生相手に、自分のことおにいちゃんと呼んでなんて言わないでよ、恥ずかしい」
「やめろー。俺はもともとJSに関しては専門外だ」
「じゃあどこが専門分野なのよ」
「はいはい漫才は終わり。喧嘩しないの。小学生に笑われちゃうわよ」と、美南先輩は手を叩き
「ほら、公園を抜けた所にあるあの建物よ」
と指さした。
小学校に到着した。
通っていたわけでもないのになぜか懐かしい。
高校と比べて校庭が小さく感じた。鉄棒、うんてい、登り棒、タイヤの跳び箱……記憶が蘇る。
端の方には築山があった。
後でこっそり登ってみようかな。
職員玄関からお邪魔し廊下を歩いて行くと、教室の入り口の扉に、竹トンボつくり、おさいほう、昔の遊び、邦楽などといった張り紙がしてあった。
なるほど茶道はその体験授業の中の一つなのだろう。
茶道と張り紙のしてある教室に入れてもらう。
中には赤い毛氈が敷かれ、旭先生がお湯を沸かしせっせと準備をしているところだった。
「先生。こんにちは。今日はお手伝いさせていただきます」
「みんな学校あるのにごめんね。ありがとう」
着物姿でいつものように謹厳な雰囲気だが、茶室とは違い少し親しみぶかく感じた。
チャイムが鳴った。
前の授業が終わったようだ。
小学生達のにぎやかな声が校舎の隅々まで響き渡る。
次々と子どもが教室の中へ入って来て、全部で二〇人くらいになった。体験するのは六年生と五年生の児童。全部女子だった。
やっぱり男子は茶道なんて選ばないよな。俺が小学生だとしてもまず選ばない。
まずは旭先生が見本を見せる。
ちなみにここの道具は全部先生の私物だそうだ。
総額いくらするのだろう。
棗と呼ばれる茶入れから、茶杓といわれるさじでお茶をすくい、お茶碗に入れる。
柄杓でお湯を入れ、茶筅という名の竹の道具でかき混ぜる。
たったこれだけだ。
これくらいなら俺でも出来る。
……と言いたいところだが自信は無い。
旭先生の説明も終わり子ども達が一斉にお茶を点て始めた。
俺達は困っている子のお手伝いだ。
教室内を見渡すと、美南先輩とさくらさんは子どもが好きみたいで、さっそく輪に入り楽しそうにやっていた。
一方鈴鹿は子どもが苦手らしく、ちょっと戸惑いながらサポートしていた。
これだけ人数がいれば俺に用はないな。
よし、教室の隅でさぼることにしよう。
存在感を消すのは得意中の得意だ。
この賑やかな教室で、ここに胡乱な男がいることを、誰も気に留めない。
PTAに告げ口されないことだけを祈る。
そういえば、PTAはGHQの指導下でできたらしい。
だとすると、教師を見張る役割をPTAが担っていることになる。
ならば、指弾されるべきは、不審者を野放しにしている教師であって、俺は後ろめたいことは何もない。
……と滅茶苦茶な三段論法で自己正当化に成功した。
窓をわずかに開けてみた。
風が頬を撫でる。
雲足が早い。
小鳥のさえずりがどこからか聞こえた。
遠くを見ると小さく高校が見えた。
同じクラスのやつらはあそこでつまらない授業を聞いてるんだよな。
何もしないこの空白の時間がたまらなく心地いい。
俺は見るともなしに目の前の小学生の集団を眺めた。
早くもお茶を点てる段階にきているようだった。
あれ……?
よく見ると、自由にやっているとはいうものの、いくつかのグループに別れていた。
でもそりゃそうか。
こういうのは友達同士でどれにしよっかってワイワイガヤガヤ決めるもんだよな。
そんなこと俺も昔やってたな。
俺の近くには四人の小学生グループがいた。
しかし、その中で一人だけ、妙に浮いている子がいるのに気付く。
俺もそっち側の人間だからそういうことに関しては鼻が利くんだ。
ぱっと見は華やかでかわいく、クラスでも人気ありそうな女の子だが、その仕草は他の子に対し気を使っているようにも見受けられる。
そもそも他の子と全然しゃべらないし。
他の三人には失礼な言い方だが、地味な感じで一緒のグループなのは不自然ではない。
けれどもこれがあの子を入れて四人グループとなると、話はおかしくなる。
そこに小学校の先生が声を掛けた。
「あれ、ここは五年二組のグループだね。みんな仲いいね」
「うん。みんなで代りばんこにやってるんだ。ほら葵ちゃんもお湯入
れて点てたら?」
三人組の一人が、ことさら仲良しを先生にアピールするかのように言った。
「うん……」
先生は子ども達が仲良くやっている姿に満足感を得たのだろう、そのまま立ち去ってしまった。
しばらくして葵と呼ばれていた女の子が席を外す。
すると俺は、一人の女の子が周りを怪しく見渡したのに気づいた。
……まるで誰か見ていないかと注意するかのように。
その瞬間。
彼女は自分の茶杓と隣の子の茶杓を入れ替えた。
……あいつ何をしてるんだ。
葵という女の子が戻ってきた。
何か怪訝そうな顔をして自分の前の茶杓を見ている。
旭先生の声が聞こえた。
「みんなお茶は点てられたかな」
『はーい』
「うん。じゃあ使ったお道具は近くのお姉さんに、『ありがとうございました』ってお礼言ってから、ちゃんと返しましょうね」
先生……ここにお兄さんもいます。
「そしたらこっちに和菓子があるから、取った人から椅子に座ってね。今から茶道の紙芝居するから、見ながら食べようねー」
一体なんだ!
茶道の紙芝居って?
とても気になる。
が、俺はその件はひとまず置いといて、先程の女の子達の観察に戻った。
四人組の女の子達は、美南先輩に道具を返却していた。
「美南先輩、ちょっとその茶杓見せてもらえますか?」
「えっ」
先輩の返事を待たず、俺は茶杓を手に取る。
すると……
ポキッ。
茶杓は中心から真っ二つに折れた。
「……」
先輩の目が点になっている。
俺は慌てて拾い上げるが、掌にあるそれはもはや茶杓ではなく二つの竹の破片だった。
余談だが、茶杓は英語で――いつぞや鈴鹿に教えてもらった情報によると――Bamboo teascoop というそうだ。
Bambooは竹、teaがお茶。scoopには、ひとすくいという意味がある。
日本語でスクープ記事などと使われるのと綴りは一緒だ。
だがこれはスクープされないよう隠密に事を運ばなければ……。
そう隠蔽を決意したのだが、異変を察知したのだろう、いち早く鈴鹿とさくらさんが集まってきてしまった。
「その手に持ってるのって……。一色君、あなたまさか先生の大事なお道具を壊したんじゃ」
鈴鹿がいつもの五割増し冷たい目をした。
「違う違う」
俺は先ほど見た光景を、一部始終説明し誤解を説く。
「じゃあ好一君の推理だと、茶杓をあの女の子が過って壊しちゃって、それを葵ちゃんのせいにしたというのね」
さくらさんが俺の推理を復唱してくれた。
「ああ。しかも葵ちゃんもおそらく茶杓が壊れていたのを知っていた。なのにちゃんと報告せずに黙って返した」
「それに一色君がとどめを刺したのね」
誰かが冷酷に言い放つ。
「まあそれは間違ってないけど……」
俺は誰かさんから顔を逸らして答えた。
顔を逸らした先では、小学生達が楽しそうに紙芝居を見ながらお菓子を食べていた。
「でも一色君に見られるなんてその子失敗したわね。あなたの透明人間なみの存在感がなせる技と言うしかないわね」
再び何者かがいたぶった。
「鈴鹿さん……その婉曲表現は、褒めてるんですか? 貶してるんですか?」と、これは俺の心の声。
「でもどうするの?」
美南先輩はすっかり困惑しているようだった。
「このままにしておくわけにはいかないでしょう」
もちろん隠し通そうとしたことなんぞ億尾にも出さないで、一八〇度方向転換。
我ながらノンポリだなあ。
「だけどこの和やかな雰囲気を壊すの?」
さくらさんが楽しそうな小学生達を見ながら、心配そうに尋ねた。
「ねえ、ちょっとその茶杓見せて」
鈴鹿が組んでいた腕を解き、ブツを取りあげた。
「ねえ。茶杓って細いけど、あんなにぽっきり折れるなんてありえると思う?」
鈴鹿の存外な質問に、俺とさくらさんは顔を見合わせ首をひねった。
「美南先輩ならわかりますよね?」
「ええ……竹を削って作った道具だけど、自然にあんなふうに折れるなんてことはありえないわ……」
「じゃあなんだ。鈴鹿はあの女の子が故意に茶杓を壊したあげく、それを葵ちゃんのせいにしたって言いたいのか。それじゃまるで……」
そこまで言って俺は言葉を詰まらせた。
唾をゴクンと飲みこむ。
「いじめ……」
さくらさんが低い声で言った。
小さなささやきにも似た声音だったが、波紋はゆっくりと確実に広がり、俺達は重苦しい空気に包また。
一同しばし黙りこむ。
あえて考えないようにしていたが、いじめ、その通りだ。
目をそむけるわけにはいかない。
けれども葵ちゃんはいじめられるタイプではないように感じる。
申し訳ないけど逆ならわからなくもないのだが……。
俺は額に手を当て、どうしたものかと思案する。
そこにいつぞやの天啓が再び降臨した。
ここ何日かで一生分の天啓を使っている気がする。
「どこ行くの……一色君?」
美南先輩の声を振り切り、俺は紙芝居を見ていた小学校の先生にこそっと話しかけた。
「あのーすみません」
「なあに」
「これって、児童は自分で好きな体験教室を選ぶんですよね」
「ええそうよ」
「例えばですが、中には人気のないのもありますよね?」
「……まあそうね」
「そういう場合はどうするんですか?」
「それは……、やっぱりせっかく先生に来て頂いたのに、子ども達に人気がありませんじゃ、失礼じゃない。だからクラスごとあらかじめ人数を振り分けておいたのよ。それならどこかに偏るってことはないからね。まあ子ども達も一回やりはじめたら何でも面白がってやるんだけど」
「そうですか。ありがとうございました」
「ねえ今の話で何が分かったの?」
戻った俺にさくらさんが尋ねてきた。
「おそらく五年二組では茶道教室に四人入ることに、もともとなっていたんだ。あの地味な三人組は仲良しだから、自分達で進んで参加したのだろう。けれどもあの葵ちゃんという子は違う。おそらく別のもっとイケてる女子グループの一員だったはずだ。だが人数調整のため仕方なく、グループから抜けざるを得なかったんだ」
「皆で仲良くとはいかないものかしら……子どもの世界も大変なの
ね。だけど、どうしてそれが茶杓を壊すことに繋がるの?」
美南先輩が当然の疑問を訊いてきた。
「ここからは俺の邪推だけど……」
と前置きして、
「地味な女の子達は、普段はイケてる女子におびえながら生活している。でもそのなかの一人がのけものにされて、今日一緒の茶道教室にいた。いつもと違い弱い立場だ。立場が逆転したこの機会に、一矢報いてやりたかったんだろう。ちょっとした嫌がらせだったとしても悲しく醜いことさ。そういう気持ちも分からなくはないけど……」
「だったら葵ちゃんも言えばいいのに」
とさくらさん。
「言ったら相手の思う壺だろ。困ってる姿を見たいわけだから。どうせ誰も見ていないのだから、しらばっくれてればいい」
「でも一色君には見られていた。あの子も不憫ね」
と鈴鹿が言う。
「こういうのは先生の目の届かないように巧妙にやるものさ。他人の心を慮る道徳心がまだしっかり育ってないんだろう。だからモラルを知っていながら破る大人よりも、倫理性に無知な子どもの方がときに、無慈悲かつ残酷でむごい存在なんだ」
「でも……やっぱり葵ちゃんもちゃんと報告すべきだわ」と美南先輩は眉をひそめた。
「ええその通りです。私はいじめられてます、なんてそこまで言う必要はないけど、こっそりでも、いつの間にか壊れてましたくらいは言って欲しかった。人様の道具を借りてやってるんだから」
俺は割れた茶杓の欠片を撫でる。
「一色君、それでどうするつもりなの? まずは旭先生に相談した方がいいんじゃないかしら……」
美南先輩は部長として、責任を重く感じているようだった。
深い憂色を浮かべていた。
「もちろん先生には報告しますよ。しかしこのままじゃやっぱり駄目だ」
旭先生の紙芝居も終わった。
鎌倉時代のお茶の伝来から始まり、村田珠光? 武野紹鴎? など耳にしたことのない人物の話ばかりだった。
小学生達には難しかったようで少々退屈しているようにも見えた。
俺は子ども達に聞こえないように、頃合いを見てこっそりと先生に話しかけた。
「先生。実はさっき返却された茶杓が壊れていて……」
二つになった茶杓を渡した。、
先生の顔に一瞬影が差したように思えたが、
「あら……、でも子どもだから仕方がないわ。たぶん元気いっぱいに使ったのね」
と何事もなかったかのように言った。
「なんでそんなこと言うんですか? 先生なら、こんな風に竹が折れるのおかしいって分かりますよね? わざと折ったんだってわかりますよね?」
鈴鹿が珍しく熱くなっていた。
茶道に関しては好きなだけに、冷静さを欠いてしまうのかもしれない。
「こんなの竹を削って作ったただの棒よ」
先生はすべてを見通したかのように平然と答えた。
「じゃあもし茶碗を割ったらどうなんですか。それも内緒にしていて問題ないんですか?」
鈴鹿は普段にもまして早口に詰め寄った。
俺は自分のことを言われてるように感じ、胸が少し痛んだ。
旭先生も鈴鹿に圧倒されたように一瞬口ごもるが、その問いには直接答えずに、
「でも今日は子ども達の楽しい笑顔が見れてよかった……それじゃあいけないの?」
「ちょっと待って下さい」
俺も知らない間に鈴鹿につられて熱くなっていたようだ。
「先生は立派な茶道の先生です。立派な大人です。そして俺達はまだ高校生です。何年か前までは小学生だった。もしかしたら小学生のためにできることが先生よりあるかもしれません」
俺は言ってから、ちょっと出過ぎた真似をしたかなとも思った。
「ちょっと先生に失礼よ」
案の定、美南先輩がたしなめた。
「ねえ、一色君……正しいことしないで……」
先生が今までに見せたことのない、別人のような冷たさで言った。
俺は一瞬怯むものの、
「失礼しました。でも俺は自分勝手な人間なんです。未熟な高校一年生なんです」
と、心の奥で湧きあがった感情を抑えることができなかった。
それは純粋な教育心と共に自分のためだったのかもしれない。
俺はいったい誰に影響されたのだろうか。
このままにはしておけないという自分らしくもない義務感に駆られた。
そして先刻から考えていたある方法を提案してみた。
別にこれが最善だと思ったわけではない。
それどころか、過去の自分を追懐し捻りだした、賭けにも似た危険な方法だった。
「随分手荒だけど……確かにこのままにしておくのも気掛かりね……」
美南先輩は心配そうだったが、結局はこれしかないと言って賛成し
てくれた。
旭先生はじっと目をつぶりどこかに思いをはせているようだった。けれども、
「いいわ。何かあったら責任は全部私が取ります」
と、最終的には俺の無理を聞き入れてくれた。
小学校の先生が閉めの挨拶をしようと、子ども達を集めている。
「じゃあ最後にお世話になった先生とお姉さんに、ありがとうを言いましょう」
……先生達の間でも俺は、二千円札並みに無かったことになっているらしい。
『ありがとうござ……』
「その前に」
旭先生が口火を切った。
「さっき茶杓が壊れているのが見つかりました。これは有名な作家の方がつくったとても高価なものです」
その格調高い声に教室内は水を打ったように一瞬で静まりかえった。
「怒っていないから、壊しちゃった人は正直に言って欲しいな」
怒っていないという言葉が一番怖いんだよな。
優しく微笑む旭先生だが、小学生達はその威厳に怯えるかのように誰一人口を開かず、周りの出方を伺うよう、きょろきょろと互いを見渡していた。
頃合いを見て鈴鹿が、
「それ壊したの、一色君です」
と手を上げた。
「なんだと」
「見ました」
「適当なこと言ってんじゃねえ」
俺は徐々に声を荒げる。
「俺は今日、端の方でさぼっていたから、道具には一切触っていない」
「何自慢してんのよ。手伝いに来てるのにそれもおかしいでしょ」
「俺に濡れ衣着せようとして誰かが仕組んだんだ。どこのクソ餓鬼だ。お前か。それともこっちのお前か」
と小学生達を睨みつけた。
パチン。
鈴鹿が俺の頬を思いっきり平手打ちした。
「なにしやがるんだ」
「日頃の行いが悪いんだから、疑われてもしょうがないわ」
「おう、それならこっちにもそれなりの覚悟ってもんがあるぞ。指紋でもなんでも採ってくれ。指紋だ。し・も・ん」
どこかのチンピラのように柄悪く怒鳴った。
突然の険悪な雰囲気に、小学生の中には泣き出す子も出てきた。
俺は例の二人の反応をそれとなく伺う。
傍目にもわかるほどオロオロと動揺していた。
「ええ。じゃあ採取してあげるわ。あなたの心のような汚い指紋をね!」と、鈴鹿が俺の手首を掴む。
「いてーな。ふざけるな!」
俺はさっと手を払い退けながら、横にあった織部茶碗を叩き割った。
ガシャーン。
茶碗が床に落ち、大きな音が教室内に響き渡った。
静寂が部屋を満たすなか、子どものすすり泣く声だけが聞こえる。
「待って!」
沈黙を破るようにさくらさんが二人を遮った。
「運ぶ時に車の中で壊れちゃった可能性は、ないかな……?」
小学生達にその意味を把握する時間を与えるように、俺と鈴鹿は沈黙した。
少しして、
「ええ、その可能性もあるわね」
と旭先生がいつもの微笑みを見せた。
「どっちみちもう真相は分からないわ。犬伏さん。どうせ使い物にならないから、ゴミとして捨てといてくれるかしら」
「はいっ」
と、さくらさんが茶杓を素早く鞄にしまいこんだ。
「はいはいそこまで。二人とも喧嘩は辞めて。子ども達の前よ……」
最後に一部始終をじっと見守っていた美南先輩が、緩慢な調子で俺達二人を引き放した。
こうして小学校茶道体験教室は、最悪の空気の中で幕を閉じた。
高校への帰り路、三人で再び亀池公園を通る。
美南先輩は道具の片づけを手伝うといって、旭先生の車に同乗していった。
「二人とも、せっかくだし……あそこの動物園寄って行かない?」
とさくらさんが持ちかけてきた。
公園には併設して小さな動物園がある。
俺はこのやるせない気分のまま帰るのも嫌だったので、
「そうだな。今さら早く戻って授業に出る気もしないしな。時間つぶしも兼ねて久しぶりに行ってみるか」
と賛成した。
動物は苦手だが檻に入れられているのなら平気だ。
「そうね。私も行くわ」
鈴鹿も気分転換したい、きっとそんな気持ちだったのだろう。
「俺は小学三年以来だな」
「さくらは、えーと一年前に来たかな」
「私は初めて……」
門を潜ると獣の臭いが鼻をついた。
どこかで鳥の大きな鳴き声がした。
平日の午後、お客さんはほとんどいない。
動物達もどことなく物憂げに檻の中で体を横たえていた。
俺達は、そんな動物達の邪魔をしないと申し合わせでもしたかのように、静かにゆっくりと歩いていた。
「ねえ……これでよかったのかな?」
さくらさんが落ち込んだ様子で誰にともなく尋ねた。
「そうね……確かに指紋を取れば、葵ちゃんともう一人の子の指紋が出てくるはずだから、犯人が分かってしまう。二人ともびくびくしてるんじゃない? 可哀想だったかしらね……」
鈴鹿も幾分懸念しているようだった。
「先生が捨てといてって言ったから、そのへんは大丈夫だと思うけど」と俺は答えるしかできなかった。確証はないがトラウマになるほどでもないだろう。
「いじめってどうしてなくならないの? だってもし好一君の推理通り、自分がいじめられたからいじめ返したとするなら、なんでそんなことをするんだろう? 嫌な気持ちは一番分かってるはずなのに……」さくらさんが許せないという風につぶやいた。
「これは聞いた話だけど……」
俺は柵の中をのろのろと歩いていたシマウマに目をやった。
「ある草食動物は、体の弱ってる仲間の側にいたがるんだって。なぜなら肉食動物が襲ってきたとき、逃げ遅れるのは一番弱い奴。だからそいつの側にいれば最も生き残れる可能性がある。動物の本能だ。自分より弱いものを見つけて喜ぶ。いなかったら造り出すなんてこともしかねない。……俺達人間も同じさ」
そう言いながら俺は自己嫌悪を感じた。
思い上がりだ。偉そうに説教している自分自身が、将来そうならないとも限らないじゃないか。
いや、既に今までの人生で、知らぬ間に誰かをいじめていたのかもしれない。
現実の人間は綺麗な生き物じゃない。
綺麗なのは本の世界の人間だけだ……。
「そっとしといた方がよかったのかな」
さくらさんはどこまでも優しい子だった。
現実の厳しさを敢えて隠し、見て見ぬふりをするのも優しさだろう。
特に精神的に未熟な子は、ある程度隔離する方がいいかもしれない。
卵を無理に割って無理やり出すより、自分から割るのを待つ。
結局人それぞれ成長の仕方は違うんだから、待つということもときには大事だろう……。
「旭先生は事情が分からないとはいえ、なかったことにしようとしてたみたいだけど……」
鈴鹿は旭先生の今日の態度に、納得がいっていないようだった。
「大人の事情とはよく言うけど……やっぱり大人になってみないと分からないものなのかもな。もしかしたら以前にも似たようなことがあったとか。正直に告発することでいじめが増長したり、学校の先生の責任になるなんてこともある。どっちみち最善なんて分からないさ。でも……、どこかでお天道様が見てると思うことは、少なくとも悪くはないんじゃないか? ベストは無理でもベターな選択だったとは思う。俺があの瞬間たまたま見てしまったのも偶然ではないはずだ」
「何、自分がお天道様だと言いたいわけ?」
と鈴鹿が言った。
「いやそういうわけじゃ……」
「一色君なんてせいぜい六等星が関の山ね。よ-く見ないと気づかない微弱な光」
「強い否定はできないけど……」
こんな時でも毒舌だった。
だが、こいつなりに場を明るくしようとして言っているのかもしれない……そう思いたい。
「将来あいつらが、あの時俺達が大暴れして助けてくれたんだと、気付いてくれるのを願いたいよ。茶碗粉々に割って、大の高校生同士がワーワーわめいて大騒ぎしてさ。半径三メートルで世界は完結していない。子ども同士の些細なことが、時に大人も巻き込む事件になるってことを理解してもらわないと。そうじゃないとあの割った茶碗だって浮かばれないぞ。だけど……、今日あったことが少しでも心に刻まれたなら、俺もぶたれたかいがあったかな」
俺は未だひりひりする頬をさすった。
「まだ頬赤くなってないか……鈴鹿、お前本気でビンタしただろ?」
「あら、全力でっていう、あなたのリクエストに応えただけよ」
「そりゃそうだけど……、そんな力強いとは思わないだろ。日頃の恨みも籠ってないか?」
「どうでしょうね。ふふ」
頬を押さえながら俺は空高くを見上げた。
雲の切れ目からちょうど太陽が顔を覗き、真上から三人を照らしていた。