第七話
とある放課後。
茶室には、俺、鈴鹿、さくらさんの3人。
俺はいつものように練習台という名目でお茶を堪能していた。
ちなみに遥か昔に買った茶道具一式は、念のため持参してはいるのだが、使われることなくカバンの奥底で眠っている。
日の目を見ることはあるのだろうか。
さくらさんはお菓子を食べながら、ファッション雑誌を熟読中。
今日は頭にカチューシャをつけていた。
コロコロと髪型を変える子なのかな?
個性的な趣味やファッションはどの雑誌からヒントを得ているのだろう?
けれど俺は人のことをとやかくいう人生は辞めたのだ。
自分は自分で好きなことをさせてもらおう。
俺も薄茶を頂きながら読書にいそしむ。
「ねえ、何読んでるの? まさかまた変なのじゃ……」
さくらさんが手元を覗きこんで疑わしそうに訊いてきた。
「違う違う」と全否定し、俺はさっと表紙を見せつける。
川端康成『千羽鶴』
「せんばづる? へー、難しそうなの読むんだー。」
「まあね」
誇らしい顔で答えた。
「ちょっと中見せてー」
「いや、さくらさんには難しいと思うよ」
俺の言葉にむっとしたのだろうか、さくらさんは無理やり本を奪おうとしてきた。
俺は立ちあがって両手を上げ、本を上げ奪われまいとする。
ドタバタとしばらく攻防を繰り返していたが、とうとう、
「何よ。人のことバカにして」
本はするっと奪いとられてしまった。
「どっ泥棒……」
さくらさんは黙読しはじめるが、ページをめくるにつれ、みるみる顔が赤くなった。
だから言わんこっちゃない。
「ちょっとー。大文豪だと思って油断してたら、のっけから乳首の話じゃない。やっぱりそういうのをわざわざ選んで読んでるんでしょ!」
稽古中の鈴鹿がぱたりと手を止め、代りに口を動かした。
「さくらさん。やっとわかったかしら。これが一色君の本性よ。これ見よがしに茶室でこういう卑猥な文学を読むなんて、逝った方がいいんじゃないかしら」
「違う違う。これは官能小説でもなんでもない。れっきとした茶道に関係ある本なんだって。ほら志野焼って出てくるだろ。さくらさん見てくれ」
俺は誤解を解こうとやっきになる。
せっかく仲直りしたばっかなのに……あいつほんと一言、いや十言ぐらい多いんだよ。
「ホントだ」
さくらさんが俺の指さした箇所を見て納得してくれた。
「ほらな。まあ実際の志野茶碗がどんなのかは知らないけど……」
俺の軽率な発言に、稽古を続けていた鈴鹿の手が再び停止した。
「はっ!? 一色君。そんなことも知らなかったの。あなたがさっき飲んでたお茶碗が志野茶碗よ。白に赤色が映えてすごく上品でしょ。いいお茶碗なのよ。少しは勉強なさい」
「これが……、そうだったのか」
俺はしみじみと茶碗を手に取り感触を確かめる。
そう言われてみると急に貴重な品に思えるから不思議だ。
「ちょうどいいや。もう一杯点ててくれ」
鈴鹿は釜の底から湯を柄杓ですくい取り、手際良く茶を点て、黙って俺に差し出した。
やけに素直だな。口をつけると……、
「あちっ」
唇が火傷しそうだった。
「おい、俺は猫舌なんだ」
「知らないわよ。ねえ一色君……。お茶は一杯を味わって飲むものって教えたわよね? 冷めるまで待ちなさい」
「お前は石田三成をもう少し見習った方がいいな」
「誰?」
「いや、いい……」
さすが帰国子女、日本の歴史に疎いのだろう。
「フーフーしてあげようか?」
やにわにさくらさんが冗談とも本気ともつかぬことを申し出てきた。
いや、さくらさんは冗談を言う子じゃない。
もし二人きりならお願いしたいところだったが……。
しかし鈴鹿の視線が怖くて止めておいた。
「あっありがとう。大丈夫、大丈夫。自分で冷ますよ」
と断るが、本当はちょっと口惜しい……。
「さくらさんにも点ててあげるわね」
「うん」
そんなこんなで他愛無く時間を潰していると、いつものようにおっとり美南先輩があらわれた。
「こんにちは。真夏ちゃん、今日は棚を使いましょうか?」
「はい」
美南先輩は鈴鹿と二人で棚を使ったお稽古を始めた。
別に俺とさくらさんには無理に茶道をやらすつもりはないらしい。しょせん数合わせだもんな。
それにしても毎回この茶室からは見たことない道具が続々と出てくる。
ここの押し入れは四次元につながっているのではなかろうか。
ともかくこれだけ道具が揃っているということは、昔は結構栄えた部活だったのかもしれない。
俺は読書にも疲れ、ぐうっ目を閉じた。
瞼が重い。
「はー、なかなか行間が深い濃厚な文学だな。さすがノーベル賞」
すると、さくらさんは俺が本を置くのを待っていたらしく、
「あのね……、さくらね……好一君に相談があるの」
と、潤んだ瞳の上目遣いで、じりじりと膝を寄せてきた。
ズキューーン。
こんな台詞を吐かれてよもや断る男はいないだろう。
それにしても……さくらさんの相談ってなんだ?
「実は、最近購買部でテニスボールがずっと売り切れみたいなの」
「は? テニスボール? そんなのテニス部が買ってったんじゃないのか?」
「ううん。違う。テニス部の友達から相談されたんだけど、テニスには公式と軟式のボールがあるのに、軟式の方だけいつも売り切れになってるの……」
「軟式ってソフトテニス部のことだよな? 黄緑の堅いボールじゃなくて、柔らかいゴムボールの方の」
「うん」
「戦後最大級のソフトテニスブームでも到来したんじゃないか?」
「えっ? そんな噂聞いたことないけど……」
「いや忘れてくれ……」
やはりさくらさんには冗談が通じないようだった。
「その友達は自主練したくて、近所のスポーツショップやホームセンターをいくつか回ったんだけど、どこも売り切れだったんだって。これはさすがにおかしくない?」
「それは確かにおかしいな」
「でしょ。好一君って変わり者……じゃなくて人と着眼点違うところあるから、こういう謎解くの得意そうって思って」
いや今変わり者って言ったよね。さくらさんの中で俺はどういう人格になってるんだろうな……。でも友達のために何かをしてあげようって心持ちは見習いたい。
正直くだらない相談だとは思ったが、さくらさんの友達思いに免じて協力してみるか。
「うーん、これだけじゃなんとも言えないけど、そうだ、製造元に直接問い合わせしてみるっていうのはどうかな?」
「えっ。こんなことで、いいのかな?」
「お客なんだから構わないだろ」
そうは言ってみたものの、見知らぬ会社に電話するなんて緊張する。平凡な高校生の俺には少々荷が重い。さくらさんも堅い話はダメだろう。こういうことが得意そうな奴はいるにはいるのだが……。
俺は恐る恐る
「なあ、すず……」
「却下」
そいつはけんもほろろに言い捨てた。
待て待て、まだ何も言っていないぞ。
「頼むよ。お前は俺には言葉がきついが、人様の前では上品だし敬語もしっかりしている。学校の先生受けも抜群だ。お前なら電話で要領良く聞き出してくれるはずだ。鈴鹿しかいないんだ」
自尊心をくすぐるよう茶坊主根性で切願してみた。
鈴鹿は髪をぱさっと揺らし、顔をこちらに向けた。
案外チョロイ。もう一息だ。
「真夏ちゃん。お願い」
さくらさんも手を合わせ頼みこむ。
「はー……じゃあ、今回だけだからね。電話番号教えて」
「うん」
さくらさんが電話番号を調べていると、
「さくらさんの為だからね。別にあなたに頼まれたからじゃないから」
鈴鹿が低音で俺の耳元にささやいてきた。
もしかしたらこいつには天性のツンデレ気質が備わっているのかもしれない。
しかし残念ながら昨今、ツンデレブームはもう下火なんだよなあ。
いや、待てよ。
歴史は繰り返すなんていうから、新たにデレツンなんていう進化したバージョンが出現する可能性もあるぞ……。
点前を中断した鈴鹿は、制服のスカートをパンパンと叩き、さくらさんから携帯を借りると、廊下に出て電話をかけ始めた。
緊張や躊躇う様子は微塵もなかった。
それは経験の差か、それとも持ち前の高圧的な性格からくるものだろうか?
「突然のお電話で失礼いたします。私、S高校の……」
俺とさくらさんは離れた場所から、耳をそばだてる。
しばらくし、
「……お忙しいところ丁寧にありがとうございました」
と言い、鈴鹿は電話を切った。
「真夏ちゃん、どうだった?」
「ええ。最近このあたりの地区で、ソフトテニスボールの売上が妙に伸びてることは知ってたみたい。でも理由は会社でも分からないって。在庫はあるみたいだから、大至急手配しますって言ってたわ」
と、涼やかな顔で電話の内容を伝えた。
「そっか。謎は謎のままだな」
俺はどかっと腰を落とし、額に手を当ててしばらく熟考した。
「そうだ鈴鹿。懐紙ってあるか?」
「そりゃあるけど……何に使うの?」
鈴鹿は袱紗包みから懐紙を一枚抜き取った。
「ちょっとメモ代わりに」
俺は胸ポケットからペンを出して、懐紙に要点と疑問をまとめる。
・軟式テニスボールがなぜか人気になった
・硬式ボールは変化なし
・この学校やこの近所だけの現象らしい
・在庫はあるから、販売停止中というわけではない
・テニスブームが到来した模様はない
・最近というが正確にはいつぐらいからか?
・客層は?
・値段は?
これくらいかな。俺はペンをくるくる回しながら、
「とりあえず、さくらさん。俺と一緒に学校の購買部に聞き込みにいこうか?」
と重い腰を上げる。
「うん。よいしょっ」
さくらさんも手をつき立ちあがった。
「私は稽古していますので、ご勝手にどうぞ」
「じゃあ私も最近練習してないから一緒にやろうかしら」
と、鈴鹿と美南先輩は茶室に留まることになった。
購買部は昇降口からクラス教室に行く途中にある。
二人で廊下を歩いていると、先生が書類を片手に職員室へ向かって走ってきた。
先生、会議か何か知りませんが、廊下は走っちゃいけません!
「ねえ好一君」
ふいにさくらさんが微笑みながら俺の名前を呼んだ。
「なっなに」
ドギマギしながら答える。
「さくらね。茶道部に入ってよかったと思ってるよ。誘ってくれてありがとね」
「あっああ別に」
唐突にこんなキュンとくる台詞が来るとは思ってなかった。
アニメなら心臓に矢がズッキュンと刺さっているところだな。
ここが学校じゃなかったら押し倒していたかもしれない。
一撃で悩殺された俺は、あんなことこんなこといっぱいできたらいいなと、あらぬ妄想をしてしまう。
「すみませーん」
「いらっしゃーい」
購買部に到着した模様。
俺は現実世界に引き戻される。
購買部の女の子が眉をひそめ怪訝そうな顔でこっちを見ていた。
やばい、やばい。気を取り直し「ゴホン」と咳払いひとつした。
「えーと、軟式テニスボールってあるかな?」
「あなたも!?」
女の子が目を見開き驚いた表情をした。
「なんかソフトテニスボールが最近人気みたいで……。ごめんね、売り切れなのよ」
と申し訳なさそうに言う。
「それっていつぐらいから?」
さくらさんが訊いた。
「うーん二週間ぐらい前からかな」
「買う生徒ってどんなやつ?」
「それがね、今まではテニス部員がたまに買ってくくらいだったのに、最近じゃ全然関係ない男子生徒が買いに来るの」
「テニス部じゃない男生徒っと……」
俺は手もとの懐紙に書き込む。
「そうねー、私も毎日いるわけじゃないけど……でも最近はほぼ一〇〇%男子生徒。ねえ」
と、隣の子に話しかけた。
「うん。わたしの当番の日もそんな感じ。なんで急に人気になったんだろうね?」
「他に気付いたことはないか?」
「うーん。そうだ。みんな二個セットで買ってくことが比較的多いかなー」
「セットで? 一個いくらなんだ?」
「一個二三〇円よ。二個で四六〇円。別にセットで買っても安くはならないんだけど……」
紛失したとき用の予備ってことだろうか?
だが四六〇円は高くもないけど高校生にとって安くもない値段だ。
「あとは……、みんな早朝とか放課後とか人気のない時間帯に買ってくかなー」
どういうことだ?
あまり友達にテニスボールを買ってるのを見られたくないってことか?
テニス部とは無関係だから、こっそり練習して驚かせようって魂胆じゃないよな。
「でもね、その人達のおかげもあってか、購買部全体の売り上げも過去最高を記録してるの」
女の子が少し誇らしげに付け加えた。
「それってどうゆーこと?」
さくらさんがぼんやりと尋ねる。
「うん。テニスボールを買う人は他の文房具や、飲み物もついでみたいにいっぱい買ってくから」
俺はそれを聞いたとき、どこか心にひっかかることがあった。
しかし残念ながらそれは、顕在意識の表層まで現われることはなかった。
まあ後でゆっくり考えるとするか。
「ありがとう。また何か訊きにくるかもしれないけどよろしく」
そう言って俺は立ち去ろうとした。
「ちょっとそんだけ質問しといたんだから、どうせなら何か買ってきなさいよ」
女の子が習い性となっているらしい商売っ気を見せた。
「そっそうだな。えっとー」
文房具、パン、飲み物、生徒手帳、校章、体操着、習字セット、裁縫道具、絆創膏、ティッシュ(箱、ポケット)、マスク、電池……etc。
そこら辺のコンビニに負けない品ぞろえだった。無難にノートでも買っておくか、どうせいつか使うだろう。
「じゃあノートを……」
と、言おうとしたらさくらさんが、
「好一君には赤いノートが似合ってるよ。赤いのにしなよ」
と言って薦めて来た。
別に何色でもいいのだが……。
収穫はあったものの、依然謎は解けないまま旧校舎へ戻る。
考え込む俺を尻目に、さくらさんは階段を二段飛ばしに登って行った。
まるでルンルンと足音が聞こえそうだった。
微笑ましく見上げると、真っ白で華奢な細い足……制服のスカートが上下に揺れて、そのやわらかそうな太ももの奥の暗影から……下着が見えそうになっている!
いかんいかん。
俺はそういう下心のために後ろにいたんじゃない。
マナーとして、レディーのさくらさんがお転婆したときの要心として支えようとしたまでだと、誰に対してもなく一人言い訳をした。
でも……ちょっとくらいいいかなと思い、再び顔を上げると、一足先にさくらさんは登り切っていた。
「一色君、また考え事してたの? はやくー」
と手招きしている。
「……。」
これでよかったんだ……。
茶室に戻ると鈴鹿は既にいなかった。
「なんだ、あいつもう先に帰ったのか?」
「ええ。私ももう帰るところよ。それで何か進展はあった?」
「それが全然……。ごめんね、さくらさん」
横を向いて謝った。
「別にそんな大したことじゃないし。また気付いたことがあったらメールしてね」
「そうするよ」
「あっ」
と美南先輩が叫ぶ。
「言い忘れていたけど来週は稽古日だからね。二人ともよろしく」
そうか一カ月に一回は旭先生の稽古があったんだったな。
翌日は休みだったので、俺は近所のお店を巡ったが軟式ボールはどこも売り切れだった。
理由は皆目見当もつかず、事件は迷宮入りを予感させた。
休み明けの稽古日。
あの旭先生に会うのは二回目だ。
一回目は恥をかいたが、一カ月経って多少はマナーが見についたはず。
だてにお茶は飲んでない。
茶室に入るとすでに美南先輩、鈴鹿、さくらさんがいた。
押し入れから桐の箱を出したり、お湯を沸かしたり、玄関を掃除したり、あわただしく準備をしていた。
床の間には既に、和敬清寂と書かれた掛け軸が吊るされており、瓢箪型の花入れには山紫陽花が生けられていた。
美南先輩は
「珍しく千歳ちゃんも来るから」
と言った。
「じゃあ今日は私と真夏ちゃんがお点前するからね。一席目はさくらさん。二席目は一色君お客さんに入ってね」
「はーい」
「はい」
そう段取りをつけると先輩は茶こしを始めた。
ちなみに茶こしとは茶をふるいにかけきめ細かくする作業である。
点前畳を見ると、この前使用していた棚と道具が準備されていた。そうか、先生に見てもらうこの日のために練習していたのか。
お点前と一口に行ってもいろいろとやり方があるもんだな。
そのうちに千歳先輩も来た。
短いスカートで正座なんてするから、正面からだとひざの先の三角地帯……小麦色のぴちぴちした太ももの奥から……下着が見えてしまいそう。
ここに一応男子高校生がいるのだから、もっと慎んでもらわないと……ぶつぶつ。
「あたしは今日、出番ないわよね」
「ええ。座って見ててくれればいいわ」
美南先輩は微笑し、
「じゃあそろそろ先生の時間だから」
と、前回と同じように先生をお迎えに行った。
一年生三人と二年生一人は黙って正座して待つ。
この間は異様な緊張感が高まる。
まるで三者懇談会の順番を控室で待っている気分だった。
けれども、先生はなかなか来なかった。
「ちょっとごめん、お花摘みに行って来る」
千歳先輩が立ち上がった。
「急いでください。先生来ちゃいますよ」
鈴鹿が注意した。
俺は最初なんのことか分からなかった。
訊こうかとも思ったが、なんとなく意味は分かったので野暮だと思い言わなかった。
女子がお花摘みなら男子はなんと言うのだろうか……。
「一色君。今日は修業だと思って正座我慢しなさいよ」
鈴鹿が俺の思考に横やりを入れた。
「わかってる。わかってる」
「返事は一回。どうしてもってときは一礼して人魚座りしていいから。あぐらは絶対ダメ」
「はい……」
注意の仕方は、まるで小学校の先生みたい。
財布を忘れて以来、さらに俺のことを、だらしない奴だと思っているようだった。
「あら、ネクタイ曲がってるわよ」
「マジか」
俺は立ちあがり、急いで鏡に向かおうとすると、
「ほら。時間ないから、私がやってあげる」
と、鈴鹿が俺のネクタイを整える。
「わっ悪いな」
「そういえば、テニスボールの件はどうなったの?」
ネクタイを締めながら小声で訊いてきた。
「いや、まだ謎は解けないんだ」
「そう。はい、これでいいわ」
大して興味もなさそうだった。
「さくらも旭先生ははじめてだから緊張する」
そう言うさくらさんだが、緊張というよりも好奇心いっぱいのワクワク顔って感じだった。
「そういえばそうだったわね」
「今日のお菓子は、前にみんなで行ったお菓子屋さんの和菓子なんだよ。さくらが買ってきたんだ。先生喜んでくれるかな」
「そうなんだ。楽しみだな」
俺は返事しながら、さくらさんの首に十字架のアクセサリーが掛けられているのに気付いた。
ただの装飾品としてのアクセサリーだろう。
だが、もしかしたら敬虔なクリスチャンの家系なのかもしれない。
人の宗教に口出しするのはタブーだし、ここはノータッチが正解だな。
俺がさくらさんの首元へ目をやっていると、鈴鹿が気になったのだろう、
「さくらさん。アクセサリーはお稽古中は外した方がいいわね」
と、俺の配慮も空しく戒めた。
「そっそうだよね。ごめん」
そう言ってさくらさんはポケットにしまおうとしたが、夏服のためポケットがなかった。
「しょうがないわね。私が預かっといてあげるから」
と言って、ブレザー姿の鈴鹿が、生活指導の先生よろしく没収してしまった。
ところで、なぜ鈴鹿はこの暑いのに上着を着ているのか?
直接本人に訊いてみないことには定かではないが、想像するに、きっと茶道をするときは正装しなければならないという、自分なりのポリシーがあるのだろう。
「そういや旭先生って下の名前なんて言うんだ?」
空気を変えるように俺は尋ねた。
「聞いてどうするのよ」
「別に。どうってこともないけど」
「旭麗奈先生よ」
「へー綺麗な名前だな」
「そうね……」
そんなとりとめのない小声トークをしていると、足音がした。
一同に緊張が走る。ふすまがばっと開いた。
「なーんだ千歳先輩か」
「なーんだって何よ」
とむっとした。
千歳先輩が戻ってきて三分程経った。
再び足音が近づく。
俺達は目配せして、背筋を伸ばした。
ふすまがゆっくり開く。
旭麗奈先生がすり足で上品に入ってきた。
足袋が驚くほど白かった。
「遅れてごめんなさいね」
前回同様、得も言われぬ神秘的な佇まいを感じた。
俺達も手をつき一礼をする。
その日の稽古は、俺は前よりは緊張せず、お客としてのマナーもそれなりにできた……と思う。
二つの点前が終わり、先生が感想を述べた。
「……鈴鹿さんも一年生なのにすごい綺麗だったわ。棚点前難しいの
に頑張って覚えたのね」
先生のお誉めの言葉で、鈴鹿の頬が桃色に染まる。
照れたようにうなじに手を当てていた。
「あら今日の花入れは瓢箪なのね。ちょうどいいわ。ちょっと茶道の見立てについて今回はお話しようかしら。新しく入った一年生でも言葉ぐらいは聞いたことある?」
先生と目が合った。
俺は首をひねる。
「見立てって言葉は、本来の使い方ではなくまったく別のものとして見る、という意味よ。例えばあの瓢箪ね。昔はあれに水を入れて飲んでいたみたいだけど、茶道では花入れに使うことがあるの。やっぱり昔の人はいろいろ工夫して楽しんでいたのね。みんなは学生の茶道だからあまりお金をかけられないけど、だからこそ、見立てみたいな自由な発想で茶道ができてうらやましいわ。なまじ先生なんて言われちゃうと、ちゃんとした道具でやらなきゃって思うから、お金かかるのよね」
先生が千歳先輩に膝を向けた。
「ねえ鶴見さん」
急に声をかけられた千歳先輩が、
「はっはい」と堅い返事をした。
「あなたファッション好きかしら?」
「はい。大好きです」
「でも学校だと制服だし、校則もあってなかなかオシャレできないでしょ?」
「まあ、はい……」
「でも逆に、その制約のある中でいろいろとファッションを工夫するから楽しいっていうのもあるわよね。それとまったく一緒よ。例えば、鞄改造したり、スカート短くしたり」
確かに千歳先輩は校則違反ともいえるスカートの短さだった。
「すみません」
と、膝をぎゅっと閉じる。
「別に私は学校の先生じゃないから謝る必要はないわよ。それに茶道は短いスカートじゃいけないなんて決まりもないもの。でもね、男の子がいるんだから気をつけないと。正座するとパンツが見えちゃうわよ。ハンカチぐらい広げておきましょうね。これは茶道じゃなくてレディーのたしなみの話だからね」
なんか変な話になってきたぞ。
俺は見つからないよう体を縮め俯く。
「なに想像してるのよ」
隣の鈴鹿が扇子で俺の足裏を叩いてきた。
やめてくれ。痺れてるんだ。
扇子はそういう使い方しちゃいけません。
こうして今日の稽古は終わり、みんなで後片づけをする。
「見立てか……。そういえば推理小説で、俳句になぞらえた見立て殺人っていうのがあったな。おい鈴鹿。お前も本好きだろ。知ってるか?」
「ええ。横溝正史でしょ。私は推理小説ならP・D・James女史が好きだけど」
誰……? どこの国?
思いも寄らぬ奇な答えに、そっか……、としか俺は応じられなかった。
「そういえば一色君ていつも本読んでるよね。本好きなんだ?」
意外にもさくらさんが会話に参加してきた。
「好きというか……、俺は本の中で自分探しの旅をしているんだよ。きっと自分という存在の証明を求めているんだろうな」
ちょっと格好つけ、遠い目をしながら答えてみた。
「ふーん……?」
わかったようなわからないような生返事だった。
「えーと、さくらさんは読書……なんてしないよね?」
「なにその失礼な反語表現? ひっどーい。でもそのとおり。だって物心ついてから本なんか読んだ記憶ないもん。あっ……一冊だけあったかな。『不思議の国のアリス』。人生で読んだことあるのはそれだけ。だけど……一色君。本の中を探しても自分なんていないよ。さくらはさくらだよ」
なんか一見素朴なようでいて、しかしどこか哲学的な回答が返ってきた。
今日は稽古で疲れているので、深く突っ込むのは止めておこう。
「私は……一言で言うならば、修業ね」
話を横で聞いていた鈴鹿も斬新な解答を提示してきた。
「修業!? お前らしいな」
「ええ。だって今の自分にないものを吸収したいじゃない。わからないからといって敬遠しないで、苦しみながらも把握しようと努力する、それ自体が尊いのよ」
「俺にはよく分からないけど、まあ人それぞれだよな……」
緊張感のある稽古の反動か、いつもよりリラックスしながら雑談していると、お見送りを終えた美南先輩が帰ってきた。
「みんなお疲れ様でした。余ったお菓子は食べちゃっていいわよ」
「やったー私だけ食べてなかったのよ」
千歳先輩がお菓子に飛びつく。
先生用の余ったお菓子だからいつもは食べられない高価なものだ。さっきのアドバイスもなんのその。
口に菓子かすをつけて、猫のようにむしゃぶりついていた。
「好一君……テニスボールついては何か分かった?」
釜の水気を取りながらさくらさんが尋ねた。
「いやー」
と言いかけて、俺は先程の先生のお話が脳裏をよぎった。
天啓キタ――。
きっと湯船で「ユリーカ」と叫んだアルキメデスも同じ気持ちだったことだろう。
「謎は解けました。多分、あれはテニスボールとして使ったんじゃなくて、別の何かの代用品にしたんだと思います」
「でもー、何の代りかな?」
さくらさんが首をひねる。
「いや、それはまだ……」
「何? 大きな声を出すから何かと思えば、結局分からずじまいじゃない」
鈴鹿は掃除機をかけながらこっちも見ずに言った。
「だけど、一歩前進だよね」
さくらさんがすかさずフォローしてくれた。
こういう慈愛に満ちた言葉がすぐ出てくるのがさくらさんの素晴らしい所だ。
きっと今までもその優しさに救われた人間が数多いることだろう。
誰かさんにも見習って欲しい……。
掃除も終わったので、鍵をかけ、五人揃って部屋を出た。
職員室に鍵を返しに行く途中、練習を終えたらしい女子テニス部員と鉢合わせた。
「あれ、みぃちゃん。お疲れ様」
さくらさんが声を掛けた。
「あっさくらちゃん」
と女の子も答える。
もしかしてこのみぃちゃんという子が、相談してきたっていうテニス部の子かな?
「あっ紹介するね。テニス部の西郡みぃちゃん」
「こっこんばんはー」
純朴そうな女の子だった。
その子は、ボールがいっぱいに入ったかごを手にしていた。
「あれ、どうしたのそのボール?」
とさくらさんが尋ねた。
「うん。なんかテニスボールが最近減ってるみたいで。だからこれ以上盗まれないように、職員室で預かってもらうことになったんだー」
俺はちらっとボールを見る。何の変哲もないただの丸いボールだ。こんなもの盗んでまで手に入れたいか……?
と考え込んで突っ立っていたら、テニス部の女の子が振り向きざま俺にぶつかってきた。
「ごっごめんなさい」
「いやいや。お構いなく」
存在感の薄い俺にはこんなこと日常茶飯事だ。
それは別にいいにしても……この娘、ドジっ子すぎるだろ。
新手の当たり屋かと思ってしまった。
「あっボールが落ちちゃった」
「いいよ、いいよ」
と俺は言い、かごからこぼれ落ちた白いボールを拾い上げる。
ビリビリ。
そのボールに触れたとき、全身を一直線に電撃が走り抜けた。
「ユリーカ!」
百聞は一見に如かず、とは人口に膾炙していることわざだが、実はその続きがある。
百閒は一考に如かず。
百考は一行に如かず……。
ボールに触れた指の感覚を確かめる。
なんでもっと早く気付かなかったんだ。
「どうしたの一色君?」
美南先輩が不思議そうに訊いた。
「お集まりの皆さん。謎は全て解けました」
俺はかけてもいないメガネを上げる真似をする。
「なぜ軟式テニスボールを男子生徒が買っていくのかというと……」
ここまで言ったとき、俺はさざ波のような胸騒ぎを感じた。
急ブレーキをかけ、言葉を一旦区切る。
「もったいつけてないで教えてよー」
さくらさんが甘えた声を出してきた。
これは……この既視感は依然にもどこかで……。
しかし俺は自分の推理を披露することに夢中で、その感覚に蓋をしてしまった。
「よろしい。知らざあ言って聞かせましょう。ふふふ。このソフトテニスボールを触った瞬間ピンときましたよ。この柔らかさは……おっぱいと似ているんだ!」
そう言って俺は、手に持ったテニスボールを握り締める。
「空気をパンパンに入れたこの感触は、まさに女性のそれ。だから硬式じゃなくて軟式なんだ。しかも左右で楽しめるようわざわざ二つセットで買っていく。アダルトDVDを借りるみたいに余計な物と一緒に、こそこそと買っていく心理の説明もつく。きっと二週間前くらいに誰かが発見して、それがじわじわと学校中に浸透していった。男子高校生の頭の中なんて、女の胸かお尻かそんなことくらいだからな」
俺はドヤ顔で髪を掻き上げ、華麗なる推理の反応を伺った。
「あれ……?」
美南先輩は、羞恥しつつもあきらかに嫌悪の表情をしていた。
テニス部の女の子は、こいつ……ヤバくないと、さくらさんを横目で見る。
さくらさんは……ぷっと膨れ面で、怒ったように胸を押さえていた。
あれ?
これっていつかとまったく同じパターンじゃ……。
「ばか。ばか」
と、さくらさんがテニスボールを投げつけてきた。
「やめろー。おっぱいに似ているというのはただの客観的事実だ」
「またおっぱいって言ったー」
ボールが俺の額に直撃した。
俺は必死に避けながら、
「別に俺が買ったわけじゃないよ。俺はそんないやらしいことしない」
となんとか活路を見出そうとする。
「それはそうだけど……でももっとオブラートに包んでよ」
さくらさんは投げる手を休めない。
いくら柔らかいとはいえこの至近距離だとさすがに痛い。
「痛い、痛い。鈴鹿。助けてくれ」
そう言って振り返るも誰もいない。
廊下の先で、既に小さくなった鈴鹿が我関せずとばかりに去っていくのが見えた……。