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茶道部の冷徹な彼女  作者: re
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第一話

  眼前すれすれに女性徒の顔が迫る。

  瞳のなかの虹彩まで鮮明に見えた。

  きゅっと閉じられた上品な唇は、キスできるほど近い。

  彼女は「きゃっ」と甲高い叫びを上げた。

  鼓膜を震わすその響きに思わず耳を塞いだ。

  ついでに目も閉じた。

  いったい誰がこの展開を予想しただろう。

  事の起こりは一五分前。

  

  教室の窓から遠くの山々の稜線に目を凝らす。

  まだ頂には雪がだいぶ残っていた。

  空気が清んでいるこんな日は、つい見とれてしまう。  

  頬杖をつき、うつらうつらしながら、高校までの日々を回顧する。

  

……

 俺はこれまで常に周りの価値観で行動していた。

小学生の頃は無邪気で素直で時々やんちゃ。

中学に入ったら、勉強、部活、恋愛、友情。そのようなものが世間一般で『らしい』といって要求される。

  俺は違和感を覚えながらも、その『らしい』という不可思議なものを演じ、いかにも人生を謳歌しているよう自分を偽り続けていた。

  しかし本性は全く違う。

  ぐうたらで自分勝手な怠け者だ。

 このまま偽りの自分を演じていても、しょせん偽りの大人にしかなれないだろう。

  だからこそ高校入学を機に、本来の自分をさらけ出すことにした。

  幸いにも真面目な中学生を演じていたおかげで、県下でも有数の進学校と呼ばれるところに入学することができた。

  しかしもう高校生らしく振舞おうなんて思わない。

  そんなことして何になるのだ。

  今後は自分の本性のまま、だらしなくて自己中心的で自堕落なまま生きると決めたのだ。

  部活はしないし勉強も進級できる程度で構わない。

  人づきあいも最低限でいい。

  群れあいなんて一切願い下げだ。

  完璧な大人になるために、あえて自分勝手になる。

  一見すると逆説的虚構に満ちた、すぐにでも崩壊しかねない拙い論理だった。

  けれども入学から既に一カ月……。

  自然にふるまうことがこんなに楽とは知らなかった。

  なんて自由ですがすがしいのだろう。

  これこそ俺の思う完璧な高校生の姿だった。

……


  無駄に大きな音でチャイムが鳴り渡る。

  そんなに自己主張をしなくても、退屈な授業の終わりを告げる鐘の音を、聞き逃しはしない。

  待ちに待った放課後。

  教科書を素早く鞄にしまい込み、椅子から立ち上がった。

  俺の存在を気にかける者はなく、話しかける者もいない。

  今日の義務は終わった。早く家に帰ってゲームでもしようと、いつもの如く真っ先に教室を出た。

  このペースだと校門を出るのも一番乗りになりそうだ。

  これぞ帰宅部の鑑だろう。

  

  そのとき、廊下から担任の教師に呼ばれた。

「おい一色。今日日直だったよな。実はこの前の行事で使った座布団を片づけておいて欲しいんだ。職員室で鍵をもらってきなさい。座布団は昇降口の脇に置いてある」

  ……なんだそんなことか。

  それくらいならお茶の子さいさい。

「はい」と素直に答えておいた。

  むしろ俺にとっては好都合とさえいえる。

  何かしら印象を与えた方が、人は返って目立たないものだから。

  自分勝手にだらしなく過ごすといっても、人に迷惑をかけたり、問題児と認定されてしまっては、平穏な日々は送れない。

「旧校舎の和室って分かるか? そこの押し入れに仕舞っておいてもらいたいんだ。まあ行けばわかる」


  職員室に行くと鍵は既に空いているとのことだった。

  誰かいるのだろうか? 

  座布団は全部で五、六枚。

  これならなんとか一回で運べそうだ。

  両手で持ち上げ、旧校舎の和室へ向かう。

  廊下を走る人影におびえながら、落とさないよう慎重に運んでいく。

  廊下では、掃除当番の生徒がモップを持って清掃していた。

  ラケットを背中に背負い、勢いよく部活に向かう生徒もいる。

  すでに校舎内は放課後の解放感に満ち溢れていた。

  

  うちの高校には新校舎と旧校舎がある。

  新校舎はいわゆる普通のクラス教室で、四年前に建てられたばかりのピカピカだ。

  本当なら旧校舎も立て直す予定だったのだが、懐古趣味のOBが貴重な文化財とかいって保存を要求したらしい。

  確かに古き良き面影を残す、黒光りした校舎をそのまま壊してしまうのは、少々惜しい気がする。

  その旧校舎には主に、音楽室や家庭科室、理科室などの特別教室が入っている。

  新校舎とは幾分離れているので、大きな音を出してもいいし、万が一火事になっても大丈夫だ! 

  って、大丈夫じゃないよな……。

  そんな無駄ごとを考えながら階段を登る。

  先生は二階って言ってたよな。

  階段を登り首を巡らすと、理科室の向こうになにやら知らない部屋があった。

  どうやらあそこが目的地らしい。

  

  半開きの扉を片足で無造作に開ける。

  仕切りのふすまは開け放たれ、その向こうに畳が敷かれていた。

  入口の段差で上履きを脱ぎ和室に上がる。

  畳……十二畳。

  窓には障子が嵌めこんであった。

  床の間には掛け軸が掛けられているが達筆過ぎて解読不能。

  奥にももうひとつ部屋があるようだった。

  へえー、学校にこんな場所があったのか。

  押し入れに座布団を仕舞い終え、靴を履こうと腰をかがめる。

  と、足元に何かの影がさっと横切った。

「おっと」と片足を上げた。

  猫だ。白猫が部屋に入り込んできた。

  俺は犬と猫とか動物全般が大の苦手だ。

  あいつら、噛むは、吠えるは、ひっかくは、追っかけるは。

  なぜかいつも俺を目の敵にしている。

  そもそもなんで校舎内に猫がいるんだ? 

  しかもここ二階だぞ……。

  とにかく扉を開けっ放しにしていたのが迂闊だった。

  近所の猫か、はたまた野良が偶然迷い込んだのか? 

  ここは古い建物だから猫が住みついているなんてこともありえなくはない。

  猫は進駐軍よろしく我がもの顔で奥の部屋へ侵入していった。

  さすがにこのままにしておくわけにはいかないので、煩わしいが後を追いかけることにする。

  ゴン。

「痛て」

  ふすま入り口の柱に頭をぶつけた。

  ここだけ異常に入口の高さが低い。

  覗いてはみたが奥の部屋は薄暗くはっきり見えなかった。

  その暗闇でサファイアの如き綺麗な二つの玉が光った。

  猫の目玉だろうか?

 手探りでスイッチを探し電気をつけた。

「なんだ……この空間は?」

 畳四畳ほど。

  足元低くに水道の蛇口と洗い場があった。

  水場とでもいえばいいのだろうか? 

  備え付けの棚には茶碗や陶器、あと見慣れない竹道具がお店のように整然と陳列されていた。

  その奥には……

「冷蔵庫!?」

  なんでこんなところに……。

  不審に思うがひとまず猫探しを優先した。

  すると猫は冷蔵庫の上で丸まり、何かを貪り食っていた。

  あれは……

「お菓子!?」

  なんでお菓子なんか置いてあるんだ? 

  学校には相応しくないものばかり登場してくる。

  謎は深まる一方。

  本当なら猫を抱っこして連れ出したいところだが、猫アレルギーの俺にはそんなこと出来っこない。

  しっしっと追いはらうと、猫はびっくりして隣の棚に飛び移った。

「ニャー」という鳴き声から一寸遅れて、

  ガシャンという鈍い音。

  棚にあった白い茶碗が畳の上に落っこちて粉々に割れた。

  俺はポカンと口を開ける。

  猫は自分がしでかしたことがわかるかのように、軽やかな身のこなしで出口に逃げていった。    

  このやろう待ちやがれ。

  まあ追いかけた所で後の祭りなのだが、そんなことを考えている余裕は無かった。

  出口のふすまにバシッと手を掛け、猫の行方を追った。

「わっ」

  目の前に突如現われた女性徒。

  続いて、耳を切り裂く叫び声。

  思わずのけ反る俺。

  

……

  声が静まったのを見計らい、俺は恐々としながら目を開けた。

「ごっごめんなさいね……叫んだりなんかして……びっくりしたからつい……。それよりどうしたの? さっき猫が廊下歩いてたけど……。ねえ、何か割れる音しなかった?」

 彼女の声音は、先程の叫び声とは似つかないほど、ゆっくりで優しかった。

  一見すると、敬虔なシスターを思わせる大人びた風貌。

  しかしそののんびりとした声の加減から、どことなく少女のあどけなさを兼ね備えているようにも感じられた。

  少しウェーブのかかった亜麻色の髪から、香水のいい匂いが鼻を突いた。

  とっとにかくお茶碗の件を謝まらねば……。

「すみません……」

  頭を下げた俺を横目に、彼女は無言で和室の奥へ入っていった。

「どういう……ことなの……?」

  中の惨劇を発見したらしい。

  口調はおっとりとしたものだったが、言い訳は絶対許さないという嶮しい表情をしていた。

「実は……座布団を片づけようと思ったら、猫が入り込んで来まして……お菓子を食べてたから追い払おうとしたですけど、そしたら猫の足がひっかかって……」

  俺はたどたどしく説明をした。

  しかし彼女は発言に口を挟むことなく、静かに耳を傾けてくれた。

「あのー……」

  彼女が初めて発言を遮ってこちらに質問した。

「あなた……一年生?」

「はい……そうですが」

「何か部活ってやってる?」

「やってませんが……?」

  彼女少し間を置いて顎に手をやった。

  何事かを企てているように感じた。

「実は……お願いしたいことがあって」

「おねがい!?」

  てっきり怒られるとばかり思っていたので、想像していない台詞に少々戸惑う。

「私は茶道部部長三年の猪ノ熊美南いのぐまみなみといいます。今日は先生のお稽古の日なんだけど……部員が集まってないの。あんまり少ないと先生に失礼だから……お願い。一緒に参加してくれないかな?」

  と、手を合わせてきた。

  

  サドウ!? 

  この学校に茶道部なんてあったのか。初耳だった。

  そんなことより弁償ならともかく稽古なんてとんでもない。

「でも俺茶道なんてまったくもって門外漢ですし」

  とすかさず断った。

「お願い。座っているだけでいいから」

「でも……」

  俺が渋っていると、先輩はドスのきいた低い声になり、

「ねえ今、お茶碗割ったわよね……あのお茶碗は楽茶碗といってこの茶道部に代々伝わる由緒あるものよ、ウン十万もする……」

「そっそんな」

  俺は思わず口に手をあてた。

  膝が急にぐらぐらしてきた。

  よく膝から崩れ落ちるなんてこというけど、今まさにそれだ。

「もしあなたが稽古に参加してくれるなら、見逃してあげないこともないけど」

  小悪魔のようににっこり笑う。

  俺は頭に手をやった。

  今日限りの我慢ならば、後の憂いをなくすためにも、ここは参加しといた方が賢明だろう。

  結論はすぐに出た。是非に及ばず交渉成立だ。

  俺は力なく首をうなだれ、おずおずと頷く。

「ありがとうー」

  先輩は嬉しそうに俺の腕に胸を当て、体を密着させてきた。

  柔らかさと同時に弾力もある。

  ボールのようなその反動で、ぼんと跳ね返りそうな勢いだった。

  俺は照れながら少し身を引いた。

「本当によかった! 暇そうな人をあちこち探してたんだけど、なかなかいないのよねー」

  この人天然なのだろうか。

  今ピリリと失敬なことをおっしゃったような……。

  やっぱり関わり合いにならないほうがいいのかもしれない。

「じゃあ私は準備があるから、もういくらかで先生も来るわ」

 そんな俺の後悔を制するように、先輩は奥の部屋に隠れてしまった。

       

  割れた茶碗を掃き集めてゴミ置き場に持っていくと、昇降口から楽しそうに下校して行く生徒の集団が見えた。

  俺もあのなかの一人だったのに……。

  重い足取りで和室に戻ると、上履きがもう一人分増えていた。

  他の部員が来たのか? 

  そう思いながら部屋に足を踏み入れた。

  

  畳の上には美少女が一人。

  綺麗に背筋を伸ばし、ちょこんと正座していた。

  淡雪のようにはかなく白く透き通る頬。

  形の整った鼻に、赤くしっとりと濡れた唇。

  目を伏せているので長いまつげが際立って見える。

  青みを帯びた黒髪は畳にかすりそうな程長い。

  制服のスカートは細かな折り目まできれいに揃えられており几帳面な性格を物語る。

  異国の人形のようなその精妙な座り姿に、思わず魅入らずにはいられなかった。

  

  誰? 何年生? 

  このリボンの色は一年生か。

  まさか同じクラスじゃないよな? 

  ちなみに俺はクラスメイトと親交がないから、仮に同じクラスだとしても分からない。

  あれ、なんで白ストッキングなんて履いているのだろう? 

  まだ寒い日もあるけど、制服には普通黒ストッキングだろ?

  俺の視線に気付いたのだろうか、女の子が顔を上げ、驚くほど清んだ瞳でこっちを見つめた。

  いや見定めると言った方がふさわしいかもしれない。

  確かに急に不審な男が入って来た、なんて思われてしまっても仕方がない。

  こちらから先に何か言った方がいいか? 

  しかしボキャブラリーに乏しい俺には、適当な言葉の持ち合わせがなかった。

  

  そのとき、先輩が水場のある奥の部屋から出て来た。

「じゃあ、私そろそろ先生が来るころだからお迎えに行ってくるね。えーと……」

「あっ、一色です。一色といいます」

  空気を読み自ら名乗った。

  物事を円滑に進めるためには、これくらいの空気を読む力は必要だ。

  伊達に大人の顔色を伺って今まで過ごしてない。

  この点に関しては充分すぎるほど培ってきている。

「じゃあ、一色君と鈴鹿さん。子犬のようにお行儀よく座って、ちょっと待ってってね。逃げちゃダメよ!」

  先輩はユーモアたっぷりにそう微笑み、俺達を二人きりにして部屋から出て行ってしまった。

  

「ふーー」

  長めの溜息が自然と漏れた。

  なんでこんなことになってしまったんだ……。

  ずっと立っているわけにもいかないので、俺は女の子の隣に座ることにした。

  清潔感のある石鹸の匂いが微かに漂ってきた。

  匂いにつられ視界の端でちらりと見ると、彼女は真っ直ぐ前の空間を向いて、お手本のように正座していた。

  ここにいるってことは茶道部なのか? そりゃそうだよな。

  というかもともと二人しかいないってどういう部活だよ。

  よく廃部にならないな。

  それとも急に何人も休んだのだろうか?

  どうしよう、喫茶店で初対面の女の子と相席になったくらい空気が重い。

  こいつ確か鈴鹿とか言っていたな。

  ずっと無言でいるってことは、おとなしめの子なのかな? 

  茶道なんてやるくらいだから、きっとおしとやかな子に違いない。

  なら一か八か話しかけてみるか。

  でもここ最近人とまともに話してないし、そもそも女の子に気軽に話しかけられるような奴なら人生苦労してないよ……。

  俺はいつもの癖で内面世界の探求を始めてしまった。

  

「あなたどこを見ているの?」

  そんな俺に、隣の鈴鹿があきれたように尋ねてきた。

  どうもあらぬ方を向いていたらしい。

「えっ!? いや……」

  まずい、どもってしまった。

「あなたも新入部員?」

  続けざまさらに問い掛けてきた。

「いや俺は……」

  と言葉を濁す。

  茶碗を割ってその口止めとして参加してるだけだなんて言えない。

  よし、ここは一つかましておくか。

「まあ日本男児としては、嗜みのひとつとして茶道ぐらいやっておかないとな。素朴な味わいに好奇心をかきたてられるというか……」

  ……俺は一体全体何を言ってるんだ?

「茶道ぐらい……? そう……」

  彼女は何か含みがあるように冷たく言い放つと、それきり黙ってしまった。

  先ほどにも増し重苦しい空気が部屋に充満する。

  ……十秒前に戻りたい。

  

  あてもなく沈黙は続く。

  どういう因縁で俺は放置プレイされているのだろう。

  先輩はいつ戻るのだろうか。

  少し頭がぼうっとしてきた。

  背中が痒い。

  お腹空いた。

  モグラ叩きのように、次々と雑念が頭をよぎった。

「しっ、静かに」

  鈴鹿が張り詰めた声を出した。

  いや俺は自分の内面で話していただけだぞ。

  こいつ俺の心の声が聞こえたのか?

  すると間もなく廊下から、一定のリズムで足音が響いてきた。

  そして、入口のふすまがそろそろと開く。

  

  猪ノ熊先輩と……もう一人。

  髪を束ねた着物姿の女性が現われた。

  まるで王朝絵巻から飛び出してきたかと思うくらい美しい人だった。

  この人がお茶の先生か……。

  先生というからもっとご年配の方を思い描いていたが、三〇代後半だろうか。

  絶対に口答えを許さない威厳と気高さを兼ね揃えていた。

  ともかく俺なんかとは縁がない、やんごとなき階級の方に相違なかろう。

  隣の鈴鹿が、当たり前のように畳に手を合わせ、ついで頭を下げた。

  俺もつられて頭を下げた。

  先輩が隙間のないよう丁寧にふすまを閉め、

「先生、それでは今月のお稽古をお願い致します。本日は部員の何人かが家庭の事情で欠席しており、少人数で申し訳ありません。ですが新入部員の一年生二人が参加しますので、何卒ご指導お願い致します」 

  と畏まって挨拶した。

  な・ん・だ・と!? 

  俺はいつから茶道部に入部したことになってんだ。

  俺には自分の知らないもう一つの人格でもあったのか? 

  いやいや、いくら妄想癖のある俺でもそんなはずはない。

  それに入部届けなんぞ書いた覚えはないからお役所的には大丈夫なはず。

  学校の先生も公務員だから、書類の不備にはうるさいはずだ。

  

「点前は私がします。お客さんは、鈴鹿さん。お願いできるかな?」

「はい」

  隣の鈴鹿はよく通る声で答えた。

「せっかくだから、そちらの男の子もお客さんに入ってもらったら?」

  突然、先生が笑顔で謎の提案をしてきた。

  そちらの男の子……ってまさか俺のこと? 

  俺は頭にクエスチョンマークを作り、自分で自分を指さし確認してみる。

「そう。あなたしかいないでしょ」

  と先生は目を細めた。

「三人しかいないんだし。一人で見てるのも可哀そうだわ」

  先生は気を利かせてくれたつもりかもしれませんが……そりゃない、意地悪だ。

  俺は三〇分前まで茶道のさの字も知らぬ男だぞ……まあ現在進行形なんだけど。

  しかし、今の俺には拒否権を発動する権利もないし勇気はさらにない。新兵は言われるがまま上官に従うのみ。

  

  先生はいつの間にか立ちあがり、床の間に向かい一礼していた。

  続いて鈴鹿も続く。

  長い黒髪がゆらりと垂れた。

  これがお客の作法なのだろうか? 

  詳しい説明はされないものの、俺も急いで立ちあがり真似するだけはしてみた。

  床には掛け軸や花が飾ってあり、それらを飽きるくらいじっくり観賞する。

  その後再び立ち上がり所定の位置に着く。

  どこに座ればいいのか分からない俺に、鈴鹿がそっと隣を指した。

  俺達はそのまま黙って正座し、点前が始まるのを待っていた。

  いいのか? 俺はこうして座っていればいいのか? 

  どうしてこんなことになってしまったのだろうかと三度自問する。

  二〇分に一回自問しているからこのペースだと一日で七二回することになりそうだ。

  

  沈鬱の思いで冷や冷やしていると、先輩が我々の前にお菓子を持ってきて置いた。

  なんだ!? 

  茶道ってお茶だけでなくお菓子までもらえるのか? 

  それは大変ありがたい。

「食べてもいいんですかね?」

  念のため先生に訊いてみた。

「なに言ってるの。まだダメに決まってるでしょ」

  鈴鹿が鋭く睨みつけてきた。

  まるで冷気がほとばしる青いレーザービームで、体の芯から焼き殺すかのように……。

  目の前にわざわざ置いてくれたんだから、普通食べていいと思うだろう。

  そんなに目くじら立てなくてもいいじゃないか……。

「ええ、お点前さんに断ってからならいいんじゃないかしら。初めてだものね。遠慮しないで」

  先生は思ったよりも優しかった。

「一色君。お菓子をどうぞ。急いで食べなくていいからね」

  部長も助け船を出してくれた。

  俺は皿にあった爪楊枝みたいなのを使い、一口で食べ終えてしまった。

  高級で上品な味がした。

  確かにこれはお茶に合いそうだった。

「おいおい作法を覚えていきましょうね」

  先生が再び優しい声をかけてくださった。

  なんだ? 俺は知らぬ間に無作法を働いてしまったのか?

  隣の鈴鹿は顔を赤らめ俯いてしまった。

  耳まで真っ赤だった。

  何もお前が恥ずかしがることはないだろう。

  

  先程から奥の部屋にひっこんでいた部長が、一礼しあらためてこちらの部屋に出て来た。

  どうやらお点前とやらが始まるらしい。

  それから俺はよくわからないものを見ていた。

  よく分からない道具によくわからない動作。

  まずは布切れで道具を拭き始めた。

  キレイにするのは至極納得だが、わざわざ客の前でこれ見よがしに拭くこともないだろう。

  事前に準備できないものか。

  黙々と手順をこなしてはいるのだが、残念ながら俺には、それを用語で説明することができない。

  

  

  そうこうしている間に、部長がお茶を点て先生の前に差し出した。先生はお茶碗を回して飲んだ。

  回して飲むという所作だけは頭の片隅で知っていた。

  後から聞いたところによるとこれは、お茶碗の正面に口をつけないための作法らしい。

  その後も意味のわからない動作や会話をし、一通りの手順が終わった。

  そういえば、部長にこの部屋に連れて来られてから、優に一時間は経っている。

  実をいうと俺は正座がきつかった。

  崩そうとも思ったが、そんなことをしたら空気を読めない奴になってしまう。

  昨日見たバラエティを思い出し、気を紛らわせるが五分ともたない。

  脇にねばついた汗を流し、モジモジしながら、なんとか我慢を続けた。

  最後は先生のご感想を伺うのがお決まりらしい。

  いろいろ言われていたようだが、俺にはちんぷんかんぷんだった。

  

  それから先生、部長、鈴鹿の三人は奥の部屋へ入って行った。

  奥にはお茶碗などを洗う水場がある。

  布巾みたいなものを使って懇親に指導を受けていた。

  俺はここを逃せば後は無いとばかりに足を崩した。

  あぐらはやっぱり最高だ。

  血が足全体に行き渡り、つかの間の至福を味わう。

  思えば普段の生活で正座することなんてない。

  床に座ること自体も少ない。

  やっぱ慣れないことはするもんじゃないな。

  

  二〇分程して先生達が戻ってきた。

  とっさに足を戻す。

  だいぶくつろげたので疲労は回復していた。

「とても勉強になりました。本日はどうもありがとうございました」部長は先生に感謝を述べた。

やっとこの緊張感から解放されてお家に帰れる。

おうちにかえーろーおー。

そう思うと頬が自然と緩んだ。

徴兵は終わったのだ。

今日の夕飯はシチューかな。

「そうね。それじゃまた来月予定が決まったら連絡します。あと……鈴鹿さん。お稽古中は髪の毛、縛った方がいいかもね」

「あっ、はい」

  先生に注意された鈴鹿は頬を染め、長い髪の毛を無意識に指でいじっていた。

  確かにお辞儀したとき、髪が顔にかかって、いちいち直すのも面倒そうだった。

「あなたも……もう少し背筋をぴしっと伸ばしましょうね」

  先生は付け加えた。

「御意……」

  俺のこともちゃんと見られていた……。

  

「じゃあ私は先生を下までお見送りして行くから。鈴鹿さん、片づけ出来る分だけでいいからお願いできるかな?」

「はい」

  どうも俺は手伝わなくてよさげらしい。

  まあ勝手に道具をいじって壊わされても迷惑だろう。

  俺は先生達が部屋から出ていったのを見計らい、

「はーあ」と大きな声で、体内にたまった緊張を吐き出した。

  そして畳の上に手足を広げ大の字になった。

  いつもならこの時間は、ゲームで手に汗握っているところだが、今日ばかりは手だけでなく、額から脇、下半身と冷や汗たらたらだった。

  

  ほっと安堵したのもつかの間、視界が陰で暗くなる。

  目を開けると、鈴鹿が腕を組み、真上から俺を冷然と見降ろしていた。

  カチリと歯車のように目と目が合った。

「ねえ……一色君だったかしら? あなたこの神聖なお茶室でなにやってるの?」

  どんな怒鳴り声よりも怖い、震えるような声の冷たさだった。

  俺は背筋がびくっとし、あわてて居ずまいを直す。

「本当に礼儀がなってないわね。Manners maketh manて言葉知ってる? 礼節は茶道以前の人間の基本よ。寝るなんて言語道断。それに何、あのお菓子の食べ方? 先生の前でみっともない。私の方が顔から火が出そうだったわ。正座だってもぞもぞしちゃってだらしない。男の子なら修業だと思って少しぐらい我慢しなさい。」

  抑揚をつけないその話し方は、逆の意味で感情がこもっていた。

  俺は条件反射で目線を横の床の間にずらした。

「こっちを見なさい。お茶碗の持ち方だってなにそれ、ジュースを飲んでるじゃないのよ。ごくごく飲まないで、もっとゆっくり味わうものよ。なんであなたみたいなのが、茶道部に来てるのかしら」

  峻烈な鈴鹿の勢いに押され、俺はお尻をつけたままじりじり後ろに下がっていく。

「ほら、畳のへりを踏まない」

  もう耐えられないとばかりに、俺はへたへたと床の間に座りこんだ。

「そこは椅子じゃないわよ」

  鈴鹿は俺のネクタイを掴みひっぱりあげた。

「くっ苦しい」

  逃げ道は全て封じられた。

  まるでチェックメイト寸前のキングのように。

  後は絞首台の上で処刑されるのを待つだけ……。

  

「さっき新入部員って言ってたけど……私の聞き間違いよね?」

  俺の繊細なセンチメンタリズムは粉々に殲滅された。

  第一印象と性格は必ずしも一致しない。

  どこかの格言通りだ。

  最初におとなしそうだなんて、誤審したことを猛省する。

  今世紀最大の誤審だろう。

  こんな屈辱を味わうくらいなら、やっぱり参加しなければよかった。

  カノッサもこんな気持ちだったのかな……(注 カノッサは人名ではなく地名です)。

「こっちだってお前みたいなのがいるならごめんだね。だいたい俺は男だ。男が茶道なんてやっぱり馬鹿げてる。なにが日本男児だ。嫁入り前の花嫁修業じゃあるまいし」

「日本男児はあなた自身で言ったことでしょ。それに、あらあら、あなたは礼儀だけでなく、知識もないのね。千利休って聞いたことないのかしら。お茶のお家元は代々男性だし」

  俺の右脳が必死に訴える。

  こいつは某の天敵だと。

  俺の左脳も懸命に嘆願する。

  おいらの言語能力ではこやつには勝てんと。

  しからずんばすなわち逃げるにしくはなし。剣呑剣呑。

  俺は優秀な司令塔に忠実に従い、いつでも逃げ出せる態勢を整えた。

  

  そのとき、すっと、ふすまが開いた。

  先輩が戻ってきたのだ。

  やばい。先輩は立ち去ろうとする俺の前に立ちはだかった。

「ちょっと待って一色君。今日は参加してくれてありがとうね」

「どおいたしまして……」

  下を向いてやりすごすことに決めた。

「本当はあと二人来る予定だったんだけど、連絡がつかなくて……。もともと部員も少なかったから……。最近もう一人の三年生の部員が受験勉強に専念するってことで辞めちゃって……」

  先輩はマイペースな口調で話しながら、鞄から何かを取り出した。

「じゃあこれ入部届けだから。なるべく早く出してね」

  乳部……いや、入部届け? 

  いやいやちょっと待ってくれ。

  俺は慌てて先輩に耳打ちする。

「俺は今回だけの人数合わせじゃないんですか? お金はバイトしてなんとか返しますから。入部するつもりなんて毛頭ありませんよ」

  先輩もお返しとばかりに口を寄せ、俺の耳元にささやいてきた。

「あら、あのお茶碗は創部記念の貴重な一点ものよ。茶道部OBには権力を持った大物もいるって聞いたから、割ってしまったなんて知れた日には……もしかしたら一色君退学かもよ……うふふ」

  最後のうふふというなまめかしい吐息は、ぞわぞわと俺の未開発性感体を刺激した。

  しかしそれどころではない……退学だって!?

  退学と聞いた瞬間、俺は意識が遠のいていくのを感じた。

  そんなことになったら、のんびり安穏と学園生活を送る、どころの話ではない。

「二人してコソコソと何話してるんですか?」

  鈴鹿が怪訝そうに尋ねてきたが、先輩は涼しい顔で、

「えーと部室はこの和室ね。たまに使えない日もあるけど、だいたい毎日部活はやってるわ。そうだ、クラスも教えてもらえる? 部活休みの日は連絡するから」

  嗚呼、吾はあまりにも無力だ。

  今なら李白にも引けを取らない、いい詩が書けそうな気がする。

  誰か紙と筆をおくれ。

  

「美南先輩。本当にこんなのを部活に入れる気ですか?」

  鈴鹿こと俺の天敵が、扇子でバシッと顔を指してきた。

  こんなの呼ばわりとは……。

  それによく知らないが、扇子はそういう使い方をする代物じゃなかろうに。

「真夏ちゃん。そんなに怒らないで。いいじゃない、これも部の存続のためよ。人数いないんだから」

  その言葉を聞いて、鈴鹿は急にしゅんと黙ってしまった。

  先輩の発言はどうやら効き目があったらしい。

「それに新入部員が入るまでのつなぎよ、つ・な・ぎ。新しい子が入部したら、すぐクビにしちゃえばいいんだし☆」

  やっぱりこの先輩かわいい顔して失礼なことをさらっと言ってのける。

  無礼承知でからかってるんじゃないだろうか?

  

「ではあらためまして自己紹介しましょうか。私は三年C組猪ノ熊美南。一応この部の部長。みんなからは美南先輩なんて呼ばれているわ……っていっても後輩自体ほとんどいないんだけどね……ふふ」

「……私は一年A組の鈴鹿真夏すずかまなつ……」

  先ほどの元気もなくそれだけ言うと黙ってしまった。

  それにしても真夏だって? 

  どう考えても正反対だろ。

  こいつの厳しさは、真冬の凛々たる寒さを思わせる。

  美南先輩は黙っている俺に目配せをした。

「ああ、俺は一年D組の一色好一いっしきこういちです。今日は貴重な経験ができました。ありがとうござ…」

  そう言って上手いこと立ち去ろうとすると、鈴鹿が遮り、

「しょうがないわね。部活存続のためには、一色君みたいな人でもいないよりかはまだ好いかしら」

  とため息交じりに言った。

  言葉づかいはえらく上品でありながら、内容は容赦のないきつい言い方だった。

  けれども一応は俺を部員と認めたのだろうか?

  

「なんだよ。その言い…」

  と、反論し終わらないうちに、鈴鹿が鬼のように冷たく睨んだ。

  この冷酷無残な視線にはとても敵わない。

  まるで鬼に睨まれた鼠だった。

  天敵どころではない。

  食物連鎖の階層が幾段も違う。

  だが……元はといえば、俺にも多少の責任がないこともないなんて言えなくもない……。

  まあ何が言いたいのかというと、そのうち辞めるチャンスも来るだろう、焦ることはないということだ。

  茶道には寸毫も興味が湧かないが、部が潰れない程度には、協力させてもらうとするか……。

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[良い点] 最初の出だしが、興味を惹きます。  きゅっと閉じられた上品な唇は、キスできるほど近い。  彼女は「きゃっ」と甲高い叫びを上げた。 [気になる点] 興味を惹かれた部分が、何気なく終わってしま…
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