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ガタンガタン…ガタン!
ヒッヒーンッ!
「おはよう、ルルー!」
玄関に続く階段前ぴったりに馬を停めると、パン屋の若旦那が颯爽と馬から降りる。
ルルーよりも、5歳ほど年上だろうか。
逞ましく発達した腕と胸の筋肉が眩しく光る。
「フィン、いつも運んでくれてありがとう。…ふふ、でも、ウチへの配達はおじ様に禁止されてなかったらかしら?」
「いいんだよ、ルルー。朝に一度、君の顔を見なければ美味しい生地が練れないんだ。親父だって、最近は見ないフリだよ。」
フィン、と呼ばれた青年は、ルルーにパンを手渡しながら、時々ウットリとルルーの全身に目を遣る。
その目が、発情期の動物のようで、実はルルーはこの男が苦手だった。
先日も、配達と言ってはルルーの家に3回来た所を父親にみつかり、しばらく外出を禁止されていたはずだ。
「フフフ。最近また、パンが美味しくなったと思っていたの。あ、今日は4つ、貰えるかしら?フィンはおじ様より腕の良い職人さんね。貴方が幼なじみのお陰でいつも美味しいパンが食べれて、幸せだわ。」
代金を渡し、フィンを馬に乗るように促す。
毎朝の事だが、素直に馬に跨る気配はない。
折角、片足を掛けたのに、もう一度下ろし、フィンはルルーに向き合った。
「で、ルルー、この間の話なんだけど、少しは考えてくれたかな?ボクのパンは美味しいけれど、それを売る美しい女将さんがいなければ…」
きた!
そう、つい数日前に、フィンにプロポーズをされた。
パン屋の美人女将として、一緒に店を盛り立てて欲しい、親から受け継いだ大切な店、とね
フィンにしてはストレートで、かつ、彼本来の真面目さを感じさせる、誠実な言葉、だった。
返事を、真剣に答えなければ、と、思ってはいた。
一呼吸置き、ルルーはフィンに真剣な眼差しを向ける。
「…フィン、貴方が嫌い、な訳じゃない。真面目だし、友人としても、尊敬する。…ただ、ただね。…私、まだ、自分の人生を…いえ、人生が、始まっていない気がするの。」
答え、だった。
真剣に、返したいと、そう思った結果、この言葉が答え、だった。
「…えっと?ルルー、それは、要するに、ノー、という事?」
「そのようだな。」
がちゃん…と、玄関のドアが開く大きな音がしたと同時に、低く、怒りを孕んだような声がフィンに留めを刺した。
玄関に寄りかかり、声の主は腕を組んだまま2人を見下ろす。
より随分と大柄で、歳こそいっているが、まだまた現役の眼光だ。
「とう様!…ええ、もう用事は終わったわ。さぁ、フィン、行って!」
ペチンッ!と、馬の尻を叩くと、ルルーはパン屋一行に手を振った。
「また来てねー!!」
「必ずー!」
と遠ざかる声に手を振りながら、彼が見えなくなった所で、ルルーは大きなため息をついた。
「…本心、か。」
「今の?…結婚を考える段階でない事は、本心だわ。」
エプロンの中に黒パンを4つ抱えて、ルルーは階段を駆け上がる。
「ルルー、悪くない話だろ?」
ルルーを先に玄関に通しながら、ゾイは言った。
「結婚なんて考える歳じゃない。それに、私がお嫁に行ったらとう様はどうするの?パンのスライスも出来ないのに。」
…私がフィンと…?…冗談キツイよ。
クスリ、とルルーが笑った。
「自分の能力を過大に評価し過ぎていて、成長が遅い。パンだって毎日同じ黒パンばかり。ただ、毎日毎日欠かさずに村からルルーに会いに来る根性だけは、褒めるに値するな。」
キッチンに立つルルーの後ろ姿を、ダイニングテーブル越しに見つめながら、ゾイはコクン、とお茶を吞み下す。
「ルルー、パン屋のオカミさんなんて、普通の幸せだっていいんだ。オレは、いつ死ぬか分からない。」
「…やめて」
カチャン、とわざと食器を音を立てて並べながら、ルルーは顔を上げた。
「とう様が心から喜んでくれる為なら、フィンと結婚してもいいわっ!」
「…でも、死ぬなんて、そんな事、言わないで…」
クルリ、とゾイに背を向けて、ルルーは涙を拭う。
ゾイとの生活はいつまで続くか分からない。
胸が千切れるような、あの別れが、またやってくる。
「分かっているから。だから、その時まで、口に、出さないで…」
握りしめ、まな板の上に置いた拳に涙が落ちる。
「…すまない。」
震えて涙を流す小さな肩を、そっと抱きしめて頭を撫でる。
ゾイは、懐から出しかけた黒い封筒を仕舞うと、娘をもう一度、強く、優しく抱き締めた。