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硲153番地  作者: iliilii
第五章 風と光の景色
38/40

遺された娘①

 春と夏の分け目も終わり、そろそろ梅雨も明けようかという頃、桜のもとに養父から荷物が届いた。


 帰宅早々、タエから真山弁護士事務所と印刷されたマチ付きの分厚い封筒を渡された桜は、訝しみながらもタエと二人の夕食を済ませ、一息吐いてから開封し、一通り目を通していった。

 養父から送られてきた書類はわかるようなわからないような、彼の意図を理解するには難解な文章だった。

「これ、わかる?」

 残業で遅くに帰宅した秀の夜食に付き合いながら、桜は持て余していた書類を差し出した。

 秀は眉根を寄せながら、時間をかけて一枚一枚捲っていき、結局、秀も桜同様最後の一枚まで眉を開くことはなかった。

「だいたい、かな」

「やっぱり? 私もざっくりしかわからなくて」

 専門用語と専門書式で綴られた書類は、おそらく法律関係者でなければ正確に理解できないであろう、難解を通り越して暗号のような文章だった。

 一番の違和感は、読点が「、」ではなく「,」で書かれている点だ。正直それだけのことでも普段「、」を見慣れている桜などは読みづらいと感じる。これは弁護士のクセのようなものらしく、養父は走り書きですら「、」ではなく「,」を使う。

 おまけに言い回しが独特で、桜は子供の頃に拒否反応を起こして以来、義父の文章がすんなり頭に入ってきたためしがない。

 大まかにはわかる。その大まかにわかった内容的に、その程度の理解で済ませていいものではないだろうこともわかっている。かといって養父に説明を求めるのは面倒でもあった。おそらく桜のほしい答えがすんなり返ってくることはないと断言できる。それができるなら、そもそもこんな難解な文章を送ってきたりはしない。

 悪気はないのだ。だからいつも桜は困惑する。

 桜から見た養父は頑固だった。正義感が強く融通が利かない。彼の妻や娘とも意見は一致している。悪気のない頑固者ほど度し難い。これは彼の妻の弁だ。

「どうしよう、コウさんならわかると思う?」

「どうかなあ。俺よりはマシだろうけど、やっぱりニュアンスまではわからないんじゃないかな」

 眉間に皺を刻んだまま、最初の一枚目に再度目を通す秀は「もう出だしからして何言ってるかよくわからない」とぼやいていた。




 翌朝、粗方朝食の準備が整ったところで件の書類をタエに見せると、ちらっと目にしただけで無理無理と顔の前で手を振り、「小難しものを見ると洟が出ちゃうんだよ」と逃げるようにキッチンに引っ込み、ぶびーと豪快な音を立てて洟をかんでいた。タエは小難しいものアレルギーだと言い張る。

 巧はざっと一通り目をとして、「俺も苦手」と匙ならぬ書類をテーブルの上にぱさりと投げた。

「ヨッシーならわかるかもな。一応国会議員だし」

 国会議員の仕事は立法だ。宇都見自身は秀と同じ理工系の大学だったとはいえ、法律を作る仕事をしているならこの難解な文章も読めるだろう。昨晩からどんよりしていた桜の気分が少し上向く。

「ただ、内容知られていいの? これ、いわゆる桜ちゃんの出生の秘密ってヤツなんじゃないの?」

 そう言って巧は桜と秀を順に見て、もう一度書類に手を伸ばした。

「それよりも。桜ちゃん、資産管理もっと積極的にした方がいい。維持してるだけじゃ増えないよ」

 おまけのように添付されている資産一覧を確認する巧の表情が渋い。彼は秀の資産管理をしているだけあってシビアだ。これまでの桜には増やすという考えがなく、夏生の支援を初めてようやくそこに意識が向くようになったばかりだ。

「どうする? 資産についてはコウに任せておけば問題ないとして、こっちは宇都見さんに見てもらう?」

 出生についてしばし思いを巡らせた桜は、秘密にしておく理由が見当たらず、「そうしようかな」と気のない返事をした。


 桜はこれまで、深山 正春と香の娘であると認識してきた。両親の死後は真山家に引き取られてはいたものの、戸籍上は深山 桜のままだった。

 幼い頃一緒にいた秀も、当時は父や母の概念がはっきりしなかったとは言いつつ、一緒に暮らしていた男女が桜の両親だと認識していた。

 ところがどうやらその書類によると、桜の本当の父親は別の人らしい。ざっくり理解した桜と秀の見解も一致している。

 いまさら「実の父親は別人でした」と言われたところで、桜としては「はあ、そうですか」としか言いようがない。驚くことは驚いたものの、すでにどちらの父も母も亡くなっている以上、今更どうにもしようがない、というのが桜の本音である。

 事実だけがぽんと投げ掛けられ、桜はそれを上手くキャッチできずにいた。

 桜にとって家族とは秀に他ならない。桜の記憶は秀と出会った瞬間から始まっている。父も母も現実味を伴わない記憶の中ですら遠い存在であり、今となってはタエや巧の方が余程家族に近い。

 秀も似たようなものらしく、「あの人桜の父親じゃなかったのか。父親とはああいう人のことをいうものだと思っていたのに……」と彼の中の父親の概念が覆ったという点では驚いていた。


 キッチンに逃げ込んでいたタエが食卓に着き、四人揃って揃って「いただきます」と手を合わせる。

「今は会社辞めるタイミング逃しそうな方が差し迫った問題かな」

「はあ? まだ辞表出せてないの?」

 何を暢気な、と言わんばかりの巧に桜は苦笑する。

 この家に住み始めてからというもの、勘がそれまで以上に冴えるようになった。それは桜の勘違いではないようで、何かの折にタエに話した際、「周りに惑わされて勘を鈍らせないように」と助言されている。

 その勘によれば、次の春まで桜に害はなさそうなのだ。ようやく仕事の流れがわかってきたところでもある。なにより、今の桜の実力では次の仕事が簡単に見付からないだろうこともわかっている。だったらもう少し、と考えてしまうのは必然だろう。

 すでに退職した巧は様々なセミナーを受講しつつ、そよかぜ園の職員として働き始めている。午前中はセミナーに通い、土日は奈緒美とのこともあって休みをもらうせいか、平日の帰宅は深夜に及ぶ。

「出せてないの。私のポジションだとあんまり関係ないといえば関係ないし……今月小林さんと松沢さんが揃って辞めるから、それで急遽人を増やした分、こっちにもしわ寄せがじわじわ。あ、このミョウガの、ぬた? おいしい」

 キュウリとミョウガが酢味噌で和えてある。瑞々しいのに水っぽくない。桜はタエに料理を教わるようになってからというもの、日々下拵えの重要さを実感している。

 桜が育った真山家は、和食より洋食メインだった。はっきり和食と断言できるような料理は滅多になく、大抵は洋風にアレンジされていた。幼い頃の桜にはその方が嬉しかったものの、日本を離れていた数年ですっかり日本食が恋しくなってしまった。

 そもそも真山家はお米自体をあまり食べる方ではなかったのだと、ここに住むようになって実感した。ここでは主に和食だ。それも料亭といわれるような場所で出てくるような、本格的な日本料理。

「今日のお昼は夏ミョウガの肉巻きだよ」

 お弁当はタエが毎朝作ってくれる。彩りバランスもいい冷めてもおいしいお弁当があるから、仕事にも張りが出る。

「へえ。俺初めて食べるかも」

 巧が嬉しそうな声を上げる。秀も「俺も」とのんびり相槌を打つ。タエが目を細めて笑う。毎朝繰り広げられるこの穏やかなひとコマを桜はこよなく愛している。

「今年はミョウガがよくできたんだよ。去年はイマイチだったからねえ。かわりにオクラがイマイチだよ。去年はよく採れたのに」

 それまで苦手としてきたミョウガなど香りの強い野菜も、タエの畑で作られたものだとどういうわけかすんなり口に入る。それは桜だけではなく、秀や巧も同じだった。タエが言うには、それこそこの地で採れる野菜だからで、そもそも水からして違う。




 この屋敷の奥、玄関から真っ直ぐ裏庭まで突き抜ける広い廊下の中央部分には、一見何の変哲もない板張りに見えて、その実、隠し扉が存在している。電動の床が静かにスライドすると、地下へと続く隠し階段が現れるのだ。

 初めてそれを目にしたとき、桜は無邪気にも胸を高鳴らせたものだ。


 地下には小さな洞窟があり、滾々と水が湧いている。その水がこの屋敷の水源になっている。

 洞窟というよりは大きな岩で囲まれた祠のようなそこは、厳かな雰囲気のわりによく見る注連縄や紙垂のようなものはなく、タエが言うには、彼女が知る初めから素っ気なかったらしい。

 ただし、洞窟内の空気は重い。純度が高いとでも言えばいいのか、分け目にこの地を襲うなにか(、、、)や、時々気付く、目に見えるようでいて見えないなにか(、、、)と似た気配がある。

 それほど広くはない洞窟のはずなのに、その奥は闇に沈み人の目に映ることはない。底冷えする真冬の夜が詰まったかのような漆黒が無限に広がっている。

 桜などはあまり長くいると取り込まれてしまいそうで、その入り口で爪先が躊躇する。怖いというよりは、畏れに近い感覚。

 タエは慣れたもので、分け目の前にはかなり雑な手付きで湧きたての水を汲んでいる。

 どういうわけか、水を汲んでるときは息を止めちゃうんだよねえ、まあ、桜もそのうち慣れるよ、とタエはあらゆる不思議を受け入れたような顔で、その場と同じくらい素っ気なく言う。


 その水で紙を漉き、墨を擦り、分け目に必要な(、、、)人間を水に()く。


 この硲という一括りの杜は大きく三つのエリアに分かれる。

 一つは玄光寺や月閒神社がある、ある程度の人が足を踏み入れられる外。見付けられる者か、招かれた者しか足を踏み入れられない境井家の敷地である内。そして、境井家のプライベートエリアでもある奥。

 奥は硲の人間以外はほんの数時間滞在するだけで寿命が縮む。タエの真剣な表情から揶揄ではないことを悟った桜は、そこで初めてこの地に驚きと恐れを抱いた。

 そのため、家の改装などは長い時間をかけて行うそうだ。外で加工し、内で組み上げ、それを奥に持ち込み短時間で仕上げる。昔は硲の人間がそれなりにいたらしく、この家の基礎や骨組みはその頃に造られている。ここ、硲の杜で育った木材で造られているため、傷みが少ないのだと桜は教わった。それは硲に限ったことではなく、その土地で育った木材で家を建てると持ちがいいそうだ。


 巧から奈緒美を紹介されると同時に、表の客間と玄関を対にして位置する開かずの間が解放された。

 木製のはめ込み式の壁が外され、囲っていた外壁のような雨戸も開かれると、客間と対をなす広縁とその奥に二間の和室が現れた。

 家主であるタエですら出入りしている気配がなかったため、古い物が保管されている蔵のような場所だと思い込んでいた桜は唖然としたものだ。

 梅雨晴れの揺らめく光が広縁に落ち、数年分の埃がきらきらと舞い踊る開放感に満ちた室内を、タエは懐かしそうに目を細めて見渡していた。

 数年前にリフォームされているとはいえ、造りはかつてタエが使っていた頃と変わらないらしい。

 欄間の意匠がもっと古くさかったとか、畳縁の柄がイマイチだったとか、襖の引手がかわいくなかったとか、お風呂は薪だったとか、(かまど)があったとか、何よりトイレがくみ取りだった等々、タエはぶつぶつ文句を言いつつもどこか嬉しそうで、以前と変わらないという艶々の床柱を感慨深げにしきりと撫でていたのが印象的だった。

「私も最初はここからだった」

 タエもこの部屋から始め、奈緒美もこの部屋から始まる。数年かけて硲というこの地の全てを躰に馴染ませていくのだという。

「ん? でも私は……」

「桜は別格。子供の頃に三年かけてシュウが硲を染み込ませただろう。躰ができる前に染み込むと、疑似硲体が出来上がる」

「疑似硲体……」

 そう聞いたとき、一瞬桜は自分の躰がサイボーグにでもなったかに思えたものだ。指先を曲げ伸ばし、改めて肌の色などを確かめる。人と変わったところはないような……と複雑な思いでタエを見れば、タエは悪戯が成功したとばかりに笑っていた。

 夏生もタエが言うところの疑似硲体なのだそうだ。




「宇都見さん、週末泊まりに来るって」

「菜乃佳からも連絡来た。夏生ちゃんと一緒に泊まりに来るって」

 紆余曲折があり、菜乃佳と夏生は宇都見家に居を構えることになった。

「ってことは、源ちゃんも来るね」

 タエがまた何か企んでいるような顔でにんまり笑う。

「ヨッシーの秘書も一緒だって話だろ?」

 巧が珍しく夕食時に家にいる。この家の夕食は少し遅めの午後八時。

「そうなの?」

「そうらしい。宇都見さんもああいう文章は苦手なんだって。その秘書の人、元検事だって話だよ。法案関係は任せっきりだって」

「国会議員ってそれでいいの?」

 桜の疑問に、さあ、と秀は半笑いだ。巧は、ダメ議員、と遠慮なく笑っている。

「ヨッシーの秘書はそこの神社の三男坊だよ」

 さらっともたらされたタエの一言に、三人揃って箸が止まった。タエはしてやったりとにんまり笑う。

「秘書に推したのは源ちゃんだよ」

 そんな繋がりがあったのか、と三人それぞれ似たようなことを呟いた。

 月閒神社の守護家は、どういうわけか男の子しか生まれない男系らしい。代々三人の男の子をもうけ、最初に生まれた男児が硲の御用聞きのようなことを行い、次に生まれた男児は神社を守り、最後に生まれた男児は外に出るのが慣例らしい。

「長男が御用聞きになるってことは、神社の主より硲の御用聞きの方が重用されるってことか」

 巧が感心している。

「普段は主みたいな顔してるけどね。挨拶に行ったときに会ったのは長男だよ」

「あの人が宮司なのかと思ってました」

 秀が少し驚いた面持ちになる。

 秀は人によって言葉遣いを変える。巧には遠慮なく、タエには丁寧に、桜には柔らかく。

「でも確か、宮司ですって名乗ってなかったか?」

「あ、私も宮司ですって名乗られたような……」

 巧も桜も秀に続いた。

「宮司は宮司だよ。あそこの息子はみんな宮司って名乗るんだよ。本来の神社じゃないからね、その辺いい加減なんだよ」

 へえ、と感心する三人を見渡し、タエがまたもやにんまりと笑う。

「なにせ名字が宮司だからね。昔名字つくるときに勝手に宮司にしたんだって話だよ。昔はおおらかだったからねえ」

「なんだそれ。おおらかで済ませていいのか?」巧が呆れたように呟く。「ん? でもヨッシーの秘書って内藤じゃなかったっけ? あれ? もう一人の方の秘書か?」

「内藤は母方の名字だね。外に出る三男は母親の名字の方を使うんだよ」

「宇都見さんは知ってるんですか?」

「知るわけないよ。まだ内緒だよ。いつ気付くか源ちゃんと賭けてるんだから」

 タエがこれ以上ないほど意地悪そうに笑った。

「でもそれバレたらやばくないか? 色々言われそうだけど……」

 宇都見は今、子供シェルターをつくろうとしている。その候補地の一つに月閒神社の敷地の一部が上がっている。敷地の端っことはいえ、ちょうど道路を挟んだ目の前に交番のある好立地だ。

「言われるもんかい。公的資金なしの民間経営なんだから」

「タエさん、裏で手を回していませんよね」

 訝しそうな秀にタエはすっと目を細め、首を振った。

「そんな面倒なことするわけないよ」

 あやしい。つい桜は呟いた。

「なんだい桜まで。裏で手を回しているのは宮司の三男坊だろうよ」

 ふーん、と鼻を鳴らした桜の横で、秀が巧に「いいの?」と声をかけた。

「まあいずれバレることだから」

 奈緒美のことだ。

 週末になると泊まり込みで開かずの間だった客間の掃除や設えを巧と一緒に調えている奈緒美は、家族にはっきりと「彼の家に泊まる」と宣言しているらしい。彼女の祖父である源三は渋い顔をするものの口出しはしてこないようで、兄である宇都見はたいした関心も示さないと言っていた。

 その「彼」が巧であることを二人はまだ知らない。奈緒美の提案で先に離れて暮らす彼女の両親には挨拶に行っている。

 二人とも驚くだろうが妙に納得もするだろう、と秀は言う。腑に落ちるだろう、とも。おそらく秀本人がそうだったのだろう。

 巧と奈緒美の場合、正式に結婚、つまり硲の奥にある巧の部屋で同居するまでには時間がかかることもあり、無事同居となったあかつきには、秀と桜共々一席設けることになっている。盛大に披露目の宴を張らねば、とタエは今から張り切っている。






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