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硲153番地  作者: iliilii
第四章 メリーゴーラウンド
34/40

奈緒美

「奈緒?」

 駅構内に響く雑多な喧噪の中、耳に触れた声に宇都見 奈緒美(うつみ なおみ)は俯いていた顔を上げた。

「あ……」

 今の鈍重な思考ではそれ以上の言葉を見付けられず、ホームを照らす白い灯りの下、困惑気味に佇む男を奈緒美は為す術もなく揺らぐ視界の中に入れ続けた。

 大丈夫か?

 ん、大丈夫。

 お前すげー顔色悪いぞ。

 本当は気持ち悪い。

 そんなやりとりをした覚えがある。

 新年度の慌ただしさがなんとか落ち着いた頃、久しぶりに集まった高校の同級生たちとカジュアルなレストランから瀟洒なバーに移動し、飲み慣れないカクテルのパステルな甘さと女同士という気安さから、奈緒美は自分が知る酒量をいつしか超えてしまった。

 ホームのベンチに腰をおろした途端、根が生えたように動けなくなり、電車の発する明かりが煌めくメリーゴーラウンドのように目の前をぐるぐる通過していった。


「奈緒、一度起きろ」

 小さく唸るような声が奈緒美の口から漏れる。

 耳の縁を優しくなぞるその声音は奈緒美に安堵を抱かせ、躰の力が自然と抜ける。

「水飲め」

 肯定の唸りを上げる奈緒美の肩の下に手が差し入れられ、ゆっくりと上半身が起こされる。繊細に扱われているのがわかるのに、酔いが奈緒美の頭の中を乱雑に掻き乱す。

「ほら、口開けて」

 薄く空けた唇に硬いものが触れる。冷たく硬いその先から滑らかな冷たさが唇に触れた。水だ、と理解した躰が強烈に水分を求めた。にもかかわらず、目蓋は重く、躰の動きは鈍く、咽せないように少しずつ口内に入り込む少ない水量に奈緒美は眉を寄せることで不満を示した。

「面倒くさい女だな」

 小さく舌打ちをした口から直接水分補給される。乾涸らびて鈍く熱を持った躰に甘美が行き渡る。

「甘い酒飲んだ?」

「ん」

「カクテル?」

「ん……」

「あんま飲み過ぎんなよ」

「ん」

「あんなとこでぼけっと座ってんなよ」

「ん」

 水分補給の間の会話はこんな感じだったはずだ。与えられた水はやけにおいしかった。飲み込むたびに喉の奥が小さく鳴り、鼻にかかった音を返した。奈緒美はお酒を飲むと鼻が詰まる。あと血行がよくなるせいか足の裏がむず痒くなり、指先が熱を持つ。

「お前すげー躰熱いぞ」

「ん……」

「なんか気合い入った格好だし」

 女同士の飲み会は、合コン以上に服装に気を遣う。そんなことを奈緒美はぼそぼそと話した気がする。

「合コン……お前の口からそれ聞くの結構きついな」

 自分が放り出したくせに。そこだけははっきり覚えている。そこではっきり意識が戻った。恨みがましく薄目を開けると、長内 巧は困ったように笑っていた。




「奈緒美、やっぱ家庭教師つけろ。俺の友達に頼んだから」

 教師の孫が塾に通うのは許さん、という頑固な祖父の言い分を納得しているのは兄だけで、父も母も「いまどきそんなこと誰も気にしない」と呆れていた。

 奈緒美は出来る子供ではなかった。なんでも小器用にこなす兄とは違い、なんでも今一つの妹であり、子供であり、孫であった。

 志望校は入れるところ、をモットーとしてきた奈緒美に待ったをかけたのはやはり祖父で、なれるものになること、を目指してきた奈緒美の根性を叩き直そうとしたのも祖父だった。祖父の言うことがいちいち正論なだけに、奈緒美は反発心をじりじりと募らせ、それと同時に成績も伸び悩んでいた。


 後日、兄に紹介された二人は、本当に兄の友人なのかを疑いたくなるほどの美形だった。イケメンなどと軽々しく言えるような雰囲気ではなく、まさに二人を形容する言葉は「美」だった。

 ハーフのような容姿と髪色のシュウと名乗った方が主に理数系を、男らしい黒髪のコウと名乗った方が主に英語など文系全般を担当する。奈緒美はその違和感を率直にぶつけた。

「シュウさんが英語じゃないの?」

 それに苦いものを呑み込んだような表情で笑う秀と、声を上げて思いっきり楽しそうに笑う巧に、奈緒美は訊いてはいけないことだったかと肩をすぼめた。

「こう見えてシュウは日本語以外全くダメなんだよ」

 笑う巧を小突きながらの兄の説明が信じられず、ともすれば外国人にも見える秀を奈緒美は遠慮の欠片もなくまじまじと眺めたものだ。

 二人とも週に一度か二度、代わる代わる奈緒美に勉強を教えに来た。おまけに二人とも教え方に容赦はなく、おかげで奈緒美の成績は遅まきながらぐんと伸び出した。


 そして、奈緒美は真剣に将来のことを考えるようになった。家庭教師となった二人がちゃんと生きていたからだ。

 それまでの奈緒美の周りには「今」を生きる子供ばかりで、「先」を見据えて小言を並べるのは年寄り、つまり祖父を初めとする「今」を楽しめているとは思えない大人ばかりだった。

 年の近い二人が常に「先」を見て「今」を生きる姿勢は奈緒美に大きな衝撃を与えた。

 当然のごとく二人は祖父に気に入られ、祖父の言葉を二人がかみ砕いてくれるおかげで、奈緒美も祖父の言うことをなんとなく受け入れられるようになっていった。

 おそらくあの頃の兄も二人から多大な影響を受けていたはずだ。今の兄を形成する一端をあの二人が担っていたのは間違いない。今の奈緒美を形成する一端どころか大部分を巧が担っていたように。


 秀も巧も兄が羨むほどよくモテた。兄曰く、秀はアイドル的なモテ方、巧は高級ブランド的なモテ方らしい。それは後者のモテ方を心配するような口振りだった。「まるでコウを所有したがっているようにしか見えない」兄はよくそう溢していた。

 実際に奈緒美も巧から聞いたことがある。あまりにしつこい、ストーカー化しそうな人の場合、一度だけ食事に付き合うらしい。全ての支払いは相手にさせるのだと悪い顔で笑っていた。その際、秀に会わせると相手はまるで毒が抜けるように巧への興味をなくすらしい。

「なにそれ。シュウさんって毒消し?」

「あいつにはそんなところがあるんだよ」

 そのときの巧がなんだか淋しそうに見えて、奈緒美は咄嗟に言ったものだ。

「いつかシュウさんに会っても、コウさんのこと好きで居続けてくれる人が現れるといいね」




「ここ、どこ?」

「それよりお前、なんであの駅にいたんだ?」

「間違えたの。なんか違うなーって思ってたら、急行だったせいで停まらなくて」

 酔いに舌が絡め取られる。間延びした口調に奈緒美は顔をしかめた。鼻にかかった自分の声が甘えたように響いてとにかく不快だった。

「普通路線間違えるか? お前は昔っからそういう根本的なことを普通に間違えるよな」

 珍しく新宿で飲んでいたはずなのに、どういうわけか渋谷で飲んでいると思い込んだ。きっと切符を買っていれば気付いたはずだ。改札をICカードで通過したせいか、普段電車を利用する機会が少ないせいか、鈍くなった頭は細かいことをスルーした。おかしいな、こんなだったっけ、また工事したのかな、などと渋谷駅の再開発を頭に浮かべながら足を動かし、聞こえてきた停車駅の一つが奈緒美の脳をさらに痺れさせ、突き動かされるように躰は自然と見慣れない車両に乗り込んでいた。


 呆れ顔の巧越しに見える景色は妙に立派な和室だった。

 枕元に置かれた行燈の柔らかな光に浮かび上がる巧の姿は、出会った頃よりもずっと男らしくなっていた。

 何もかも知っているのに、何も知らない男性(ひと)

 沁み入るような淋しさが奈緒美の胸に広がった。


「本当は、会いたかったのかもしれない」

 酔いに任せて口を衝いた言葉は、誤魔化しようのない奈緒美の本心だった。

「お兄ちゃんは最近しょっちゅう会ってるみたいだし、おまけにおじいちゃんまで会ったって言うし……どうして私だけ……私が一番会いたいのに……」

 ぼそぼそと子供のようなわがままが零れ落ちる。溢れ出る子供っぽい言葉遣いに嫌気が差した。やけくそだった。どうせもう会えないのだ、思っていることを吐き出してしまえ、そんな気分だった。

「俺も会いたかった」

 思いがけない言葉に奈緒美は耳を疑った。奈緒美の背を支えるように抱き起こしている巧はどこか遠くを見つめながら、もう一度言った。

「俺だって会いたかった」

 その声はどこか遠くから響いてきた。




 ふと目が醒める。

 いつもと違う寝心地に軽く躰を起こしてみれば、夢ではない現実が手を伸ばせば届く距離に横たわっていた。

「コウさん」

 呼びかけながらその肩を軽く揺さぶる。

 手の甲に被さる紺地に見覚えはなく、不審に思った奈緒美が視線を降ろせば、いつの間にか浴衣を着せられていた。慌てて乱れている胸元を整える。素肌に浴衣。目の前の男に着せ替えられたのかと思うと奈緒美はなんともいえない気持ちになった。

 広々とした和室に二組の布団が敷かれている。畳の爽やかな香りが鼻をくすぐり、枕元には見覚えのある行燈がひっそりと灯る。その脇には漆塗りの丸盆に江戸切子の水差しとグラスが置かれている。

 音のない夜明けだった。

 部屋を見渡せば、奈緒美の着ていた服が和室の隅にある衣桁屏風にかかっている。その足下には奈緒美のバッグが置いてある。

「ねえ、コウさん起きて」

「んー……」と唸りながら巧が薄目を開ける。「なんだよ奈緒、もう起きたの? 二日酔いは?」

「頭痛いけどそれどころじゃない。ここどこ?」

「俺んち、の客間」

 寝たままぐうっと長い手を伸ばした巧が躰を起こしてもう一度伸びをする。完全に気を抜いた無防備な姿に奈緒美の胸はざわついた。

 朝の気配が障子の白を透かす。

「コウさんちって、シュウさんと一緒に住んでる……」

「そう、タエさんち」

「じゃあ、この浴衣は?」

 同じく浴衣姿の巧が暢気にくわっとあくびをする。

「それ俺の。でかいけどまあいいかって。お前人の服借りるのやだろ。浴衣って着せるの楽でいいな」

 道理で袖が長いはずだ、と思いながら、なんとなく着替えを渡された記憶が薄らと脳裡に浮かぶ。浴衣を羽織り、背を向けた巧に言われるがまま着替えたような気がする。最後に巧が帯を結んでくれたような。

 裸を見られたかもしれない羞恥よりも不可解さが先に立つ。

 奈緒美の知る巧は付け入る隙を与えない人だった。たとえ奈緒美が友達の妹として見過ごせない存在であったとしても、駅からタクシーに乗せてしまえば済む話だ。他人を自分のテリトリーに招き入れたりはしない人だと思っていたが、ここ数年で変わったのだろうか。

 奈緒美は言い知れない淋しさに打ち拉がれそうになる。そう考える一方で、居場所が判明したことによる不安が頭をもたげた。

「私、泊まってもよかったの?」

 水差しから水を移したグラスを巧から手渡される。無言の「飲め」に従い口をつけた奈緒美は、軽く含んだひと口が強烈な渇きの呼び水となり、あとは一気に喉の奥に流し込んだ。

「ん、なんで?」

「だって、共同生活って、そういう、ルールみたいなものないの?」

 もう一杯飲むか、の巧の眼差しに、奈緒美は小さく首を振り静かにグラスを丸盆に戻す。身動ぐごとに立つ衣擦れがやけに耳に付いた。

「んーあるけど、タエさんに訊いたら、奈々ちゃんの孫に会いたいって言うし、なんか俺も覚悟決まったし。とりあえず、風呂入る?」

 奈々ちゃんとは奈緒美の祖母のことだろう。奈々子というかわいらしい名前だったと聞いている。

 巧の言う覚悟が気になったものの、それよりも奈緒美はお風呂に入ってアルコールを抜きたかった。冷静な判断をしかねる状態なのに、最も冷静な判断が必要とされる事態が発生している。何より気まずい。

「入っていいの?」

「いいけど、タエさんケチって女湯しかいれてくれなかったんだよ。俺も入っていい?」

「さすがに人の家で一緒にはいるのは……」

「大丈夫だよ、ここの風呂でかいから」

「そういうことじゃなくて」

 にやにや笑う巧を見て、奈緒美はからかわれたことを悟る。人を食ったようなその態度に奈緒美は微かに苛立つ。同時に、変わっていない巧の資質に安堵もする。

「シャツとかは昨日のうちに俺の部屋の洗濯機で洗っといたから、たぶんもう乾いてる。あとで持っていくよ」

「シャツとかって、まさか下着も?」

 下着も脱ぐよう言われた覚えのある奈緒美は、顔を熱らせながらどんな下着を着けていたかに思いを巡らす。裸を見られるより下着を見られる方が恥ずかしい。酔って正体をなくし、相手が巧だからと素直に従った奈緒美も奈緒美だが、かつてと同じように接する巧も巧だ。

 デリカシーに欠ける行為に奈緒美が熱った頬を誤魔化すよう睨み付けると、巧は慌てたように口を開いた。

「前に言われた通りちゃんとネットに入れたから」

 そういう問題じゃなくて、と言いたいのをぐっと堪えて、ひとまず「ありがとう」とだけ言っておく。

 目の前の男が何を考えているかわからない。

 まるで時間が巻き戻ったかのようなやりとりは、どこにも無理のない、どこまでも自然で、数年のブランクなど感じさせないまま、まるで水が流れるように二人の間を通り過ぎていく。

 奈緒美はぐっと奥歯に力を入れ、浴室の場所を教わった。


 ここは旅館か何かなのか。

 広々とした脱衣所はどこかの温泉旅館のようで、湯上がりに涼むためのベンチまである。大きな鏡にゆとりのある洗面台。脱衣カゴや大量の真っ白いタオルがオープン棚に収まっているのを見ると、とても個人の家だとは思えない。

 洗面台の上に用意されている基礎化粧品は日本の老舗メーカーのものだ。ブランドマークと品名だけが記されたボトルは存外に重く、もしやクリスタル、しかもオーダーメイドではないかと奈緒美は目を見張った。あるものは何でも使っていいと巧に言われたものの、これまで見たこともない高級品に身が竦む。

 鏡の中の奈緒美はきっちりメイクが落とされていた。「ポーチの中にあったクレンジングシート勝手に使った」とどこか当たり前のように言う巧に、奈緒美はやはり「ありがとう」しか返せなかった。

 浴衣といいメイクオフといい、巧の考えていることがわからない。


 肌を滑り落ちる浴衣から、巧の肌の匂いが仄めいた。ぐっと喉の奥が詰まる。鏡に映る奈緒美の顔は今にも泣きだしそうに歪んでいた。


 曇りガラスの引き戸を開けると、湯気の中に檜の香りが漂う。

 総檜造りの風呂など、奈緒美はこれまで入ったことがない。木目はどこまでも清潔で、ほんの僅かな黒ずみもない。

 湯船から木製の手桶でかけ湯をしながらシャワーがないことに気付く。カランも見あたらない。どうやって髪を洗うのかと手にした手桶を眺め、そもそもシャンプー類がないことに気付いた。

 仕方なく手桶で頭に湯をかけながら髪をすすぐ。片手で、しかも湯を湛えた手桶はそれなりに重量があり、鎖骨まで伸びた髪を洗うのは一苦労で、四苦八苦しながらもなんとか気が済むまで頭皮を湯で洗い、髪をすすいだ。

 躰も手のひらで擦りながら湯を流していく。

 ようやく湯船に躰を沈める頃にはすっかり疲れ切り、二日酔いの頭痛などどこかにいってしまった。

 大人三人が存分に躰を伸ばしても余裕のある大きな浴槽に浸かり、奈緒美は深く長く息を吐いた。あまりの心地好さに躰から力が抜けていく。




 巧との交際は奈緒美が高校を卒業すると同時に始まった。

 誰にも秘密だった。巧に言われたわけではない。奈緒美自身が誰にも言いたくなかった。そのくらい大切な想いだった。

 幸いと言っていいのか、巧と仲のいい秀は、毒抜きのために引き合わされる女性が巧の交際相手だと勘違いしていたようで、そのおかげで兄の目も誤魔化せた。

 ささやかな付き合いだったと思う。ただ一緒にいられるだけで幸せだった。笑ってばかりいた。

 最初から先のない恋だと言われていた。巧は誰とも結婚しない。そう、はっきり言われていた。それでもいいと言ったのは奈緒美だ。不幸になるぞと脅された。自力で幸せになるから大丈夫、と嘯いた。あの頃は不遜にも本気でそう思っていた。

 会えば会うほど好きになった。どうしようもないほど好きだった。一生分の恋をした。今でもそう思う。

 だからもう、十分だった。

 巧の転勤が機になった。奈緒美との付き合いをこれ以上続けるわけにはいかない、そう巧が考えていることを奈緒美は肌で感じていた。だから奈緒美は「遠距離は嫌かなあ」と強がって笑ったのだ。

 巧は驚くほどあっさり奈緒美を手放した。

 涙が涸れるほど泣いた。涙が涸れた分、心は巧で満ち満ちた。忘れられるとは思えなかった。笑えなくなった。いくつもの夜を一人で越えた。一人でも笑えるようになったとき、奈緒美は一人で生きていくことを覚悟した。

 会いたくて会いたくてたまらなかった。会ったら壊れてしまいそうで、そんな末路が容易に想像できて、もう二度と会うことはないだろうと思っていた。それなのに──。

 会いたかった。

 遠くから聞こえてきたあの声は、都合のいい夢だったのだろうか。




 浴室の磨りガラスの向こうで微かな音が鳴った。他人の家のお湯の中、身構えた奈緒美は聞こえてきた声に躰の力を抜いた。

「着替え、ここに置いとくから」

「ありがとう」

 返す奈緒美の声はかなりしっかりしてきた。アルコールが抜けようとしている。

「なあ奈緒」

 磨りガラスに映るシルエットが躊躇うように奈緒美を呼んだ。

「ん」

 促すように奈緒美は相槌を打った。彼にとって何か重要なことを話そうとしている。巧の声音と雰囲気は覚えのあるもので、奈緒美は自然とお湯の中で背を正していた。

 その短い言葉が聞こえてきた瞬間、奈緒美はただただ(あき)れた。同時に、巧らしい、とも思った。気を抜けば笑い出しそうで、お腹や喉の奥がひくひくと波打ち、なみなみと張られたお湯がたおやかに揺れた。

 いざとなると素直になれないひねくれた性格の巧は、大事なことほどすんなりと言葉にできない天の邪鬼だ。

「それ、同じことお兄ちゃんにも言える?」

「は? 言うわけないだろ。ちゃんと幸せにしますって真顔で言うよ」

 奈緒美は心持ちぬるくなったお湯に顎まで浸かった。

 思い掛けず目の前に転がり込んできた「不幸」に、奈緒美の全身はゆるゆると綻んだ。アルコールはいつの間にか抜けていた。

 奈緒美の頭の中で繰り返し繰り返し何度もしつこく巧の声が響いていた。






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