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硲153番地  作者: iliilii
第四章 メリーゴーラウンド
32/40

慎司①

 まだ誰もいない朝の学校はしんとしたざわめきの中にある。

 しんとした。

 ざわめき。

 相反する二つの言葉を小さく繰り返すと、光澤 慎司(みつさわ しんじ)は口元に微かな笑みを浮かべた。

 まだ誰もいない、は嘘だ。すでに誰かがいるから校門は開いている。朝、は本当。学校も本当。しんとした、は半分嘘だ。どこからともなくホイッスルの音が聞こえてくる。ざわめき、はどうだろう。本当でもあるし、嘘でもある。遠いざわめき、であれば本当に近い。どちらかといえば、しんとした、に近い。生徒玄関から教室までの間、誰とも擦れ違わず、自身が立てる音以外を間近に感じることはない。

 がらがらと教室の引き戸を開ける音が、しんとした、という表現を嘘に近付ける。

 入学して二週間が経つ。毎日誰もいない教室に足を踏み入れ、最初の一人になるこの僅かな時間が慎司は好きだった。この時間にしかない空気感にほっとするようになったのは、中学の終わり、受験を控えた冬の始まりだった。今にして思えばストレスだったのだろう。ほんの数十分の孤独が慎司の均衡を保っていた。

 その習慣が今も続いている。今日も最初の一歩を踏み出そうとして、慎司の足が止まった。

「あ……」

 慎司の声に俯いていた顔を上げたのは、入学式の途中で早退し、昨日まで休んでいた木内 夏生だった。

「大丈夫だった?」

 慎司は言った瞬間に後悔した。答えようのないことを聞いてしまった。しかも脈絡もなくいきなりだ。

 案の定、夏生は怪訝な顔で慎司をじっと見つめている。

「あ、不動産屋のバイト」

 ほんの僅かに目を見張った夏生は、この二週間で見慣れてきた教室内のどの女子よりも大人びて見えた。

「バイトじゃなくて息子だけどね。憶えてた?」

「うん。お茶、おいしかったから」

 特に感情のこもらない声だったにもかかわらず、慎司の心はざわついた。初めて褒められた。予想以上の嬉しさに慎司はにやけそうになる口元に力を入れた。

 しつこく淹れ方を叩き込んでくれた母親に感謝する。面倒臭がって買ってきたヘットボトルのお茶をレンジで温めて客に出していたことが見付かったことによる鉄拳込みの指導だったが為に、当時の慎司は苛立ちしか感じなかった。今は心からの感謝を捧げられる。

 慎司の父親は曾祖父の代から続く地域に密着した不動産会社を営んでいる。そこに夏生は何度か顔を出していた。

「そういえば、住むとこ見付かった?」

「うん、知り合いの家に住まわせてもらえそう」

「ああ、結局義さんちになったんだ」

「あ、違う。別の人の家なんだけど……」

「えっ、義さん、知ってんの?」

 廊下側から二列目の後方に座る夏生を通り過ぎ、慎司は窓際後方の自分の席に荷物を置く。真横を向けばいくつかの机の向こうに夏生がいた。慎司の方に顔を向けた彼女は、慎司の背後にある窓の外全てを視界に入れたような、少しぼんやりした目をしている。

「どうだろう、まだ知らないんじゃないかな。あの人がぐずぐずしている間に先に美智代さんに誘われちゃったから。二人とも気が合ったみたいだし」

 二人ともというのは、夏生と一緒に住むことになっている、宇都見が狙っていた美人とそのミチヨという人物のことだろう。自分も住む家のことなのに、夏生は初めて会ったときから他人事のように構えている節があった。関係ない間取り図を見ながら、PSやMBなどの意味をこっそり慎司に訊いては暇を潰していたものだ。

「ミチヨ?」

「もとは私の知り合い」

 夏生はそれ以上を教えてくれる気はなさそうだった。

 夏生があの美人と来店してからというもの、宇都見が事務所に顔を出すたびに、慎司の父親を始めとするお節介なおっさんどもの時代遅れの恋愛レクチャーが開催されるのだ。慎司はつくづく宇都見に同情していた。おかげで最近は愛想がいい方の秘書しか顔を出さない。

「あの二人って付き合ってんの?」

「どうかなあ。両片思いって感じ?」

 なんだそれ、と慎司が軽く笑ったところで、教室に次々と生徒が現れ始めた。夏生の姿に誰もが小さな驚きをみせる。夏生は知らん顔で手元のスマホに視線を落とした。


 親が死んだにしては、夏生はそれまでと変わらず淡々としていた。それが慎司には理解できなかった。そもそも親が死ぬということが今の慎司には理解できない。冷淡とも冷静とも違う、ただ粛々と現実を受け入れているような、どこか達観してみえる夏生の雰囲気は、部屋を探しに来ていたときにも多少は感じたものの、ここまで強くはなかったはずだ。

 店に来た少し不機嫌そうな夏生、入学式で見た壇上の燐とした夏生、そして教室に今いる静謐な空気を纏った夏生。見るたびに違う面を見せる彼女は一体どんな形をした多面体なのだろう。慎司が木内 夏生という人間そのものに興味を持った瞬間だった。


 見知った顔と朝の挨拶を交わしているうちに、いつの間にか夏生の周りを女子たちが囲んでいた。わざとらしいほど大きな声で「大丈夫だった?」「かわいそう」「元気出して」などなど、余計だとしか思えないひと言が引っ切りなしに飛び交っている。

 本当にそう思っているならそっとしておけばいいのに。誰かのぼそっとした呟きが慎司の耳に忍び込んだ。

 入学式の途中で夏生が早退した理由は噂になっていた。母親の死。天涯孤独。そんな単語が木内 夏生を象っていった。

 ふと見れば、夏生は周りに引き攣った笑顔を返しながら、何かを探すように視線を彷徨わせている。

 なんだ? と慎司が思った瞬間、夏生と視線が絡む。夏生は周囲の女子に「ちょっとごめん」と声をかけ席を立った。なんとなく慎司も席を立ち、少し遅れて夏生の後に続く。

 廊下を早足で歩く夏生を慎司は少し離れて追いかける。

 いくつかの角を曲がり、人気がなくなったところで夏生はいきなり足を止め、くるっと振り向いた。少しずつ距離を詰めていた慎司は目の前でいきなり止まられ、思わず空足を踏んだ。

「四十万さん、なんで休んでいるか知ってる?」

 夏生からささやかな香りが立った。甘く爽やかな匂いに慎司の鼻先がはにかんだ。

「なんで彼女が来てないこと知ってんの?」

「担任に聞いた。でも理由は教えてくれなかった」

 眉間を寄せつつ、しょんぼりとした雰囲気の夏生を慎司は怪訝に思う。確か四十万と夏生は同じ中学ではなかったはずだ。慎司とも違う。

「なんで僕に訊くの?」

「なんとなく。他に知ってる顔がなかったから」

 夏生が気まずそうに目を逸らした。座っていたときには気付かなかった夏生の小柄さや細さに慎司はわけもわからず焦りを覚える。

「同じ中学のヤツは?」

「たぶんいると思うけど、見覚えのある顔はなかったから……」

 夏生が休んでいた二週間の間に、なんとなく教室内はいくつかの塊に分かれていた。特に女子はわかりやすい。

 予鈴が鳴った。顔を見合わせる。

「昼休みは?」

「生徒会室にお弁当持参で顔を出すよう言われてる」

「じゃあ放課後は?」

「たぶん平気」

「じゃあ放課後」

 急いで教室に戻りながら、それだけを交わす。


 休み時間のたびに夏生は女子に囲まれていた。

「他人の不幸がそんなに面白いのかねえ」

 慎司の前の席の松木 光葉(まつき みつは)が話しかけてきた。慎司も同調しながら「せめて声を抑えろ」と目を細め、夏生に群がる有象無象を眺めた。夏生がどんな表情をしているのか、朝より厚みを増した有象無象の陰になって外からは見えない。朝逃げられた教訓からか、夏生が席を立つときですら、有象無象は剥がれなかった。

「あれって一種のイジメだよな」

 たしかにな、と思いながら慎司は教室内を眺める。中には心配そうに人集りを見ている女子もいるのだ。かといって、誰かが注意するわけでもない。さすがに数日続くようなら誰かがなんとかしないと拙いだろう。慎司は漠然と考えていた。


 昼休みになり、夏生の周りに同じ現象が起きようとしていたその時、教室の前の扉から「木内 夏生」と特徴的な嗄れた声が響いた。

 あー、はい、ちょっとごめんね、と夏生の声が聞こえ、弁当を持った夏生が有象無象を掻き分けながら嗄れ声の男子に駆け寄る。

「いちいちフルネームで呼ばないでくださいよ」

「来たら来たって教えろよ」

「なんでいちいち教える必要があるんですか。しかもわざわざ呼びに来るとか、嫌がらせですか」

「それより、親権どうなった?」

「はあ? 先輩には関係ないでしょ」

 人の話を聞かない先輩とやらに、どうやら夏生は腹を立てているようだった。たまたま手を洗いに行こうと席を立ち、扉の近くにいた慎司には全ての会話が聞こえていた。

 シンケン。耳に入り込んだ単語が頭の中で何度も響く。真剣ではなく親権だろう。手を洗いながら慎司は馴染みのない言葉をぼんやりと考えていた。

 慎司が手洗いから戻ると、夏生が消えた教室内には「え、彼氏?」「聞いてないけど」という有象無象の不満そうな声が充満していた。

 席に着けば、待ってましたとばかりに松木が話しかけてくる。

「どう見たらあれが彼氏に見えるんだ?」

「松木知ってんの?」

 慎司は鞄から弁当を出しながら訊いた。

「二年の見辺さんだよ。生徒会の集まりでもあるんだろ。木内さん生徒会に入ってるはずだから」

「なんで? 出てきたばっかだろ?」

 慎司は夏生から聞いたとき、てっきり勧誘か何かで呼ばれているのだと思っていた。

「なんか、新入生代表は強制的に生徒会に入らされるらしい」

「へえ。よく知ってんな」

「三年に姉貴がいんだよ」と松木はコンビニのパンを頬張りながらもごもご言う。「うちは兄貴もここだったし。兄姉揃ってここ。おかげで俺の制服は兄貴の古着(used)

 だからさり気なく着崩したこなれ感が様になっているのか、と慎司は妙に感心した。真新しい制服ではこうはならない。元々松木は見た目に気を遣う質なのだろう。抜け感が絶妙なのは本人のセンスがいいからだ。鏡に映った自分の姿を思い出し、慎司は小さく溜息を吐いた。

「姉貴のじゃなくてよかったな」

 慎司がやけっぱちに言うと、松木は一瞬きょとんとしたあと声を上げて馬鹿笑いした。

「もし俺が女装趣味だったらどうすんだよ」

「それはまあ、個人の自由だから別にいいんじゃないの? 僕に勧めない限り」

 女装趣味のヤツが食べ物を口に入れたまま大口開けて笑わないだろう、と慎司は目を細めながら弁当に視線を落とした。


 昼休みが終わる頃、ようやく夏生が教室に戻ってきた。不機嫌さを隠そうとしない様子から、有象無象が集りかけて散っていった。真っ直ぐ慎司の机まで来た夏生に、松木が驚いた顔で振り返る。

「放課後、ダメそう」

「生徒会?」

「そう。生徒会に入ってくれそうな人を探せって」

 ふーん、と鼻を鳴らしつつ、慎司はまあいいかという気になった。

「誰でもいいの?」

「いいと思う。特に条件は言われなかったから」

「じゃあ僕が入るよ」

 夏生の目がまん丸になった。どこか大人びた印象だった夏生が、その瞬間、慎司と同い年の女の子に変わる。

「いいの? 雑用だよ?」

「いいよ。ほら、うちの父親そういうの好きなんだよ」

 あー……好きそう、と小さく呟いた夏生がふと気を抜くように笑った。その笑顔がやけに幼く見えて慎司は胸がざわついた。それを誤魔化すように少し焦りながら言い訳めいたことを口にする。

「委員にはならなかったし、特に入りたい部活もないし」

 部活する予定のない者は何かしらの委員を引き受ける。委員にならない者はどこかしらの部に入る。S高ではどこかしらに所属する必要があるらしい。慎司は適当な文化系の部に所属するつもりだった。

「よかった。一人も見付けられないかと思ってた」

「なあなあ、何人必要なの?」と前の席から松木が口を出した。

「二人。一年は書記とその補助二名、二年は会計とその補助がやっぱり二人。三年は会長と副会長二名なんだって」

「各学年三人ずつか。だったら俺も入るよ。生徒会入ってると推薦もらえるって聞いたし」

 松木が訳知り顔で言えば、夏生も「ああ、そういえば、歩さんも推薦だって言ってたかも」と思い出したように言う。

「アユミ?」

 夏生が慎司に顔を向ける。

「美智代さんの孫で、去年の副会長だった人」

 そっか、と慎司はよくわからないながらも頷いた。

「なあなあ、二人ってなに? 付き合ってんの?」

 興味津々の松木の声に、一瞬の静寂が慎司の耳を刺した。教室中が耳をそばだてていることに気付き、慌てて口を開く。

「うちに客としてきたんだよ」

「客って?」と松木が突っ込む。

「不動産屋さん。知り合いの紹介で行ったの」

「えっ、木内さん一人暮らしでもしてんの?」

 好奇心丸出しの松木に慎司がすかさず答える。

「違うよ、お姉さんと一緒だよな」

 女の子の一人暮らしを広めていいことなど何もない。

「そう、それにおばあちゃんが加わった三人暮らしになる予定」

 どこからか、天涯孤独じゃないじゃん、という非難がましい声が鋭く響いた。

 反論しようとした慎司を夏生が視線で制す。納得しかねる慎司に、夏生は「いいよ。言いたい人には言わせておけば」と低く呟いた。

「あ、やっぱ苛ついてた?」

 声は抑えられているものの松木の遠慮のない突っ込みに、慎司はむっとして前の席を睨む。

「いいんだよ、俺が勝手に言ってる分には」

 松木が得意気に笑って前を向く。

 いつの間にか夏生は自分の席に戻り、教壇には教師の姿があった。




 帰りのホームルームのあと、担任を呼び止めた夏生に慎司と松木が呼ばれた。そこで初めて担任が生徒会顧問だと知り、その場で生徒会執行部への入部の意思を確認された。

「本当にいいの? 兼部できないから他の部活できなくなるわよ」と言う担任に、松木は軽く「別にいいです」と答え、慎司も同調するように頷く。

「同じクラスから三人ってまずいですか?」

 夏生の問い掛けに、うーんと唸りながら「しかも私のクラスかあ」と担任も悩ましげな声を上げる。

「うん、でも、見付からないよりはいい。しかも自薦だから誰にも文句は言わせない」

 自分に言い聞かせるかのような担任に夏生が小さく笑う。

「じゃあ、気が変わらないうちに入部届出してもらえるかな」

 担任に急かすように言われ、慎司も松木も以前配布されていた入部用紙に「生徒会執行部」とその場で記入し提出した。

「やったわ。これでノルマ達成ね」

 嬉しそうに夏生に笑いかける担任は、二枚の入部届を大切そうに出席簿に挟み、「二人とも、助かったわ。ありがとう」とやけに感慨深げに慎司たちに礼を言い、足取り軽く職員室に戻って行った。スキップしかねないほどご機嫌だった。

「そんなに入部希望者いないの?」

 慎司の疑問に夏生は苦笑いする。

「いないみたい。二人とも本当にいいの? なんか漫画みたいな権力とか一切ないって言ってたけど……」

「そりゃそうだよ。中学んときも生徒会に入ってだったんだけど、あれ要するに学校側の雑用だろ」

「中学の時も生徒会だったの?」

 驚いたように目を丸くする夏生に、慎司は「そう。父親がね」とひと言言えば、ああ、と妙に納得された。

 慎司の父親はわかりやすく権力に弱い。それでいて人はいいと慎司は思っている。しかし残念なことに、ザ・オヤジという風貌からそうは見られないのが息子としては悩ましい。せめてもう少しダイエットして、身だしなみに気を付け、下品な物言いとタバコをやめてくれたら、と思わなくもない。母親に言ったら、「それお父さん全否定」と言いつつ、思いっきり同意された。あと体臭と口臭といびきにも気を付けてくれたら、と付け加えてもきた。完全否定だ。






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