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硲153番地  作者: iliilii
第四章 メリーゴーラウンド
30/40

四十万②

「大事な話がある」

 そう切り出した四十万は、ダイニングテーブルの向かいに並ぶ妻の絵里花(えりか)と一人娘の美貴(みき)を順に眺めた。何事かと身構えながら湯飲みを差し出す絵里花と、風呂上がりのまだ髪が湿った状態で所在なげに俯き指先をいじる美貴。

 四十万家ではいつしか、大事な話はダイニングテーブルで、という不文律が出来上がっていた。

「会社を辞める。明日辞表を出す」

「そんな! 次は決まっているんですか!」

 急な話に動転したのか、絵里花は迫るような剣幕で四十万を見据えた。それに四十万はまあ落ち着けと言わんばかりの笑顔を作る。

「決まっている。まだ詳しくは言えないが、長内の本社勤務になる」

 ぽかんと一瞬呆けた絵里花は小さく「長内」と呟くと、ぐっと目に力を漲らせた。四十万は長内のネームバリューを改めて実感した。

「引き抜きですか?」

 大学の後輩だったこともあり、絵里花は夫婦となり子供ができた今でも敬語が抜けない。そのせいもあってか、美貴も比較的ですます調で話す。

「引き抜きと言えば引き抜きだが……どちらかといえば差し出されたな」

 四十万は薄く笑った。長内とその兄の殺伐としたやりとりは今思い出しても背筋が冷える。日本有数の大企業、そのトップに立つ者をつかまえてあそこまで辛辣なことを口にできるのは身内だからなのか。長内 巧という男の底知れなさを垣間見た気になった。

「肩書きは? 役職は何になるんですか?」

「肩書きはない。そもそも役職自体がない会社になる」

「全員が平社員ってこと?」

 美貴が珍しく声を出した。登校しなくなった途端、むっつりと黙り込むようになってしまった美貴の声は、久しぶりに喉を使ったせいか少しかすれていた。

「そうだ。高校を卒業したばかりの者も、彼らの親のような年の私も、みんな同じ平社員だ」

「いい会社そう」美貴がぼそっと言う。

「いい会社になると思う。そうだ、美貴もバイトにくるか? 仕事が出来るとどんどん時給が上がっていくらしい」

 驚いた顔の美貴に四十万は大きく頷いた。


 そう、なにも登校できないなら高校などやめてしまってもいいのだ。今日出会った若者二人は、直前になって、しかも合格通知を受け取った上で、大学進学をやめたのだと言っていた。大学に行く意味を見出せなくなったと言って。そもそもよく考えれば高校も行く必要がなかった、高等学校卒業程度認定試験、いわゆる高認で十分だったと悔しがっていた。あろうことか、時間の無駄だったとまで言ってのけたのだ。

 四十万は自分の目から鱗が落ち、床で砕け散る音を確かに聞いた。

 おまけに彼らは、一流と言われる企業の正社員になることすら拒み、契約社員として働いている。そんな二人が新規事業のシステム開発を一手に引き受けているのだと聞いて、四十万は二の句が継げなかった。


「あの、お給料は、どうなるんですか?」

 娘の前で訊くことに躊躇をみせ、それでも訊かずにいられない不安そうな絵里花に向かって四十万は笑ってみせた。こんなふうになんの含みもなく笑うのは久しぶりだと自覚するほど、四十万はこのところ心から笑っていなかったことに気付く。

「今までの給与額は保証される。見込みとしてはその倍だそうだ」

 絵里花の目が極限まで見開かれた。美貴は四十万の給与額を知らないせいかそこまでではないものの、驚いた顔をみせている。二人の表情があまりにそっくりで、四十万は自ずと笑みを深めた。

 四十万は決して仕事ができる人間ではない。課長になれたのも実力ではなく偶然が重なった結果でしかない。そんな四十万の何を長内は評価したのか。引き抜かれたのは四十万が一目置く者たちばかりだ。

「しかも、週休三日。土日プラス一日フリーになるらしい。仕事が片付けられたら休み、片付けられなかったら出勤」

「もしかして、出勤する人は無能ってこと?」

 一人娘の目に生気が見えたような気がした。美貴を見つめる絵里花の目が僅かに潤む。

「そうだ。一日十時間以上働くことも仕事を家に持ち帰ることも社則で禁止されている」

「集中して仕事できそう」

「やはり美貴はいまどきの子だな。効率的にはその方がいいってことは前から聞いてはいたんだが、日本では根付かない考えだろうとお父さんは勝手に決めつけていたよ」

「私が働いていたときは、残業する方が出来る人って風潮でしたよ」

「今の会社もその風潮だよ」

 四十万が苦笑いすると、絵里花はふっと肩の力を抜いた。

「よいお話なんですね」

「よすぎる話だ。今のところ新規事業の準備室という扱いだが、三年後には長内グループの子会社のひとつになる」


 本社ビルの一角に用意されていた広々としたオフィスは、四十万の胸ほどの高さのパーティションで一人一人の区画がきっちり仕切られていた。小さな打ち合わせブースをいくつも連ねたようなパーソナルスペースの中央には、三十人ほどが着席できる大きなテーブルだけがあり、ブースの中から自分の椅子を持ち出すようなつくりになっていた。デスクや椅子などの備品はいくつかある中から自分の好きなデザインが選べるらしい。ブースは各自でカスタマイズして使うよう説明され、四十万は目を白黒させながらも胸の高鳴りを覚え、やる気が漲るのを嫌というほど実感した。

 すでにひと月前から準備に駆け回っていた園田と、システムエンジニアの二人の席はまさにカスタマイズされており、それぞれかなり個性的な空間になっていた。


「美貴、今まで悪かったな」

 四十万は娘をどうしても高校に通わせたかった。中学でも一時登校できなくなった美貴は保健室登校に切り替え、本人の努力もあって無事高校に進学できた。にもかかわらず、ほんのひと月も待たず、再び登校することを止めてしまった。

 絵里花とともに時に宥め、時に叱咤し、四十万はなんとか美貴の足を学校に向かわせようとしてきた。頑なに不登校の理由を口にしない美貴に苛立ち、頭ごなしに怒鳴り、一方的に責めたこともある。

「高等学校卒業程度認定試験を受けると、高校を卒業したことと同じになるそうだ」

 驚愕の表情をゆっくりと歪め、美貴は息を吐くように泣き出した。これまでちゃんと息ができていなかったのではないかと思うほど、美貴は大きく何度も息を吸い込みながら嗚咽を漏らした。自分の腹を痛めて産んだ娘の肩を母は力一杯抱きしめている。

「美貴がどうしたいか、ゆっくり考えて決めればいい。行きたくなったら行けばいいし、行きたくなければ行かなくてもいい。美貴のタイミングだってあるだろうし、お父さんに出来ることがあればいくらでも手を貸す」


 高校での担任はそれまでの教師とは少し違うかもしれない。四月の終わりに担任と話した絵里子が思案げにそう告げてきた。

 本人がどうしたいかを第一に考えましょう。

 おどおどした口調ながらもそこだけは毅然と言ったらしい。それはこれまで何度も耳にしてきた決まり文句ではなく、本人の経験から出た言葉ではないかと感じた絵里子は、つい尋ねたという。

 先生はどうされたんですか?

 私は親にも担任にも、本当に誰にも理解してもらえなかったので、ひたすら耐えました。あのとき、背後からほんの少しでも風が吹けば、飛び降りていたかもしれません。

 担任はその時のことを思い出したのか、すっと表情をなくしたらしい。そして、ゆっくりと口角を引き上げながら、怖いほど真剣な目で絵里子に一つの問い掛けをした。

 あの頃って「死」を簡単に考えていませんでしたか?

 それで絵里子は思い出したそうだ。そういえばあの頃は何かにつけて「死にたい」と思っていた気がすると。実際に行動に移すかは別にしても、常にそんなことが頭に浮かんでいたと。


 ひと通り絵里子から話を聞いた四十万も思い出したのだ。確かに自分もそうだったと。

 小さなイジメは日常的にそこかしこに潜んでおり、悪口や告げ口がこれ見よがしに聞こえてきた。シカトなどの標的はその時々でころころ入れ替わり、自分が標的となった時はそれこそ死を考えるほど思い悩んだ。そうこうしているうちに、ある日突然ターゲットは別の者に移り、またしばらくすると別の者に移っていった。主導する生徒たちとは距離を取りつつ、今にして思えば、全てをなんとなく曖昧にしたまま学生生活を終えたような気がする。

 あの頃は人間関係に疲れていた。今と同じだけ疲れていた。今とは違って対価のない疲れだった。


 それからだ。四十万は美貴に登校を強要しなくなった。だからといってどうしていいかもわからず、お互いむっつりと黙り込むようになってしまった。

 幸い美貴は家に閉じこもりはしたが自室に閉じこもることはなく、絵里子に誘われるままガーデニングを手伝ったり、家事を手伝ったり、それなりに活動的ではあった。夫婦にとってはそれだけが救いだった。




 長内は三日ほどでさっさと引き継ぎを終えてしまい、送別会などの誘いを全て断り、素気なく有休消化に入った。その手際の良さに、長内を再評価する者も多い中、長内自身はなんの未練もないようだった。


 最後の挨拶の際、長内からふと差し出された白いものに四十万は虚を衝かれた。真っ白な上質の和紙で出来た封筒の宛名は、美貴の名だった。

「直接お送りしてもよかったんですが、さすがに未成年なので親御さんの許可が必要なんじゃないかと揉めまして」

 なんとも困り果てた顔の長内の手から封筒を受け取る。

 確かに表書きには四十万の家の住所が記され、切手まで貼られていた。裏を返せば「硲百五十三番地」とだけ記されている。黒々とした墨筆。やけに達筆だ。

「これ、なんと読むんだ?」

「ああ、はざま、です。S区にある地名です」

 こんな地名あっただろうか、と四十万は首をひねった。似たような字面の地名は知っているが、硲という文字に覚えはない。似たような地名があるのだから硲もどこかにあるのだろうと頭の隅に追いやった。

「お嬢さんへの招待状になります」

「なんの招待だ?」

「なんの……なんのかなあ、どうしても友達になりたいとわがままを言われまして。まあ、正規の客が今回はいなかったので、主が折れたと言いますか……」

 まるで要領を得ない。

「友達?」

「ええ。木内 夏生と言えばお嬢さんはわかると思います。ただその子、入学式の途中で早退して以降、色々あって二週間ほど休んでいるんです。で、登校してみたら、今度はお嬢さんの方がお休みしていたということで……」

「娘と同じクラスなのか」

「そうみたいですよ。入学式の朝、二三言葉を交わしたと言ってました。なんだかよくわかりませんでしたが、お嬢さんに感銘を受けたようです。絶対に友達になりたい人に巡り会ったんだってやたら情熱的に語っていました」

 その時のことを思い出したのか、長内はふと愉快そうな笑みを浮かべた。

「娘に、本人に訊いてみないとわからんが……」

「ええ。ただ、お嬢さんにとっても悪いことにはならないと思うので、できれば当日連れてきてください。私もその場におりますので」

「私や妻もか?」

「んーそれはどうですかねえ。あくまで招待はお嬢さんだけなので、当日になってみないとわかりません。可能ならば、という感じですかね」

 またしても要領を得ない。

 それなのに、四十万ははっきりと了承していた。何かが変わる。そんな強い予感が胸を占めた。


 帰ってすぐ、四十万は美貴に報告した。四十万自身気付かないうちに興奮していたのか、要領を得ない話がさらに要領を得ない説明になった。

 四十万が差し出した封筒を受け取りながら、美貴は「木内さんから……」と小さく呟き、その木内という生徒が新入生代表の挨拶をした直後、母親の急逝を知らされて早退したことを四十万に説明した。

「どんな感じの子なの?」

 心配そうな絵里花の声に、美貴は何かを思い出すように考え込んだ。

「入学式の朝少しだけおしゃべりした感じは、大人っぽい人だなって」

「その子は美貴と友達になりたいって言っていたらしい」

「あ、そうです。その時も少しお話して、友達になってもらえませんかって真面目な顔で言われたんです。いきなり面と向かって言われたから、ちょっとびっくりしちゃって」

 そのときのことを思い出したのか、美貴の表情が柔らかに綻んだ。

「でも、お返事する前に木内さん、先生に話しかけられてしまって……」

「そのままになったのか」

「そうです。そのあと木内さん、忌引きになったから……」

 そこで美貴の表情があからさまに曇った。

 四十万は絵里花と顔を見合わせた。どう対処していいかわからない。

 美貴がここまで高校での話をするのは初めてにも近い。これまで何度聞き出そうとしても頑として口を噤んできた。きっと今も無理に聞き出そうとすれば口を閉ざしてしまうだろう。そんな気配が美貴を取り巻いている。

「まずはその中身、見てみれば?」

 気を取り直すように絵里花がサイドボードからハサミを持ち出し美貴に手渡す。慎重な面持ちで開封した美貴の手元から、三つ折りになった和紙が出てきた。

 広げてみれば、日時と場所が書かれているだけの素っ気ない招待状だった。どういうわけか美貴は空白を凝視している。

「どうしたんだ?」

「お父さん、お母さん、私、行きたい」

 四十万には「生きたい」と聞こえた。戸惑って聞き返すと、美貴は真っ直ぐ顔を上げ、やけにはっきりと宣言するように言った。

「私、この招待受けます」






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