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硲153番地  作者: iliilii
第三章 サンクチュアリ
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結び目②

 夏生は三月半ばに中学を卒業した。

 中学卒業後から高校入学前のこの期間、夏生の肩書きは何になるのか。無職ではないなら無学生だろうか。

 その無学生の夏生は宿坊の手伝いを買って出ていた。対価は宿泊費の値引きと寺からのお下がりだ。高級最中や羊羹、クッキーやゼリーなどなど、夏生がそれまで食べたことのない豪華なお下がりを気前よく分けてくれるのだ。掃除の手にも力が入る。特に風呂掃除の手際がいいと従業員たちは手放しで夏生を褒める。褒められることで夏生は少しずつ自分の存在を信じられるようになっていた。


 その週の土曜日、午後。

 ぼんやりしたままお昼を食べる夏生を美智代が心配そうに見入っていた。夏生は放心したまま部屋に戻り、畳の上にごろんと横たわり、染みのない天井を見上げた。きれいな縞模様の木目は柾目。指紋のような木目は板目。美智代から教わった。

 夏生はほんの数時間前に聞かされたことを繰り返し思い浮かべていた。

 夏生には毎月上限二十万もの生活費が支援されるらしい。何度思い返してもどこか他人事のように思えて仕方がない。

 夏生は誰に相談していいかわからず、天井の木目を見ながら一人ぐるぐると考え続けていた。


 秀らはそよかぜ園の園長らと共にNPO法人を立ち上げている。夏生の支援についてはちゃんと弁護士を介して契約するそうだ。契約自体は未成年の夏生とではなく夏生の母親と交わすらしい。その際同席するかを訊かれ、夏生は口ごもった。会いたいか会いたくないかの二択であれば会いたくない。

「夏生ちゃん、親との決別は考えてる?」

 作ったような穏やかさで秀に尋ねられ、夏生ははっとした。真っ直ぐな視線に耐えきれず、助けを求めるように桜に視線を移せば、桜も秀と同じ眼差しを夏生に向けていた。

 会いたくはない。かといって決別したいわけでもない。その複雑な心境を上手く言葉にできそうになくて、夏生は口ごもり途方に暮れた。

「考えてないならいいの。夏生ちゃんがどうしたいかを聞きたかっただけ」

 桜の暢気な声にこれほど安心したことはない。のんびりとした口調は夏生の緊張をすんなり緩めた。

「私にはお母さんしかいなくて、たぶん一般的にはひどい親なんだろうけど……」

「一般的かどうかはどうでもいいんだよ。親のこと否定されて平気でいられる子供の方が少ないんだ。たとえどんな親でもね。血の繋がりは面倒なんだよ」

 いつになく真面目な巧に夏生は泣き出してしまいたかった。

 夏生が何も言わずとも、彼らはわかってくれた。会わなくて済むよう手配してくれると聞いて、夏生はほっと息を吐いた。

 細かな説明を受け、夏生からの希望も伝える。夏生の養育費はこれまで通り母親に。きっと彼女は働くことができない。その分はあとで必ず返すと言った夏生を桜がやんわりと窘めた。あくまでも夏生個人に対する支援だから、と。親も、親同士の取り決めも、これには一切関係ないのだと。

 夏生は言葉にならない全ての思いを、深々とお辞儀することで三人に伝えた。

 最後に質問はあるかと訊かれた夏生は三人に尋ねた。

「どうして私なんですか?」

「そうだなあ、まずは成績がいい」と巧が言った。

 夏生も最初から成績がよかったわけではない。中学入学当初は中の下程度だった。ある日、前後にどんなやりとりがあったのかは忘れたが、とある教師が授業の合間に何気なく言ったのだ。「いいか、貧困が莫迦を生むんじゃない、莫迦だから貧困に陥るんだ」優しく語りかけるような口調とは裏腹に教師らしからぬ暴言だった。それでもそれを聞いた夏生はともかく義務教育の内にできるだけ学ぼうと決心した。とにかく貧困から脱したかった。

 続けて巧は「素行が悪くない」と言った。「この宿坊での評判もいい」とも。本当の夏生は我が儘で無責任で卑怯者だ。それをずっと隠し続けている。

「何より、ここで桜ちゃんに出会った運」

 巧はきっぱりとした口調で締め括った。

「運?」

 思わず夏生は聞き返した。

「夏生ちゃん、うちの敷地に迷い込んだことがあるでしょ」

 秀に言われ、桜を見ながら夏生は頷いた。それがどういうことなのか、夏生にはさっぱりわからなかった。わからないのは夏生ばかりのようで、彼らは揃って「だからだよ」と笑っていた。


 悩んだ挙げ句、夏生はスマホを手にした。

『もしもし、夏生ちゃん?』

「はい。あの、相談にのってもらいたいんですけど……」

『ん、どうしたの?』

 のんびりした口調に勇気付けられ、夏生は菜乃佳に午前中の経緯を訥々と話した。

『それで、何を悩んでいるの?』

「いいのかなって」

 ふふ、と菜乃佳の笑い声が聞こえた。電波越しの菜乃佳の声は、より一層夏生の鼓膜を柔らかく揺らした。

『お金に関することだから慎重になるのはすごくいいことだと思う。夏生ちゃん、桜たちのこと信用できる?』

「それはできます」

『だったら、甘えちゃえばいいんじゃないかな。上限が決まっている以上無駄遣いはできないし、この通信費も四月からは自分で支払うことになるんでしょ?』

「そうです」

『ふふ、大変だ』

「大変ですか?」

『大変だよ。全部自分でやるって大変だと思う。夏生ちゃんは偉いよね。私は文句言いながらも親の言うこと聞いてきた口だから。今になって一人暮らししたいのになかなか許してもらえないし』

「一人暮らししたいんですか?」

『そう。通勤が結構大変で。だったら会社の方を辞めればいいって言われちゃって。うちの親ね、私の幸せは公務員と結婚して専業主婦になることだって信じて疑わないの』

「嫌なんですか?」

 専業主婦は優雅なイメージが夏生にはあったが、菜乃佳の声のトーンからすると実際は違うのかもしれない。

『それ自体が嫌なんじゃなくて、決めつけられるのが嫌なの』

 そんなものか、と夏生は思った。正直なところよくわからなかった。

「一人暮らし、した方がいいのかなあ」

 思わず呟いた夏生に、菜乃佳が黙り込んだ。

「あの、私変なこと言いました?」

『あ、違うの。ちょっと考えごと。どうして一人暮らし?』

「六月になるとこの宿坊にそよかぜ園にいる中学生と高校生が来るそうなんです」

 スマホから落ち着いた相槌が聞こえた。菜乃佳はちゃんと夏生の話を聞いてくれる。さっきの説明も要領を得ず、何度も話が前後したにもかかわらず、最後まで急かすことなく聞いてくれた。

「そよかぜ園が建て替えするそうなんです。小さな子たちはそのまま園に残って半分ずつ建て替えていくそうで……」

『ああ、それで工事の間、中高生はそこのお世話になるのね』

「みんなは三人か四人で一部屋使うそうなんですけど……」

『そっか、夏生ちゃんは一人で一部屋使ってるもんね。色々言われちゃいそうだね』

「それでここを出て一人暮らしした方がいいのかなって。私の他に支援されている人も一人暮らししているそうなんです」

『ああ、それ聞いたことがあるかも。男の子でしょ?』

「そうです。同じ高校の人みたいで」

『その子が支援第一号なんだよ。夏生ちゃんはたぶん二人目』

「そうなんですか?」

 もっと多いのかと思っていた。

『何人か候補がいたみたいなんだけどね。面接で落とされちゃうみたい』

 本当に桜と出会ったことが特別だったのだ。夏生はようやく実感した。夏生は面接など受ける前に助けられていた。

『ねえ、夏生ちゃん』

 呼びかけた菜乃佳の声が緊張していた。夏生は何事かと身構え耳を澄ました。

『一人暮らしする必要があるなら、私と一緒に住まない?』

「いいんですか?」

『え、いいの?』

 夏生にしてみれば願ったり叶ったりだ。本音を言えば一人は不安だった。菜乃佳のことをよくよく知っているわけではない。それでも夏生は菜乃佳とならやっていけるという根拠のない確信があった。年が適度に離れているのがいいのかもしれない。母というには若く、姉というには年が離れている、その中途半端さが丁度よかった。


 その日のうちに菜乃佳が夏生との同居を両親に話したところ、彼女の両親からの要望で、急遽夏生は彼らに会うことになった。この件は面接が必要らしい。

 小田原は途中で不安になるほど遠かった。夏生にとっては完全に未知の世界だった。菜乃佳はよく毎日都内に通っているものだと心底感心した。

 はっきり言って嫌な親だった。選民意識が強いのだろう。夏生を見下すような視線がとにかく不快だった。菜乃佳のことすら見下している。どうせ仕事なんてろくにできないのだから辞めてしまえばいい、家にいて家事手伝いをしながら見合いするのが幸せへの近道だ、とまあ、菜乃佳の言っていた通り、決めつけがすごかった。

 それでも菜乃佳の一人暮らしを認めたのは、夏生を保護するという名目が彼らの選民意識を刺激したからだろう。桜に買ってもらった服や、美智代に教わっていたマナーが役立った。夏生はそれなりに見えたらしい。きっと着古した服やマナー知らずだったなら、彼らは顔をしかめて反対したに違いない。

 菜乃佳が何度違うと訂正しても、彼らは「このかわいそうな子のためなら仕方ないわね」と言い続けた。そう思いたいだけなのかもしれない。夏生の目には、とにかく二人は菜乃佳を自分たちの支配下に置きたがっているように映った。

 この親にして菜乃佳の穏やかさが夏生には信じられなかった。


「私ね、子供の頃すごく卑屈だったの」

 菜乃佳の家からの帰り道、小田原駅に向かいながら菜乃佳が言った。あの親ならそうだろうな、と失礼ながら夏生は思った。歩の親もあんな感じなのだろうか。美智代の困った顔が思い浮かんだ。

 夏生は他の家庭を知らない。夏生の母親は何もしてくれなかった代わりに、何かを強要することもなかった。

「桜に出会わなければ今も卑屈なままだったと思う」

 ここでも桜との出会いだ。

 目に映る小田原の桜はすでに八分咲きで、あと数日で満開になるだろう。どうして桜はここまで人を虜にするのだろう。

「私の支援は、桜さんと出会った運だってコウくんが言ってました」

 それに菜乃佳がふわっと笑った。

「私ね、桜が大好きなの」

 薄紅の花を見上げながら菜乃佳が言った。いいな、と夏生は思った。夏生にはそう思えるだけの友達がいない。教室ではずっと気配を殺して、当たり障りなく過ごしてきた。一緒に過ごす友達はいても菜乃佳のように「大好き」と言えるほどの感情はない。

 道路脇に咲き誇る桜を見上げながら菜乃佳は笑っていた。さっぱりとした笑顔が綺麗だった。薄化粧しかしていないうえラフな服装だというのに、まるで映画のワンシーンみたいだった。

「私も綺麗になれるかな」

「なれるよ。私、結構努力してるから」

 驚いて菜乃佳を見れば、「桜の隣にいるには綺麗じゃないと」とやけに誇らしげに言った。

「だって、桜の一番の友達がみっともなかったらちょっと困るでしょ」

 一体何が困るのか夏生にはわからない。菜乃佳の母親も綺麗な人だったから菜乃佳が詐欺メイクしているわけでもないだろう。

「色々教えてください」

「まかせて。あ、でも肌の手入れは桜の方が詳しいかな。子供の頃よくシュウさんが桜の頬を触っていたらしくって、肌の手入れと髪の手入れには手を抜かないの」

 桜も努力していると聞いて、美人でも努力するものなのかと、夏生は目から鱗が落ちる思いだった。


 駅で菜乃佳が「なんだか疲れたから新幹線に乗っちゃおう」と新幹線の切符を買ってくれた。夏生にとって今日は初体験が多い。

 そもそも夏生はこれまで電車に乗ったことがなかった。それを知った菜乃佳は馬鹿にするでもなく、早朝から夏生を宿坊まで迎えに来てくれたのだ。全ての電車代を菜乃佳が支払ってくれ、改札の通り方、電車の乗り方を教えてくれた。

 そこにきて新幹線だ。座席の豪華さに夏生のテンションは高い。

「うわ、ふっかふか。ねえねえ、これ後ろに倒せるの?」

 夏生が座席の背を軽く叩きながら訊けば、顔をしかめた菜乃佳は「叩くと埃が立つからやめて」とおっとり注意する。大人しくなった夏生に菜乃佳がふわりと笑いかけた。その笑顔に夏生はこの人となら上手くやっていけると確信を深めた。

「倒せるよ。ほらこここうやって……」

 菜乃佳が後ろに人がいないことを確かめて座席の背を後ろに倒した。菜乃佳が言うには時間のせいもあって今日は空いているらしい。


 このあと夕方に人に会うことになっている。不動産を紹介してくれるらしい。忙しい人だそうで、午後四時から六時までの二時間しか予定が空いていないのだという。一月の終わりから六月の終わりくらいまではとにかく忙しいらしく、たまたま菜乃佳が昨日連絡を取ったら、たまたまその時間が空いていたということで、これまた急遽その人にも会うことになったのだ。

 六月までに引っ越せればいいと夏生と菜乃佳は考えていたが、どうにもとんとん拍子で話は進みそうである。

 菜乃佳の両親が「かわいそうな子のためなら仕方ない」と敷金等は肩代わりしてくれることになったのだ。

 帰りの新幹線の中、夏生が「かわいそうな子も役に立つ」と笑うと、菜乃佳も「何をやらせても鈍い子も役に立った」とくすくす笑った。

 夏生は菜乃佳から最初に言われていたのだ。彼らは見栄っ張りだから、何を言われてもせつなそうに眉を寄せ、頼りなさげにほほ笑んでいれば間違いなく軍資金を出してくれると。実際に菜乃佳の家はわかりやすくお金がかかっていることを主張していた。

 こんな風に楽しそうに笑っている菜乃佳をあの両親は知っているのだろうか。そう考えると夏生の心境は複雑だった。

 とはいえ、菜乃佳はどこかで親を諦めながらその一方で親を許している節がある。菜乃佳の親も、娘の抵抗をどこかで喜んでいるのではないかと思った。でなければお金など出してはくれないだろう。それが夏生には眩しく映った。


 一見恵まれていそうに見えて実はそうでもないことがある。夏生はお金があれば幸せになれると思っていた。実際はお金だけあっても幸せとはいえないらしい。ないよりはあった方がマシという感覚のようだ。

 今の夏生には到底わかり得ない感覚でもある。少なくとも夏生はお金さえあれば幸せになれたはずだ。


 桜はお金持ちだ。その資金を使って夏生を助けてくれる。ただし、桜自身が使いたいお金ではなく、つまりお金はあっても桜自身はお金持ちではないという複雑なことになっているらしい。

 夏生にはその気持ちが痛いほどよくわかった。

 桜の資産の大部分は両親の保険金だ。やむにやまれず使ったとしても、あとで元の額まで戻しておきたいと思うようなお金だと桜は言っていた。夏生も同じように考える。

 だから、誰かのために使いたいのだと桜は言った。とても大切なお金だから寄付など他人に預ける気にもならず、世界や地域など自分の手に負えないような大きな枠ではなく、できれば自分で見定めた「誰か」の助けになりたいのだと。

 秀と巧も同じ意見らしい。秀が持っているお金も、秀自身が使おうとは思えないそうで、そこで巧と一緒に支援を始めたらしい。

 慈善活動ではなく支援活動。あくまでも支援なのだと彼らは言った。

「ただの自己満足だけどね」

 そう言った桜はさっぱりと笑っていた。

 夏生は羨ましさと同時に潔い笑顔だと思った。夏生なら他人のためには絶対に使わない。逆に大きな世界や地域にふわっと流して色んなことを薄めてしまいたい。一点に絞るなど怖くてできない。

 桜たちはここ最近は何かと忙しいらしく、菜乃佳から事の経緯をざっくり説明してもらっている。桜は夏生と菜乃佳が一緒に住むことを喜んでいるそうだ。






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