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硲153番地  作者: iliilii
第三章 サンクチュアリ
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端緒①

 ふと、見慣れないものが目の前を横切った気がして木内 夏生(きうち なつお)は錆びたブレーキ音を撒き散らしながら自転車を止めた。

「なにあれ」

 目を細めてみれば、空中をふよふよと漂うように飛んでいるのは真っ黒な生物だ。トンボよりも幅が広くチョウよりも幅の狭い真っ黒な羽をゆったりと動かし、真っ黒で細い胴体はトンボの倍ほどの長さ、その先がヘビのように左右にゆらゆらくねっている。

 夏生がこれまで見たことのない昆虫だ。羽の生えた小さなヘビにも見える。

 足があれば昆虫、足がなければヘビ。夏生は勝手にそう決め、もっとよく観察しようとその黒い生物の後を追った。

 尾を振りながら浮かぶように飛んでいる謎の黒い生物。軋む自転車をゆっくりこぎながら後をついていく夏生。住宅街を抜け、幹線道路を横断し、商店街を抜け、また住宅街を進む。

 夏生は観察しながら、おや、と思った。黒い生物は目的を持って飛んでいるような気がしてきた。あきらかに人を避け、歩道際を一直線に飛んでいる。しっかり横断歩道を渡り、途中で休むこともなく、一定の速度で規則正しく羽と尾を動かしている様は、まるで作り物のようだった。もしかしたら誰かが作った昆虫型ロボットかもしれない。そう考えて目を凝らすと、蔭に入るたびに黒い羽が薄らと光っているような気もする。細かな光が鱗粉のように飛び散っている。


「あれ、えっと、夏生ちゃん?」

 声の方に顔を向けた途端、夏生は舌打ちしたくなった。どうしてここでこの女に会うのか。

「どうしたの?」

 そう訊かれたところでこの女に答えられる適当な理由がない。強いて言えば——と考えたところで、夏生ははっとして辺りを見渡した。あの黒い生物がいない。夏生はもう一度舌打ちしたくなった。この女に話しかけられたせいで見失ったのだ。

 気付けば夏生はいつの間にかどこかの公園の様な場所に入り込んでいた。辺りは鬱蒼とした木々に囲まれ、いつの間に歩道を外れたのか、足元は砂利道に変わっている。

「あのさ、ここどこ?」

 夏生は苛立ちと屈辱の中、仕方なしに尋ねた。まるでこの女を頼っているように思われないか、実は心細いと思っていることを見抜かれないか、なにより、直前の「どうしたの」に答えたくない理由を夏生は知られたくなかった。

「ここ? ここは、うち?」

 夏生が何より苛つくのはこの女の話し方だ。やけにのんびりと、よくいえば優雅に、夏生にしたら間抜けな口調に所々発音のおかしな日本語は、方言のようなイントネーションとは少し違って聞こえる。おまけに自分の家なのに疑問形。この女は莫迦なのだ。

「うちを訪ねて来た……わけではない、よね」

 夏生はわざとらしく溜息を吐いた。

「違う。たまたま」

 もうひとつ夏生が苛々することは、この女が不躾にじっと人の目の奥をのぞき込むことだ。

「んー、と、そっか。ひとまずは、どうぞ」

 どうやら家に招いてくれるらしい。夏生は「この女の家」というより「シュウくんの家」に興味があった。


 夏生は時々保護される場所にやってくる「シュウくん」が好きだった。夏生のみならず、あそこにいた女の子は大抵「シュウくん」か「コウくん」のファンだった。「コウくん」はともかく、「シュウくん」には彼女はいないともっぱらの噂だったにもかかわらず、つい最近保護されたときに突然、「結婚した」と言って「彼女」ではなく「奥さん」を連れてきたのだ。「シュウくん」ファンにとっては青天の霹靂だった。

 目の前を歩く女の黒髪が優雅に揺れている。綺麗だった。そう、この女は綺麗なのだ。女優やモデル並み、もしかするとそれ以上の本物の美しさを持ち、それでいて高慢ではないのが「シュウくん」とよく似合っていた。夏生は初めて会った瞬間に、お似合いだ、と思ってしまったのだ。それが今でも悔しくて仕方がない。


 どこかの裏道、それとも抜け道なのか近道なのか、公園のような木立の中を抜けると、どこからどう見ても贅をこらしたであろう和風の家が現れた。

 いつの間にか日が傾き始めていた。

「ここ? シュウくんって、実はお金持ちだったの?」

「ここは私たちがお世話になっているタエさんのお家。ほら、表札に境井って書いてあるでしょ」

 女が指差した先には確かに境井と書かれたこれまた和風な表札が掛かっていた。その下には小さな木札が二つ並び、それぞれ「佐島」と「長内」と書かれている。「シュウくん」は佐島 秀、「コウくん」は長内 巧だ。風に吹かれた余韻なのか木札が微かに揺らめいて見えた。

 何かが引っかかった。風などそよとも吹いていない。ふと何かが動いた気がして、夏生はじっと目を凝らした。目札の間に不自然なほど真っ黒な影がある。よくよく目を凝らせばあの黒い生物だった。羽をたたみ、木札の間に丁度よく収まっている。捕まえられるだろうか。

 今度こそ目を離さないよう、夏生は静かに自転車を駐め、砂利の上を忍び足で進む。

 微かに光る羽が同じくらい微かに震えていた。まるで宇宙のようだ、と夏生は思った。

 ゆっくり慎重に指先を伸ばす。あと少しというところで、ぱん! と音が鳴った。その途端、黒い生物はするっと木札の影に吸い込まれるように消えた。破裂音が夏生の鼓膜の内にこもってわなないている。

 またあの女が邪魔をしたのか。夏生は今度こそはっきり舌打ちしながら振り返った。


 そこにいたのは怖い顔をした着物姿のババア。

「誰だい、このクソガキは」

 ぴしゃりとした物言いに夏生はびくっと震えた。

「シュウさんのところにいた、夏生ちゃんです」

「どうやって入り込んだ? 桜が引き入れたのかい?」

 夏生の代わりに答えた桜がババアの横で困った顔をしている。叱られている桜を見て夏生はいい気味だと思った。

「私が見つけた時にはすでに敷地内にいました」

 その途端、ババアも桜と同じように夏生の目の奥をのぞき込んできた。それは桜とは違って容赦がなかった。目を逸らしたくても躰が硬直したように動かない。じわじわと真綿で首を絞められるように苦しくなっていく。

 夏生が息を止めていたことに気付いたのは、ババアが夏生から目を逸らした直後だった。まるで水の中から顔を出したように、夏生ははあはあとみっともなく喘いだ。急に空気を吸い込んだせいで胸が苦しい。いつの間にか夏生の背中を桜が労るように撫でていた。桜のことは嫌いなのに、その手をどこかで喜んでいる自分が夏生は心底疎ましかった。

「桜、残念だけどこの子は表にも通せないね。寺に連れてってそこに泊まらせればいい。あそこなら何日泊まってもいいから」

 夏生は驚いてまたもや息が止まった。

「なんで?」

 息を吹き返すように訊いた。

「そのくらいわからなくてババアはやってられないんだよ」

 ぴしゃりとした小気味いいほどの啖呵だった。

「エスパー?」

「お前さんは莫迦なのかい? そんなさも家出してきましたって格好のくせに」

 夏生は舌打ちした。

「いいかい。自分を下げるような態度は改めた方がいい。自分が損をするだけだよ」

「夏生ちゃん、この人が私たちがお世話になっているタエさん」

 空気を読まない桜が夏生にババアを紹介した。タエ。この人が境井タエ。ときどき秀や巧が話していた人だ。こんなババアだとは思わなかった。もっと素敵なおばあさんを想像していた。

「まったく。ひねくれたクソガキだねえ」

 タエがわざとらしく大袈裟な溜息を吐いた。夏生はついに叫んだ。

「何がクソガキだ、クソババア!」

「お前さんがその態度を改めない限りクゾガキで十分」

 言いたいことだけ言ってタエはさっさと家の中に入っていった。着物だけは綺麗だった。

「ん、行こうか」

 桜が暢気な声を出した。夏生はうんざりした。

「別にいい」

「ほかに泊まるところあるの? 宿坊っていってね、ちゃんとした宿泊施設だから大丈夫」

 一体何を以てして「大丈夫」などと言えるのか。夏生はにこにこ笑う桜を思いっきり叩きたくなった。

 夏生の気持ちなどお構いなしで桜はくるりと背を向け歩き出す。仕方なく夏生も自転車のスタンドをいつもより強く蹴り上げ、桜の後に続いた。確かに桜の言う通り、ほかに泊まるところはない。十五歳の夏生を泊めてくれるホテルなどない。

「そこ、未成年なのに泊めてくれるの?」

「んー本当はダメなのかな。でも、たぶん大丈夫」

 桜は振り向くことなく、暢気な声を出した。だからなにが「大丈夫」なのか。夏生は苛々した。

「夏生ちゃんの親御さんが捜索願を出したら、明日は帰らないとまずいかな」

「出すわけないよ」

「じゃあ、大丈夫だね。不審がられる前に適当に顔を見せて、普段はここに泊まっていればいいんじゃないかな」

 桜の他人事のような暢気な口調に夏生は苛立ちながらも、言っていることは納得できる内容だった。確かに一日二日ならいなくても不審に思われない。それは過去の経験からわかっていることだ。さすがに三日以上姿を見せないと少し拙いことになる。もし捜索願を出すなら五日目だろう、と夏生は考えていた。

「お金ないけど」

 宿泊施設というには当然宿泊料がかかるのだろう。

「ん、大丈夫。基本的に宿坊だから旅館やホテルとは違って自分のことは自分でしなければならないの。自分が使ったシーツを洗ったり、お布団干したり、お部屋の掃除したりね。で、調理のお手伝いや、共用部分の掃除を手伝ったり、あとはそうだなあ、外の掃除でもしたらその対価を宿泊費を充ててくれると思う」


 のんびりと桜が説明しているうちにその宿坊という場所に着いた。

 森林公園のような場所を抜け、夕日に照らされた歩道を歩き、まっすぐ立つ木に囲まれた石段を上がる。脇にちゃんとスロープがあった。車いす用にしては細いし急だから自転車用だろう。

 石段を上がりきると広々とした広場の先に京都のお寺みたいな立派な建物がそびえていた。

 桜はそこをそのまま素通りし、再び木々の間を縫う小径をほんの少し歩くと、夜の始まりの中にあって煌々と明るい、これまた立派な旅館が姿を現した。旅館ではなく宿坊か、と夏生は頭の中で訂正する。

「こんばんはー、桜です」

 桜が玄関を開け、いつも以上に間延びした声を張り上げる。夏生は入り口の脇に自転車を止め、桜の後ろに隠れるように立った。広々とした玄関は老舗旅館のような風格が漂っている。桜の声の余韻が消えない間に、奥の受付から物凄い勢いで何人かの人が走って来た。

「これはこれは桜さま、いかがなさいました」

 思わず夏生は桜を見た。

「桜さま?」

「そうなのよね、やっぱりさまは大袈裟よね」

 桜が困った顔で夏生を見返す。それに慌てふためく濃いグレーの作務衣を着た男の人。おそらく宿坊の従業員だろう。宿坊というくらいだからお坊さんなのかもしれない。それにしては出迎えた同じく作務衣を着た人たちは誰の毛もふさふさだ。女の人もいる。

「何を仰いますやら。して、そちらのお嬢さまは?」

 夏生は一層深い疑いの目を桜に向けた。

「お嬢さま?」

「そういうものだと思って、気にしないで」

 困った顔の桜は少し情けなさそうに笑った。

「彼女は夏生さん。しばらく泊めていただきたくて。お部屋空いてます?」

 桜が「今日」ではなく「しばらく」と言ったことに夏生はほんの少しだけ泣きそうになった。

「すぐにご用意いたします。夏生さまのお気が済むまで、ご自由にお過ごしください」

 夏生は面食らった。桜に答えた作務衣の男の人は五十代ほど、全体的にふっくらとした優しそうな人という印象を受ける。夏生を見る視線が柔らかい。

「夏生ちゃん」と呼びかけた桜の目は思い掛けず真剣で、夏生は何を言われるのかと身構えた。

「私たちは直接助けてあげることはできない。だけど、ここに逃げ場所を用意することはできるから、いつでも逃げておいで」

「いいの?」と夏生は面食らったように訊いた。

「いいよ。だからね、夏生ちゃん。どうしてもダメそうなら決める前に言って。必ずなんとかするから」

「誰に聞いたの?」

 訝しむ夏生に、桜は目元を和らげて言った。

「誰にも聞いてないよ。でも夏生ちゃん、見えたでしょ」

 はっとした。桜がなんのことを言っているのか夏生にはわかった。あの黒い生物のことだ。

 あれはなに、と訊こうとして夏生はやめた。あれはきっと口にしてはいけないものだ。だって禍々しかった。禍々しかったから、夏生はついていこうと思ったのだ。捕まえようと思ったのだ。

「少しでも光ってた?」

 桜ののんびりした声が沁み込むように夏生の中で響いた。

「うっすら光ってた」

「そうだと思った。大丈夫。夏生ちゃんは大丈夫だよ」

 桜がにこにこ笑っている。今度は苛々しなかった。夏生は意味もなく泣きそうになって、鼻の奥がつんと痛むのを堪えた。喉に何もかもぶちまけたい衝動が込み上げる。夏生は奥歯に力を入れて口を強く引き結んだ。

「ではお嬢さま、食事の前にお風呂にしましょうか。ご案内します」

 作務衣を着た女の人がにっこり笑いかけてくる。夏生はもう三日もお風呂に入っていない。電気もガスも止まっていた。

 スリッパに履き替えるときに靴下の汚れが気になった。脱いだ靴はボロボロだった。

「長旅だったようですね。ゆっくり湯船に浸かって、今日はぐっすりお休みください」

 作務衣の女の人の声ものんびりしていた。長旅——その通りだった。

 振り返ると桜が笑っていた。小さく手を振ってもいる。夏生はほんの少しだけ頭を下げ、作務衣の女の人を追いかけた。






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