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硲153番地  作者: iliilii
第二章 エリアCLⅢ
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招待①

 緊急を要すとして官邸に呼び出された宇都見 義直(うつみ よしなお)は居並ぶ政界のトップたちを前に表情を強張らせていた。彼らの宇都見を見る目が尋常ではない。

「これを」

 一切の説明もなく官房長官から差し出された滑らかな厚手の和紙。二つの折り目の中央に自分の名前だけが毛筆で縦書きされている。宇都見は訝しみながらもそれを受け取った。

 その途端、空白だった左右の余白にあぶり出しのように文字が浮かび上がった。

 驚く宇都見を見た閣僚たちはそれぞれ口惜しそうに小さく唸っている。

「なんと書いてある」

 問いかけよりも命令に聞こえた総理の声に、驚きから放心していた宇都見は我を取り戻し、一瞬にしてその内容を精査する。


 中央には「宇都見 義直」の文字。

 その右側には、「九月二十七日 日暮れ」と浮かび上がっている。

 同じく左側に浮かび上がったのは、「宇都見 義直 様 お忙しいとは存じますが、ご都合がよろしければお越しください 佐島 秀」という個人的な文言。


 宇都見は数日前に秀から届いていたメッセージを思い出す。

『お久しぶりです。議員生活楽しまれていますか? 本日先輩に招待状のようなものを送らせてもらいました。誰よりも努力している人を個人的に一人だけ招待していいとのことで(この辺の詳しい説明は会ったときにでも)、旨い飯と酒を用意して待っています。先輩の多忙さは重々承知していますが、もしご都合がつくようでしたら是非』

 それに日時と地図データが添付されていた。

 秀は宇都見と同じ大学の一年後輩だ。妙に馬が合い、卒業した今でも付き合いが続いている。最近になって引っ越したとは聞いていた。その下宿先への招待だとばかり思っていたら、これは一体。

「おい、ほかにはなんと書いてあるんだ」

 居丈高な閣僚の声に宇都見は正直に話すべきか逡巡した。

 彼らは食い入るように手渡された紙面を凝視している。そのわりに内容を訊いてくるということは、彼らにはこの文字が見えていないのではないか、と宇都見は推測した。奇妙な現れ方をした文字だ、宇都見以外に見えていない可能性もある。「ほかには」と口を滑らせた外務大臣の言葉と彼らの視線が紙面の左には集中していないことをざっと確認した宇都見は腹を括った。

「九月二十七日、日暮れ、それと、お忙しいとは存じますが、ご都合がよろしければお越しください、と書かれています」

 個人情報を省いただけだ。いくらでも言い逃れはできる。

「行くんだろうな」

「いえ、当日は勉強会がありまして……」

 少し遅くなるがいいか、と宇都見は返信していた。

「そんなものはどうでもいい!」

 そんなものを若手議員に強要しているのは自分たちだろう、との反発を宇都見は呑み込んだ。

 宇都見は無所属ながら若手議員が中心となっている党派を超えた勉強会に参加している。無所属でありながら横の繋がりができ、有意義な意見交換ができる反面、その根底には昨年の解散総選挙で予想を超えた当選者数を出した無所属議員を取り込もうとする各党の思惑が透けているのだ。

「宇都見くん、エリアCLⅢ(シーエルスリー)という言葉を聞いたことはあるかね。まあ、掛けなさい」

 宇佐見は自分に向けられた官房長官の穏やかすぎる声と作り笑いを内心で訝しみながら、聞き覚えのある「エリアCLⅢ」というフレーズを記憶から漁る。

「失礼します」と声を上げ、宇都見は示された革張りの肘掛け椅子のひとつに腰をおろした。その位置は末端の議員が座ることなど到底許されるはずもない、より上座に近い場所だ。示された以上仕方がないと従ったもののなんとも据わりが悪い。

 上座から総理、その正面に官房長官、その隣に宇都見、宇都見の正面には外務大臣が腰をおろし、宇都見の横には財務大臣が軽く宇都見に躰を向けるように座っている。

「噂だけは存じております。たしか、エリアCLⅢに覇王の光あり、でしたでしょうか」

 馬鹿馬鹿しさをおくびにも出さず、宇都見はあくまでも謙虚に答えた。

「そのエリアCLⅢに君は招待されたのだよ」

 官房長官から差し出された封筒の裏には「硲一五三番地」と毛筆で書かれている。一瞬意味がわからず眉を寄せた宇都見は、頭の中でCLⅢが153に変換された途端軽く息を呑んだ。

「この石偏に谷とは……はざま、でよろしかったでしょうか。勉強不足で申し訳ございません」

「そう、はざま、と読む。S区に実在する住所だ」

 宇都見に硲などという地名の覚えはない。宇都見は生まれも育ちもS区だ。知り尽くしていると思っていた地元に未だ知らない地名があったことを心底恥じ入った。

「勉強不足で恐縮ですが、硲とはどの辺りを指すのでしょうか」

「いや、知らなくて当然だ、硲はただ一カ所を示すだけの地名だ。一般には公表されてもいない。番地も百五十三のひとつしかない」

 おいおい、シュウは一体どこに下宿しているんだ。宇都見は頭の中で呟いた。当日見るつもりで添付されていた地図の確認を怠ったことを後悔した。

「当日は時間厳守だ。それから——」




 エリアCLⅢにおける一通りの作法を教わった宇都見は、帰りの車の中、車通りのない脇道に停車し、件の後輩に電話をかけた。すでに深夜に近い時間だ。万が一寝ていたとしても、たたき起こすつもりでコール音を聞いた。

 ビルの隙間に曇りのない半月が浮かんでいた。これが膨らむと中秋の名月になる。

『もしもし、宇都見さん、お久しぶりです』

 僅か三回のコール音の後にイヤホンから聞こえてきた暢気な声は宇都見をほっとさせると同時に苛立たせもした。

「お前、どこになに送ってるんだよ」

『ああ、届きました? やっぱり拙かったですよね。何度拙いって言っても大丈夫だからって押し切られてしまいまして。申し訳ないです』

 素直に謝られると苛立ちのぶつけようがない。この後輩は妙に実直なところがあるのだ。だからこそ、宇都見はこの後輩との付き合いを続けていられる。立候補した途端、手の平を返すように擦り寄ってくる者や離れていく者が多い中、今でも宇都見が自発的に交流を続けているのは、その前後でなにも変わらなかった者たちばかりだ。彼もそのうちの一人だった。

「いや、拙いというか、どういうことなんだ、一体」

『実は俺もよくわかっていなくて。ただ、宇都見さんのことを話したら、今後に必ず役立つって言われたんですよ』

 宇都見は直前の空気を思い出し身震いした。あの瞬間から閣僚たちの宇都見を見る目が変わった。激変と言ってもいい。帰りがけに総理から直々に食事に誘われたくらいだ。あの時の擦り寄るような声音はできれば聞きたくなかった。家まで送ると言い張る官房長官を自分の車で来ていることを理由になんとか断ってもいた。ちなみに自分で運転してきたと言ったら、万が一を考え自分で運転することは控えるよう注意された。

 これまで最年少当選という軽んじてくださいと言わんばかりの肩書きだけを持つ議員が、たった一通の知らせによって目に見えない地位を一気に引き上げられた。こうしている間にも割り込み電話の通知がしつこく続いている。ディスプレイに浮かぶのはあの場にいた閣僚の一人だ。

「明日会えるか?」

 幸いにして明日は日曜だ。都合のいいことに二人に共通する場所への視察が予定されていた。

『宇都見さん、予定は? 確か明日って』

「そう、悪いがシュウも顔出せるか?」

 一刻も早く事態を把握したい。あそこなら密談するに適している。


 通話を終えた宇都見は自宅へと向かう道中、今の会話を頭の中で何度も繰り返す。お互いに核心に触れることは一切話していない。それだけでも、通話相手が事態を大まかに把握していることがわかる。万が一盗聴されていたとしても言い逃れできる内容だ。おそらく宇都見はあの瞬間からマークされているはずだ。バックミラーを見たところで相手がプロなら尾行されているかなど素人にわかるはずもない。

 熟慮を終えると同時に車は自宅に到着した。宇都見は「充電切れってことで」と小さく呟きながらスマホの電源を落とした。


「じーさん、悪いが起きてくれ」

 宇都見はS区の実家で祖父の源三と妹の奈緒美の三人で暮らしている。妹の大学卒業を機に、両親は二年前から父の転勤で北陸にいる。せっかく二世帯に建て替えたというのに、好んで地方転勤を繰り返す父の赴任先に母も同行するようになり、行く先々から食い道楽の父が定期的にその地の名産を送ってくる。

「なんだ、義直、今帰ったのか」

 一階の和室で寝ていた源三を宇都見は部屋の明かりを点けないままたたき起こした。源三(げんぞう)は動じることもなく落ち着いた仕草で身を起こした。襟元を正す源三は、昔から寝間着に浴衣を愛用している。祖母は父の結婚前に亡くなっており、宇都見は写真でしか知らない。

「起こして悪いなじーさん、硲153番地について教えてくれ」

 途端、廊下からの薄明かりに浮かぶ源三の顔が強張った。

「知ってるよな、元S区長なんだから」

 視線で問い掛けてきた源三に宇都見は内ポケットから宇都見の運命を変えようとしている一通の手紙を差し出した。

「なんだ、お前も呼ばれたのか」

「ってことは、じーさんも呼ばれたことあるのか」

 驚く宇都見に源三が苦笑いする。

「だから、立候補したんだよ」


 元教師だった源三は定年の翌年に区長に立候補し、見事当選している。財政難だったS区を源三は地道に立て直していった。二期連続の区政は後半になるにつれ安定し、安定したことで三期目は派手なパフォーマンスを繰り広げた四十代の若手候補者に敗れた。

 区政の若返りを声高に叫んだ新区長は、源三が苦労して立て直した財政を再び傾け、区民の嘆願により、源三が再度区長に返り咲いた。そこから再度二期連続で区長を務め、高齢を理由に源三が引退した翌年、孫の宇都見がいきなり国政に打って出たのだ。

 無党派層の多い選挙区だったことが幸いし、選挙中その傍らには常に源三が寄り添ったことが決め手となり、圧倒的な支持で最年少議員が誕生した。


「今日官邸に呼ばれたよ」

「私も呼ばれたよ。公務員の場合は政府に通知が行くらしい」

 じーさんもかあ、と顔をしかめる宇都見に、源三は頬を緩めた。外では政治家らしく常に表情を繕っている宇都見も、家に帰れば二十代後半のただの男だ。

「エリアCLⅢだってよ。どんなクソゲーかと思ったよ」

「外でそんな言葉使うなよ」

「使うかよ。硲百五十三番地でいいだろうに、なんでエリアCLⅢなんだよ。なんで英語とローマ数字混ぜるんだよ」

「幕末かその辺りで西洋かぶれしたんだろうよ」

「これっていつから?」

「文献では平安時代まで遡るらしい。徳川の時代が長く続いたのも、都が京都から東京に移ったのも、硲の地が東京にあったからだと言われているくらいだ」

 さすがに眉唾だろう、と呟く宇都見を見る源三の目は優しい。

「なあ、じーさんここ読める?」

 宇都見にしか見えなかったであろう自分の名前の左側を指差す。あの場にいた閣僚たちにはどうも右に記された日時は見えていたらしい。彼らの視線は右にばかり集中していた。

「いや、招待された者にしか見えないようになっているらしい」

「じーさんの時はなんて書いてあったんだ?」

「源ちゃん待ってるから。絶対に来てね」

 宇都見は、ぽかんと間抜け面を晒した。

「あそこに住んでいるタエちゃんとは幼馴染みなんだよ。これの前にも後にも何度か寄せてもらっている。子供の頃などそれこそあの辺り一帯を駆け回っていた」

 秀から送られていた地図はすでに確認済みだ。それは宇都見の実家から直線距離で二キロほど離れた、S通りとN川に挟まれた一画を指していた。宇佐見が知る限り、そこには神社と寺が隣り合う希有な場所のはずだった。

「俺はここに下宿しているシュウが大学の後輩なんだよ」

「そうか、代替わりするのか」

 宇都見の耳は源三の声に滲んだ淋しさを聞き分けた。おそらく身内にしかわからないニュアンスだろう。

「ここに呼ばれて何すんの?」

「なにも。ただ飯食って酒飲んで寝るだけだ。私はその時に限ってどれ一つ満足に出来なかったが、お前はどうかな」

「招待されるのは俺だけ?」

「いや。何人か呼ばれているはずだ。ただなあ、タエちゃんたち硲の人間はわかるんだが、ほかにも何人かいる気配はするんだが実際にどんな人がいたかは覚えていないんだよ」

「議員たちの間でまことしやかに囁かれているんだ。エリアCLⅢに覇王の光ありって」

「覇王とはまた、大袈裟な」

 源三が声を上げて笑う。

「だろ? だからクソゲーって思ったんだよ」

 源三が布団の上で居住まいを正した。それに倣い宇都見もきっちり正座する。

「義直、その日その地に足を踏み入れるとき、己の内にある最たるを望みなさい」

「まさか、叶えられるのか?」

「叶う。そのために呼ばれるのだ。ただし、高望みはするな。破滅する。己の内に存在する最たる望みをしっかり見極めなさい」

「それはさ、すげー美人で賢く慎ましい嫁が欲しい、とかでもいいわけ?」

「いい。それがお前の最たる望みであり、己を省みぬ高望みでなければな」

「つまり、じーさんは叶ったんだな」

 ふっと穏やかに笑う源三は何を望んだのだろう。宇都見は風呂に浸かりながら取り留めもなく考えた。







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