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硲153番地  作者: iliilii
第一章 風が光るとき
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二十六回目 夏闌④

 明かりを落とし、並んだ布団にそれぞれ横たわり、「おやすみ」とどちらともなく呟いた秀と巧は、次の瞬間には朝を迎えていた。

「すげー。こんなぐっすり寝たの久しぶりだ」

 目が覚めた瞬間に聞こえてきた巧のいつにない快活な声に、秀は誇らしさを感じた。住み始めて数ヶ月だというのに、すっかりこの家を自分のテリトリーだと認識している。長く住んだ施設でさえこんなふうに感じたことはなかったというのに。

「おはよう」

「おはよう」

 巧が布団の上でぐうっと筋肉質な手足を伸ばす。秀も同じように手足を伸ばし、身体を起こした。

「たぶんこの家なんだろうね」

「だよなあ。昨日布団に横になった瞬間から目が覚めるまで一瞬の感覚だよ。夢すら見ない。寝起きが爽快。これが毎日かあ」

 ともに起き上がり布団を畳む。無意識下のリズムは施設で同室だった頃に培われたものだ。

「ここに住むようになって、ずいぶん健康になった。違うな、それまで健康だと思っていたのに、実は不健康だったってことを日ごと思い知っていく感じだ」

「だろうなあ。旨い飯と質のいい睡眠、すげーな本当」

 もう一度ぐうっと腕を真上に伸ばした巧が障子を開け、窓を開けた。早朝の澄んだ風と一緒に耳に飛び込んできたのは様々に交じり合う蝉の声。慌てたように窓を閉める巧を見て、秀は声を上げて笑う。

「これさえなきゃ最高なのに」

「でも、この敷地内で今のところ蝉の死骸は見たことないよ」

 クローゼットから買い置きのワイシャツを巧に渡す。秀と巧はサイズが同じだ。さんきゅ、と受け取った巧が先に洗面所に向かった。この順番もまた、同室だった頃の名残だ。


 身支度を整えダイニングに顔を出すと、すでに朝食の支度は調っていた。タエの朝は早い。夜明けとともに起き出し、畑の手入れと同時に収穫し、秀が起き出す頃には朝食の準備が終わっている。それでいて夜更かしも平気でする。睡眠の帳尻は昼寝で合わせているのだといつだったかタエが言っていた。

「おはようございます」

「おはようさん。今朝は太刀魚だよ」

 声を揃えた男二人に、タエがにこやかに返してくる。

「よく眠れたようだね」

「そりゃあもう。ここにいるだけでストレスが消えていくようですよ」

「コウはこっち側だからね」

 どういう意味かと男たちが顔を見合わせる中、タエは意味深に笑いながら台所に引っ込んだ。秀がすぐ後を追い、盆に用意されていた三つのご飯茶碗を運ぶ。それに続くようにタエが味噌汁を運んできた。

「いただきます」

 席に着くとすぐに三人の声が揃った。

 黙々と口を動かす。塩で焼いた太刀魚は脂がのっていて旨い。タエは魚を欠かさない。馴染みの魚屋がその時期の旬を週に一度か二度、朝のうちに配達していく。それをタエは一夜干しにしたり、味噌や麹で漬けたり、日々工夫して食卓に並べている。

「俺、生まれて初めて太刀魚食べました。すごく旨かったです」

 食後にタエが淹れたお茶を飲みながら巧がタエの料理を賞賛する。

 実は秀もだ。太刀魚がこの食卓に並ぶのは今日で二回目だが、それ以前に口にしたことはない。これほど旨い魚を今まで知らずにいたのかと軽い後悔を覚えたものだ。

「そうか?」

「そうですよ。普段食べる機会なんてないですから。梅干しや漬け物も旨かった。あんなに具だくさんな味噌汁も初めてです」

「夏と言えば江戸前の太刀魚だけどねえ」

 タエにとっては当たり前なのだろう。巧の「へえ、夏と言えばウナギだと思っていました」にタエが呆れ顔で「ウナギの旬は冬だよ」と返している。

 秀も巧もそれほど食にこだわりがない。腹が膨れればそれでいいという程度だ。

「それにしても、シュウもそうだけど、コウも食べ方が綺麗だね」

「ああ、施設のことは聞いてますか?」

「聞いた。なるほど、いいところで育ったね」

 巧が説明する前にタエは理解してしまった。

 秀たちがいた施設では、特にしつけやマナーに力を入れている。箸や鉛筆の持ち方、和洋の食事のマナー、立ち振る舞いや様々な作法に至るまで、中学卒業までに徹底的に覚えさせられる。取得当時に反発心がなかったとは言えないが、社会に出ればひたすら感謝した。おかげでどんなシーンでも物怖じせずに済んでいる。

「そうだねえ」と思案顔のタエが言った。「シュウが米ならコウは肉でいいよ」

「光熱費も払います」

「メーター分けてないんだよ」

「じゃあ、三分割で」

 どうやら空き部屋が埋まりそうだ。

「コウが秋に来たら、二人とも分け目を手伝って欲しい」

 タエの願いに、二人は顔を見合わせた。

「いや、俺まだこっちに住んでるわけじゃないんで」

「住むよ。秋にはここに住む」

 タエの揺るぎない声に、もしかしたら、と秀は思った。

「タエさん、俺がここを訪ねたときも、タエさんの中では俺がここに住むことは決まってましたよね」

 それに関して、秀には妙な確信があった。

「決まってたよ。コウがここに住むことも、シュウに繋がる娘がここに住むことも、始めから決まってる」

「さっ、彼女もですか?」

 思わず桜と口にしそうになった秀は慌てて言い換えた。

「隠さなければならないのはお前さんたちだけだよ」

「そうなんですか?」

「会ってみなければはっきりとは言えないけどね。ひとまずハルとでも呼んでおけばいいよ」

 ハル、と聞いて秀ははっとした。

 春が来た。

 耳の奥に蘇るかすれ声。

 彼女の母親が残した唯一の言葉だ。もしかしたらあれは、ただ春という季節を数えていたわけではなかったのか。そもそも何を基準に数えていたのかを秀は知らないままだ。

 秀は驚愕の目をタエに向ける。タエは一体何を知っているのか。

「タエさんは二人のうちどっちかと血縁があるんですか?」

 巧のさりげなくも緊張を孕んだ声に、秀の目が一層見開かれていく。

「似てるのか?」

「すごく。間違いなく血の繋がりがある」

 それにタエがさも可笑しそうに声を上げて笑い出した。それはつまり、違うということなのか。実際に似ていると言われた秀と桜に血の繋がりはない。面食らう男二人を残して、タエは笑うだけ笑うと答えることなく後片付けを始めた。

 置いてけぼりを食らった男二人は顔を見合わす。巧が気を取り直すように秀に訊いた。

「さっきの、わけめってなんだ?」

「季節の変わり目のことで、その日、来客がある」

 それがタエの仕事のようだ。これだけの設備を維持できるタエの財力はそれによって築かれている。

「分かれ目って、春分とか秋分とか?」

 食器を下げるタエを手伝いながら、秀が答える。

「違う。タエさんが決めるらしい。この年の春と夏の分け目はこの日って、だいたいひと月前に決まるらしい。俺もまだ実際に手伝ったことはないんだ」

「ってことは、夏と秋の分け目を初めて手伝うことになるのか」

「もしかしたら、コウはその時点でこの家に住んでるのかも」

「まだこっちにいつ戻れるか決まってないんだぞ」

 台所にいるタエを意識してか、巧の声が潜められた。

「たぶんタエさんが言うなら決まってるんだよ。そう思わないか? コウだってすでにここに住む気になってるだろう?」

 テーブルを台布巾で拭きながら答える秀に、巧が神妙な顔で考え込んだ。

 秀は自身の感覚からそういうこと(、、、、、、)という理屈ではないものを素直に呑み込むことにしている。そうでなければ風が光って見えることも、桜と繋がっていることも否定しなければならなくなる。

 おそらくその感覚を巧も持っているはずだ、と秀は確信している。

「血の繋がりじゃなければ、なんだろうな」

 その呟きに秀は肩の力が抜けた。確信も何も、巧はすんなり呑み込んでいた。

「コウって素直だよな」

「なんだよそれ。こういうことは理屈で考えても仕方ないだろ」

「そうだけど」

 互いに照れ隠しで笑い合っていたら、タエが桃を三つ持ってきた。

「うわ、俺今年初だ」

「俺もだ」

「寺に生った桃だよ」

 隣り合う神社や寺からタエはよくお裾分けをもらう。氏子さんや檀家さんたちがタエの家に寄っては何くれと差し入れしていくこともある。代わりにタエは畑から相手が好むものを分け与えるのだ。昔ながらの物々交換で成り立っている近所付き合いが秀には新鮮に映る。

「タエさん、血の繋がりじゃなければなんですか?」

 目の前で手際よく桃を剥くタエに、巧は意を決したように訊いた。ぺろんぺろんと皮が面白いほど簡単に剥けていく。ほれ、とタエから手渡された桃を巧が感心したように見入っている。

「さっきも言っただろう、コウもシュウもこっち側。そういうこと」

 秀にも丸々とした桃が手渡される。

「なあ、コウは自分のことはわかるのか?」

 秀の疑問に巧は自嘲気味に笑う。

「わからないんだよ。鏡や写真に映るわけじゃないから」

「お前さんたちは同じだよ。二人とも同じ」

 軽やかに言い放ったタエが桃にかぶりついた。男たちも手渡されていた桃にかぶりつく。口の周りを果汁で汚しながら旨い旨いと平らげた。

 食べ物を前にすると複雑な思考はストップする。特にそれがこのうえなく美味だった場合、食べながら考えることは不可能だ。味わうことに集中してしまう。

 濃い桃色の種だけを残し、秀はタエが用意してくれていたおしぼりで口や手を拭う。かぶりついて食べる、その行為は生きものとして食の充足感をいつも以上に与えてくれた。

 同じようにおしぼりを使い終わった巧が口を開いた。

「で、二人とも同じとは?」

「言葉通りだよ。シュウもコウも同じように生まれている」

「同じように、ですか?」

 思わず声を上げた秀にタエはほんの少しの愁いを滲ませながら笑った。

「そのうちわかるだろうよ」







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